ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部㉔話「ディアヴァルとハゲタカ」 雨が降り始めた。大粒の水滴がバタバタと音を立てて天から落ちてくる。だが、ディアヴァルは雨を避けることも思いつかず、ただ呆然と女王の亡骸によりそって涙を流し続けていた。雨と涙がいりまじり、冷えた地面へと吸い込まれてゆく。
深い悲しみの底に沈んでいたディアヴァルを現実に引き戻したのは、頭の上を過る影と大きな羽音、そして全身に打ち付ける風だった。
頭を上げると、目の前に一羽のハゲタカが降り立っていた。ハゲタカの身体はディアヴァルの何倍も大きい。風はその翼が巻き起こしたものだったのだ。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。悲しみの深みから意識が引き剥がされたばかりで混乱している彼の目の前に、更にもう一羽のハゲタカが舞い降りてきた。
二羽は最初は用心深く距離を取っていたが、じわじわと距離を詰めてくる。そこでやっとディアヴァルは恐ろしいことに気がついた。
……こいつら、彼女を食べるつもりだ!!
今は先客の(ように見える)カラスを警戒してためらっているのかも知れないが、すぐに遺体を食い荒らそうとするだろう。
駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!!
それだけはさせられない!!
一羽のカラスが二羽のハゲタカに勝てるはずもない。
それでもディアヴァルは、女王を守らねばと思った。
また置いてゆかれる位なら、ここで戦って斃れ、共に枕を並べる方がましだ。
彼は、自慢の翼、女王がいつも愛でてくれた美しい漆黒の翼を広げると、女王の亡骸を飛び越えて、ハゲタカたちの前に立ちふさがり、ガア!! と一声、威嚇した。
ハゲタカたちは、最初は驚いた様子であとじさった。
二羽が困惑しているのが見て取れた。カラスとは普通なら一緒に肩を並べて死体を漁る関係だ。死体を独り占めしようとするカラスに出会うなんて初めてのことだろう。ハゲタカたちの目に用心深い光が宿る。彼らはあたりを見回し、こちらをよく検分しているようだった。今、意志をくじかなければチャンスはないだろう。
ディアヴァルは更に一歩前へ出て、精一杯の大声で「ガアアア!!」と叫んだ。
だが、ハゲタカは簡単には獲物を諦めなかった。少しばかり後ろにさがったが、結局、見た目通りのただのカラスだと確信したのだろう。ハゲタカの片割れが一歩、前に出た。
ディアヴァルは女王とハゲタカの間に立ちはだかり、その場を動かず威嚇の声をあげ続けた。
だが、もう一羽のハゲタカも前に出てきた。
ディアヴァルは全身の羽毛を逆立て、精一杯背伸びして胸を張り、さっと翼を広げて、「ガァ!」と威嚇した。
ハゲタカたちは、一瞬ビクッと尻込みした。
ディアヴァルは、さらに大きく翼をばたつかせ精一杯の大声で「ガァ! ガァ!」と畳み込んだ。
だが、ハゲタカたちは、もう怯まなかった。
二羽は一度に突進してきた。ディアヴァルを無視して女王の亡骸へ掴みかかろうとしている。ディアヴァルは必死だった。ハゲタカの片割れに飛びかかると鋭い嘴で思い切り突きを入れた。
ハゲタカはたかがカラスと舐めていたので、不意を突かれて嘴で身体を突き刺された。だが、その傷はハゲタカを倒すほどのものではなく、逃げるどころか怒って反撃してきた。
騒ぎに気づいたもう一羽のハゲタカも振り向いて加勢してくる。
ハゲタカも馬鹿ではなかった。何度もディアヴァルを挟み撃ちにしようとしてきたのだ。だが、身軽さではディアヴァルが一枚上だった。何度も上手く身をかわして攻撃から逃れ、ハゲワシの頭や翼を果敢に蹴飛ばした。
だが、相手は二羽。自分は一羽だけ。繰り返される攻撃を避け続けているうちに、ディアヴァルは次第に疲れてきた。そして、何度目かの挟み撃ちにあったとき、ほんの少し身をかわすのが遅れてしまったのだ。
一瞬の遅れが運命を決めた。
背後から襲ってきたハゲタカに背中を掴まれてしまったのだ。
しまった!! と、思ってももう遅かった。次の瞬間、背中に鋭く激しい痛みが走り、身体の力が抜けて何もできなくなった。
ハゲタカが彼の背骨を噛み砕いたのだ。
ハゲタカたちは身動きしなくなった邪魔なカラスを放り出すと、いそいそと『ごちそう』の方へと去っていった。
後には動くことも出来ず、冷たい雨に打たれながら慈悲深い死を待つばかりのディアヴァルが残された。
視野がだんだん暗くなってゆくなかで、すぐ近くで肉を引き裂き飲み込む音が聞こえてくる。
彼女を守れなかった……。
ディアヴァルの目から悲しみと怒りと悔しさの入り混じった涙がこぼれ落ちた。自分は世界で一番大切な人を守れないまま、ここで死んでいくのだ……。なんでこんなことになってしまったのだ。何か、出来ることはなかったのか。
薄らぐ意識の中でそう思ったそのあとは覚えていない。
気がつくと、真っ暗ななかで何も見えず、聞こえず、ただそこに存在していた。
……ここはどこだろう? 死後の世界? 自分はどうなったんだ。
とりとめない想念が泡のように浮かんでは消えてゆく。
と、その時。
闇の中にひとつの顔が浮かび上がった。
ディアヴァルは、その顔に見覚えがあった。
あの鏡の男だ。
女王がいつも問いかけていたあの鏡の中に現れる、レースのような隈取模様のある男の顔。
顔は黙って彼を見つめている。いつまで待っても顔は何も言わない。
その顔と見つめ合っているうちに、ディアヴァルはだんだん腹が立ってきた。
こいつはなんで黙っているのだ。何もかも失った俺を見物しにでもやってきたのか?
『俺は見世物じゃない。見てるだけならとっとと失せろ。そうじゃないなら何か言えよ』
そう思った。声を出せたのかは定かではない。身体の感覚はまるでなかったから。
と、鏡が口を開いた。
『答えには問を』
『答えには問を……? どういうことだ。聞かれたことなら答えるってことか』
『是である。我は問に答える者』
『は! なら教えてくれよ。あの方を蘇らせる方法をな!』
『方法はある』
『な……!』
ディアヴァルは絶句した。こいつの言っていることは本当なのだろうか?
『ならそれを言え』
『力を集めよ。さすれば復活は叶う』
『力だと? どういうことだ?』
『闇の魔力を集めよ。十分な力があれば願いは叶うであろう』
『闇の魔力? この俺が? ただのカラスの俺が? はっ! どのみち出来やしないじゃないか』
『…………』
鏡の男は無言のまま、ディアヴァルを見つめている。
と、男の顔が薄れ、目の前にどこかで見たことのある光景が現れた。
ああ。これは、あの樫の木だ。妖精の森の奥、真実の泉のほとりのあの樫の木。
だが、これがどうして?
と、思った時、視点がすっと樫の木の中に入り込んだ。
そして、樫の木に安置したあの黒い石が視野いっぱいに広がった。
男の声が聞こえてきた。
『力の源である』
まさか、あの石にそんな力が? これがあれば彼女を黄泉帰らせられる?
すると、その心を読んだように男が言った。
『これ一つでは足りぬ。これは最初の一歩となろう』
だが、自分は死んだのではないか。死んだ身の上で今更何が出来るというのだ。
『契約せよ。闇の盟約を交わすならば、汝に今一度の生と永遠の若さを与えよう』
おかしい。死んだものは十分な力を集めれば蘇る、というのに、いますぐ俺を復活させられるのなら、なんで彼女をいま、蘇らせることが出来ないんだ。
『汝は未だ死んではおらぬ。生者の傷を癒やすはたやすいこと』
そうか。俺はまだ生きていたのか。
ならば、もう一度、生きて足掻いてみよう。あの方を取り戻す方法があるというのなら。
『答えよ。契約か、否か。生か、死か』
『契約……しよう。お前の力を俺の為に使え。俺はお前の言う「闇の力」を集めよう』
『成約である! 汝を新たなる我が主と認め、汝の滅ぶときまで仕えよう』
そして、暗転。
気がつくと、ディアヴァルはあの場所に倒れていた。
身体を叩く冷たい雨はもう上がり、森の木々の間から夕日が差し込んで、滴る雫が光り輝いている。その美しさが命の輝きのように思えて、目と心に染み入った。こんな悲惨な気持ちの時でも、美しさを感じるのだな……。そう思った。
よろよろと立ち上がって、ぶるぶるっと身体をふると、頭がしゃっきりしてきた。
恐る恐る振り向くと、そこには食い散らされた無残な亡骸。
彼は亡骸に歩み寄ると、その耳元で囁いた。
「愛しい我が君。貴女の魂はもう、この身体にはおられぬのでしょう。それでも、聞いてください。必ずや貴女を冥府から取り戻します。何百年かかろうと、必ずやり抜きますよ。それでは、いつかまた、必ずやお会いしましょう」
鏡と契約したからだろうか、彼の想いは当たり前のように人の言葉となってなめらかに紡がれた。
ディアヴァルは、翼を広げると舞い上がった。
まずは、妖精の森へ。
固い決意を胸に、彼は翼の限り飛んで行った。