ランク戦と遠征選抜試験の三月が過ぎ、四月を迎え五月を控える、世間ではゴールデンウィークと呼ばれる頃、弓場は二十歳になった。
一日早く二十歳になった生駒を含めた同輩のみならず、気のいい隊員や、元隊員たちはせっかくだからパーティでもしませんかなどと可愛いことを言ってはくれたが、せっかくのランク戦オフシーズンで任務だけしか決まった予定の入ってない貴重な時期、どうせなのだから巧くスケジュールをやりくりして、授業のない期間にしか出来ないことをしろ、ときっぱり断ったのだった。
「……って俺は言ったはずだぞ、王子ィ」
「承知してます。だからこれはぼく個人の用向きです」
築二十年という、奇しくも弓場と同い年のアパートの玄関の前に立っているのは、かつての部下であり、今では同じB級隊長として競い合う好敵手でもある若者だった。明るい色のトップスにサマーカーディガンを羽織り、タッセルのついたバブーシュという少女めいたコーディネイトが似合う彼は、ひょい、と手にしていた小さめの可愛らしい紙袋を顔の高さまで持ち上げてみせた。
バニラエッセンスとバターと蜂蜜の甘い香りがふわりと弓場の鼻腔をくすぐる。
「商店街の町おこしプロジェクトで空き店舗に今年入ったばかりのパン屋さんで、美味しいパウンドケーキがあるって聞いたから買ってきたんですよ」
「わざわざ?」
「いいえ、デートのついで、です」
「ふん、だったらありがたく受け取っておく」
「誰とって聞いてくんないんですか? デート」
「訊かれてェのか?」
「そりゃもう惚気たいですもん♡ 隣町のミニシアターで古いドイツの映画を観て、シアターの三階にあるギャラリーカフェでドイツの町並みを描いた絵を眺めながらウォーレンホプトの美味しい紅茶を呑んで、それからショッピングモールで買い物をしてから、併設されてる小さい水族館に寄って、帰りに評判のええパン屋を教えてもろたからクロワッサンでも買うて明日の朝ごはんにどうや、って。そのついで、ですよ」
もうその言い草だけで「誰と」の部分は分かってしまって、弓場は表情を選びかねて結果的に無になるしかなかった。それでも王子の好意に、茶でも入れるから一緒に食ってかねェかとは誘ったが、「今日は蔵内と勉強会なので」と惜しそうな様子ではあったが断られてしまった。
「ところで、弓場さん」
「何でェ?」
「これは隊の運営上の機密みたいなものだから答えてくれなくてもいいんですけど、来期……神田が抜けた分を補充しないんですか」
「するつもりはねェな」
迷わず応じた返事の素早さからか、内容からか、王子は片方の眉だけを器用に上げて、無言で弓場を見やった。
「おまえと蔵内が抜けて、弓場隊はアタッカーとシューターを補充したか?」
「……いえ」
「そう言うことだ」
神田が抜けたら抜けたなりの戦術を組み、自他ともに鍛えていくだけのことだ。その人にはその人なり、その人にしか担えない役割があって、どんなに卓越した人材が仮に見つかったとしてもそれを埋めるという形で補うことは出来はすまい、というのが弓場の考え方であり、立ち位置だった。それは間違いなく出来る《・・・》隊員だった神田であろうがあるまいが関係ないことだった。王子と蔵内が脱退し、神田と藤丸に相談しながら弓場の目で選んだのが帯島と外岡だ。A級に指先がかかっている上位部隊である弓場隊が、その卓越した攻撃手と射手が欠けた後にどうなるのか、周囲から注視されている中彼らは立派にその力を発揮してきた。
「安心しろ。うちがおまえンところに上を明け渡すのは今季限りだ」
猛々しくはないけれど、鋭い視線で五位を譲った部隊を率いる男を見据える。みな、傑物たちは容赦なく巣立つ。彼とても、そうだ。いつか、王子や蔵内や神田のように、帯島も外岡も弓場の元からそれぞれの形で発つ日が来よう。それを楽しみに思い、惜しむ気持を、この眼の前の綺麗な顔をして油断ならない男も知る日が来るのだろうか。
王子は弓場の弾丸のような視線を受け止めて、花のように微笑んだ。楽しみにしてますよ、と。
「……ふん」
王子の手にしていた紙袋を目にした時から気づいていた。
それは、かつて、まだ三月も浅い日、神田が弓場の部屋に手土産に持ってきたものと同じ店のものだった。
神田の懇願を受け入れる形で、たった一度だけ共寝してから少ししてからのことだった。狎れた様子など一切見せず、以前と変わらぬ、隊長と部下だった頃のような屈託のない様子で。
『フルフトクーヘン買ってきましたよ。ドライフルーツとナッツがぎゅうぎゅうに入ったパウンドケーキです。弓場さんお好きでしょ。ドイツ菓子風なんですって』
どいつもこいつも、と弓場は中を覗き込んで、かすかに破顔した。
神田は彼らしく豪快にまるごとのパウンドケーキを二種二本持ってきたけれど、王子は一切れサイズのものを何種類か詰め合わせたものを選んでくれたようだった。
そのうちの一番スタンダードなものの包装を剥がして一口齧ると、表面に塗ったブランデーの香気が弓場の口の中に拡がった。まだ、慣れぬアルコールの気配は、しかしこうして甘味と共に口にするとするりと喉を、ほのかな熱だけを余韻に通っていく。
戸籍の上では成人ということになったけれど、正直なところ弓場に特に感慨があるわけではなかった。望めば酒や煙草を嗜むことも赦される程度のことにしか過ぎなかった。ボーダーに入ると決めた時点で一人暮らしを始め、学生と防衛隊員という二足の草鞋を履き、小さいなれど小隊を率いる立場になった時のほうがよほど弓場拓磨という男の人生においてはそれなりの節目だった。
だが、ふと思うことがある。
もし、俺がとうに成人していたならば、もっと違う形で、或いはもっと早くあいつの想いに応えてやれていたのではないかと。
『弓場さん、俺、ずっとあんたのこと好きでいて、いいですか』
――俺がダメだ、って言ってどうなるようだったら、おめェだってもうちっと簡単に済んだもんだろうよ。
あんな、今にも泣きそうな面で人を抱きやがって、と弓場は苦笑だけを表情として選んで、レンズに遮蔽されていない視線を南へと投げかけた。
遠く、遠く、遥か彼方の九州で、きっとそれなりに上手くやっているであろう男の、未だ薄れぬ面影を辿るように。この感情を「会いたい」と名付けてはダメだ、と思いながら。