スメルズ・ライク・イランイラン 薬局で歯磨き粉と歯ブラシとバスルーム用の塩素洗剤を買ったら、店員さんがシャンプーとコンディショナーのサンプルをくれた。一回使い切りのそれを今日、外出前の入浴でさっそく使った。
黒いパウチの封を開けると、本能に訴えるような芳香が立ち上った。パウチ裏の成分表示を見ると、『イランイラン』の匂いらしい。
シャンプーは香り高い上に泡立ちがよく、コンディショナーからは髪を優しくコートしてくれる感覚が伝わる。普段『きしきししない程度』のクオリティしか求めていなかったので、初めて『いいもの』に触れた感動はひとしおだった。
お風呂上がりにドライヤーをかけても、髪がまったく絡まらない。気のせいか、天然パーマのウェーブも少しおとなしくなった。
こんな快適な日々が過ごせるなら、少しはお高いシャンプーに手を伸ばしても――いや、やっぱり無理だ。
塵も積もれば山となる。土方さんとの新生活のための貯金は切り崩せない。
勝負日の前日に自分をよりよく見せるためには必要かもしれないが、日常生活においては、今の安物のシャンプーとコンディショナーでこと足りる。
少し名残惜しいけれど……と諦めをつけてから、スマホで『イランイラン』にどんな効能があるのかを調べてみた。
曰く、心身をリラックスさせる。皮脂の分泌を調整する――と文字を追っていて、次の二文字に目を剥いた。
『催淫』
なんだそれ。あの店員さんは、僕にそんなものを渡してどうしたかったんだ。
けれど、第一印象の『本能に訴えてくる』という感覚は間違っていなかったようだ。
そう知ると、言葉にしがたいモヤモヤが下半身から血液に乗って全身を巡る。
僕がねだれば『抱かれる方』も引き受けてくれる慈愛の強さ、僕の髪を引っ張ってキスをねだるしぐさの可憐さ、貫かれた快楽で小動物のように震える体躯のいじらしさ、それでもぎりぎりまで男としての矜恃や自負を保ち続ける強靭さ。
薄闇のベッドでの土方さんの嬌態が、次々と思い浮かぶ。
自慰も考えたが、実を言うと今日は土方さんとの家デートの日だ。『無駄弾』は撃ちたくない。強引に考えを逸らし、出かけられる状態まで自分を鎮めた。
電車を乗り継ぎ、オートロックを暗証番号でクリアし、ドアフォンを鳴らす。合鍵は預かっているが、本人が家にいる時は極力使わないようにしている。
土方さんも白いカットソーにスキニーパンツという、部屋着よりも少しだけちゃんとした恰好でドアを開けてくれた。家の中でも『デート』を意識してくれたのだろう。
玄関の上がり框に立った土方さんは、三和土で靴を脱ぐ僕を急に抱き寄せ、尖った鼻先を青灰色の頭頂部へ突っ込んだ。上がり框の分だけ、普段よりも身長差がある。
「わっ……何するんです」
僕の質問にも応えず、土方さんは僕の髪の毛を嗅ぎながら言った。
「浮気か?」
そこに詰問や問責の響きはなく、むしろ愉しげですらあったのだが、僕はいきなり疑いをかけられて頭が真っ白になった。
「えっ、な……僕があんた以外に惹かれるなんてありえない」
「家以外のとこで頭洗っただろ」
「んなこと……これはサンプルで……」
「冗談だ」
土方さんは、ぱっと僕を抱きしめていた手を離した。
「酷い」
「いい匂いだったんでな。イランイランは狙いすぎだと思うが」
香水をつけることもある土方さんは、やはりイランイランを知っていた。上がり框の上から、にやり、と人の悪い笑顔を浮かべている。
「狙ったわけじゃないですからね」
「だろうよ。上がれ、もうすぐ寿司が届く。沢庵巻はやらんがな」
「いただきませんよ」
靴を脱いで上がり框に足をかけると、土方さんは手を差し伸べてくれた。長くない廊下を、手繋ぎで歩く。ごつごつして男らしい、皮膚の硬い手が僕の背中に回る時のことを思い出して、どきどきする。
「土方さん……したい」
「てめぇ、今来たばっかりだろ。まだ夕方にもなっちゃいねぇ。待てを覚えろ」
土方さんの言うことはもっともだ。せっかくの家デートなのだから、家でしかできないデートをしないともったいない。二人で映画を見たり、ゲームに興じたり。あるいは、毛づくろいするように慈しみ合ったり。
セックスは、いつでもどこでもできる。
その理屈はよくわかるのだけど。
ダイニングに繋がるドアの前で、僕は土方さんの手を強く引いた。振り向くおとがいに狙いをつけて、背伸びをして唇を合わせる。
土方さんは一瞬ぽかんとして、その後に僕の髪をくしゃくしゃにかき混ぜた。
「やだ、絡む、乱れる」
土方さんは子供扱いに抵抗する僕の耳許に口を落とし、
「落ち着け。誰もしたくねぇとは言ってねぇだろ」
「……じゃ、今」
「ダメだ。待て」
涼しい顔で僕に背を向け、リビングに入る。
土方さんはちゃんとした大人だから我慢できるだろうけれど、今年ティーンから抜け出した僕には刺激が強すぎる。
かといって無理やりことに及ぶには体格差があるし、万一やり遂げたとしてもその後蹴り飛ばされて追い出されるのがオチだ。
どうして僕はこう子供なのだろう。絶望感しかない。
早く大人になりたい、という焦燥感を足許に絡みつかせながら、僕は土方さんの後に続いた。