クロツルバミノヨル 今夜も厄介な案件に頭を抱えつつ、なんとか残業を終えて帰路につく三成。寒い真冬の帰り道に、いつものように足が向いたのは左近が営む小料理屋だ。
ほかほかの白いご飯と、優しい味の手作り惣菜と、熱い味噌汁で身体を温めたい。
時刻はもうラストオーダーの九時半をとうに過ぎているのだが、疲れた頭にはそんなことは全く無い。店の前まで来て暖簾が仕舞われているのを見て初めてそのことに気付いた三成は、軽くため息を漏らした。
「左近の……味噌汁が……」
しかし、暖簾は出ていないものの店にはまだ明かりが灯っている。入り口の引き戸に手をかけると、鍵はかかっていない。そのまま戸を開ければ、中には一人だけ先客がいた。
左近はその先客の隣に腰掛けて、ゆったりと二人で酒を傾けているらしかった。
「すいません、今日はもう終わり……って、三成さんですか。今夜はいつにも増して遅かったですね」
引き戸が開く音に振り返った左近は、入ってきたのが三成だと見るや頬を緩めて椅子から立ち上がった。
「座ってくださいよ。いつものでいいですよね」
「あ、ああ。すまない」
三成は先客に軽く会釈すると、一席離れた椅子に座った。差し出されたおしぼりで手を拭き、熱いほうじ茶に口を付ける。
すぐに三成の前にモツ煮込みの椀が置かれる。ついで水菜のサラダとカブの炊合せ、牡蠣の味噌煮と次々小鉢が登場し、最後に白いご飯と大根の味噌汁が出てきた。
「他に食べたいものがあったら言ってください」
左近はそう言うが、これだけあればもう十分だ。
そう告げると、左近は笑って「ごゆっくり」と言ってから先客の方に向き直った。
「つまみ、これで最後になっちゃいました」
先客の前に牡蠣の三杯酢の小鉢を置くと、先客は軽く首を振って杯を飲み干して立ち上がった。
「わしはもう十分じゃよ」
「そうですか……」
左近が残念そうに見えたのは三成の目の錯覚だろうか。
左近が何やら包みを持ってカウンターから出てきた。
「これ、日持ちする常備菜を詰めときました」
コートを着て引き戸に手をかけた先客の手に包みを持たせる。
「いつもすまんな」
「いえいえ。ちゃんと飯食ってくださいよ」
左近はそう言うと、先客の男の後頭部に手を添えて軽く唇を重ねた。
「さ、左近、何をするんじゃ」
「お土産代ってことで」
先客は軽く肩をすくめつつ帰っていった。
三成の心にモヤモヤしたものが生まれる。
確かに三成と左近の関係は愛し合っているなどという甘いものではない。左近は世間を騒がす怪盗で、三成はそれを追う刑事だ。けれど、こうして毎晩のように会い、少なくとも週に二度はベッドを共にしている。それは、恋人同士と言ってもいいのではないか?
「さっきのは、誰だ?」
「あんたには関係ないことですよ」
左近は素っ気なく答えてカウンターの中に戻ると、伏犠が残していった牡蠣の三杯酢に箸をつけた。
「なんてね。気になります?」
三成の目を見つめながら左近がくすりと笑う。三成が小さく頷くと、左近は牡蠣をつまみに熱燗を傾けながら話しだした。
「元カレってやつです」
「お前はてっきり面食いだと思っていたが」
元カレがいることは聞いていたが、てっきり三成のような女性的な容姿の男だと思っていた。さっきの男は左近以上にガタイが良くて三成とは正反対なタイプに見えた。
「ん? 面食いですよ。三成さんほどじゃないですけどあの人だって十分イケメンでしょ? まあ、あの無精髭のせいでだいぶ台無しですけどね」
「お前、あんなゴリラみたいな男も抱けるのか?」
「ゴリラって酷いですね。ああ見えてあの人は医者なんですよ。腕のいい外科医で、俺の主治医なんです。それから、あの人相手だと俺ネコなんで」
左近が、抱かれる側?
衝撃の事実を聞いた三成の手から箸がポロリと落ちる。
「あ、なんかいけない想像したでしょ。三成さんのエッチ」
「左近が、抱かれる側なんて……信じられん……そんなこと……」
三成は視線を彷徨わせながらブツブツ呟いている。
小鉢の牡蠣を全部食べると、これまた伏犠の残していったすっかり冷えた徳利から酒を全部コップに移して飲み干した。
「もっとも、あんた相手ではそんなこと絶対あり得ないんで安心してください」
「俺も、正直お前を抱けるとは思えん」
「でしょうね。とりあえず、夕飯食っちゃってくださいよ。今夜は泊まっていくでしょう?」
三成は落とした箸の代わりを左近から渡されて食事を再開した。
泊まって行けと言われたが、勿論ただ泊まるだけでは済まない。元カレとのキスシーンを見せつけられたばかりだというのに、当然のようにベッドに誘われた三成は、その左近の行動に軽い嫌悪感を覚えつつも断るとこなど出来ない。
それほどまでに、三成は左近にどうしようもなくひかれていた。
夕食を終えて、もう慣れ親しんだ二階の居住スペースへの階段を上がる。まっすぐ風呂に向かい、手早くシャワー浴びて出れば、そこにはバスタオルと着替えが用意されている。
「本当に、よく気のつく男だ」
家事は一通りできると言っていた。料理の腕は言うまでもないが、掃除や洗濯も嫌いではないと。
「あの男にも、こうやって世話を焼いてやっていたのだろうか……」
つい一時間ほど前に見たキスシーンが脳裏から離れない。
「元カレと言っていたが、まだ続いているんじゃないのか?」
すねたような声で口に出してしまってから、脱衣所の入り口から左近が顔をのぞかせているのに気付いて、三成ははっと口元を抑えた。
「元カレですよ。それなりに付き合いはありますけど、別れてからは寝てないです」
「でもさっき……キスしてた」
「……あれ? 三成さんもしかして嫉妬してます?」
左近にからかわれ、三成は衝動的に左近に掴みかかった。
「悪いか! お前が……お前が俺を抱くから……」
「……すいません、わざとです。三成さんに嫉妬してほしくて、わざとあんたの前でキスしました」
掴みかかった三成をやんわりと抱いて、左近は宥めるようにその髪を撫でた。
「お前は前に言ったな。俺よりも元カレの方が好きだって」
――『……三成さん、勘違いしてほしくないんですけど。好きは好きでも俺はそこまであんたに入れ込んでない。正直、あんたより元カレの方がまだ愛情持ててますから』
「ええ。あの人のことは今でも好きですよ。けど、抱き合いたいと思ってるのは三成さんだけです。ねえ、憶えてます? キスしたとき、あの人驚いてたでしょ? 久しぶりだったんですよ」
そう言われてみれば、確かに恋人同士のキスには見えなかった。
「そういう真似はやめろ。相手にも失礼だ」
「ええ。さっき怒られましたよ」
左近は懐に入れていたスマホを取り出した。
「その気もないのにキスされた方の身にもなれってね、メッセージが送られてきましたよ」
ああ、きっとあの男はまだ左近のことを想っているのだろう。だとしたら、左近はなんと残酷なことをしているのだろうか。
「あんたが好きですよ、三成さん」
「……そして俺のことも、あの男のように捨てるのか」
「あの人との間には好き嫌い以上に色々あったんですよ。それから、捨てられたのは俺の方ですからね」
三成が驚いたように顔を上げた。
「だからね、愛し合ってたって一緒にいられないって状況もあるってことですよ」
顔を上げた三成の顎を指先ですくい上げて、左近はゆっくりと唇を重ねた。
「俺とお前だって、窃盗犯と警察官の関係だぞ。それも、一緒にいられない状況じゃないのか」
「……そう思うなら、あんたが俺を捨ててください。あの人が何も言わずに突然いなくなったみたいにね」
今度は三成から左近の唇に吸い付いた。口を開いて舌をねじ込む。左近のように上手なキスは出来ないが、それでもがむしゃらに左近の舌を追い、絡めとる。
「俺はお前を絶対に捨てない。お前を更生させて、お前の正式な恋人になってみせる」
左近はふふっと笑う。
「三成さん、男前ですね」
その笑顔は、まるで泣いているように見えた。