2022.8.12.8:12PM机の上に置かれた手のひらサイズの白い紙に、ペンを近づけては離すこと五回。奥村英二はついに書くことを諦めて、ぐっと伸びをした。開け放たれた窓から吹き込む風は微かな夏を運び、癖のある黒髪を掻き乱した。
向かいに座って本を読んでいたアッシュ・リンクスが、堪らずといった様子で吹き出す。
「なに?」
「別に」
一等綺麗な翡翠の瞳に、きらきらと光るブロンドヘアー。端正な顔立ちが肩を竦めてみせる姿は、まるで映画のワンシーンのようである。
英二はちらりと壁の時計に視線を投げた。時刻は午後四時三十分。もうすぐ日が沈む。作業を始めてから一時間が経っていた。
「・・・・・・先に帰っててもいいよ」
その言葉にアッシュは机に本を置いて、英二の方に体を向けた。表紙の文字を目で追っている間に、ゆっくりと伸ばされたアッシュの手が、乱れた黒髪を優しく撫でて整えてくれる。
「本当に?」
「へ?」
「英二は本当に俺が先に帰っていいのか?」
英二は押し黙った。
二年生になってクラスの離れたアッシュと一緒にいられる時間は短くなった。互いの家まで約十五分。それさえも英二にとって、大切な時間だった。
「やっぱりアッシュも手伝ってよ」ペンを押しつける。
「いいぜ」
素直に受け取ったアッシュはしかし、ペンを持ったまま首を傾げて「なに書くんだ?」と英二に問うた。
「借り物競争のお題」
少し前に怪我をした英二は、しばらく体育委員会の仕事ができなかった。周囲は仕方ないと言ってくれたが、せめてと引き受けたのが来週にひかえた体育祭での借り物競争のお題作りだった。
簡単だと気軽に考えていたが、これが意外に大変だった。英二としてはユニークであることも必要だと思うが、あまりにいき過ぎて収集がつかなくなってしまうような事態も避けたい。
「重いものとか見つからなさそうなのは可哀想だろ? そうなってくると・・・・・・」
「物じゃなきゃいけないのか?」
「そんなことないよ。二年C組の担任ってお題も入れておいたぜ」
ふーんとアッシュは言いながら、ぺらぺらと英二の作ったお題を捲って見ていく。どれも定番のものばかりだが、時折『身長百五十三センチ以下の人』だとか、『モヒカン頭の人』だとか入っている。
「これ、ショーター用だろ」
「ショーターが入れてくれって」
今年三年生のショーターは、行事関係に特に気合いが入りまくっている。借り物競争に出場もするらしいが、借りられる側にもなりたいと言って、自分で紙に書いて置いていったのだ。自分で引いたらどうするつもりなのだろう、とは思う。
「これは?」
机の上に置いてある、既に四つ折りにされた紙に、アッシュの細い指が伸びる。開くとそこには『好きな人』と書かれている。
「それは没かな」英二は言った。
「なぜ?」
英二は愛想笑いを浮かべて、それには答えずにアッシュの手から紙を奪うとクシャクシャに丸めた。ほいっと投げた紙は綺麗な放物線を描いてゴミ箱に収まった。
「まあ定番ちゃ定番なんだけどね。よし、あと五枚。どうしようかな」
悩む英二に、アッシュが紙を差し出す。そこには角張った手本のような文字で『ここの卒業生』と書かれている。
もしかして。マックスや伊部さんを走らせるつもりだろうか。英二がちらりと見ると、アッシュはしたり顔で笑っていた。
「あと三枚」
「あれ。もう一枚は?」英二は首を傾げた。
「もう書いた」
言うとアッシュは、既に書き終えている数十枚の紙を丁寧に四つ折りにし始めた。もうお題を書いてくれるつもりはないらしい。伏せられた瞳にかかる、柔らかなまつ毛。英二はじっと見つめながら、数時間前を思い出していた。
✱
昼休みは学年の違う四人──三年生のショーターと二年生のアッシュと英二、一年生のシン──が集まって食べるので、場所は雨じゃなければ屋上が常であった。
四時間目が終わってから、英二は日直の仕事でノートを集め、教室に戻りながら外を見上げた。今日も晴れている。すぐに屋上に向かおう。梅雨が終わってから燦々と降り注ぐようになった太陽を見てから、ふと横を見たのは偶然だった。
あれ、アッシュだ。
体育館へと続く渡り廊下を歩くその姿を認めて、英二は誘われるように後ろを追いかけた。普段は教室に迎えに来てくれ、こういう英二が日直である日も教室で待っていてくれるのに。
なんて。英二は失念していたのだ。
「好きです。付き合ってください」
よくよく考えてみれば体育館裏なんてベタな場所もいいところである。壁に体を隠しながら、英二は下手に動くこともできずに、アッシュの告白されている現場を覗き見していた。
アッシュは大層モテる。毎日のように呼び出されて告白されている──都市伝説のように囁かれるそれが嘘じゃないことを、いつも一緒にいる英二は知っている。
だけど、英二はいつも呼び出されるアッシュを見送るだけで、実際にこうして告白されている現場を見るのは初めてだった。相手は一つ下の後輩で、目の大きな可愛らしい女の子だ。頬を赤く染めながら、じっとアッシュのことを見ている。
アッシュはなんて答えるだろうか。
断るとしても『ごめん』もしくは『ありがとう』と言って、それからシンプルに『付き合えない』と続くのだろうと思った。アッシュはクールだが、無駄に人を傷つけるようなことはしない。優しい人だ。
いや──、それとも。
なんて英二が思っていたら。
「ごめん。好きな人がいるんだ」
と、アッシュは言った。
酷く甘やかな声だった。それを聞いて嘘だと思うことなんて、できやしなかった。
──アッシュに、好きな人が、いる。
その事実は、英二にとって衝撃だった。
ごくりと飲み込んだ唾の音が耳の奥で響く。未だに会話を続ける女の子の声もアッシュの声も、英二をすり抜けていく。
英二はとてつもなく混乱していた。
親友だからといって隠しごとは一切なし、なんて思っていたわけじゃない。だけど実際に好きな人を、それ以前にアッシュから好きな人がいること自体を聞いていないのは結構ショックだった。
それに・・・・・・。
じわりと英二の脳裏に侵略する、鮮やかな映像。そこには照れくさそうに笑うアッシュと、そんな彼に寄り添う可愛らしい女の子がいる。
『英二、俺たち付き合うことになったんだ』
実はずっと彼女のことが好きだったんだ。
もちろんサポートしてくれるよな。
そう告げるアッシュに、英二は答える。
『もちろんだよ』
──だって、僕らは親友だろ!
ずっと、親友で満足している。
していた、していたつもりだった。
でも、違った。どうしよう。
アッシュの好きな人になりたい。
だって、アッシュのことが好きなのだ。
ライクとしてじゃなくて、ラブとして。
ぐるぐると回る思考回路はキャパオーバー寸前。
恋の自覚は突然だった。
英二はその場にずるずるとしゃがみこんだ。夏を運んできたばかりの太陽が暑いから。そんな言い訳を誰にともなくして、丸めた膝小僧に顔を押し込む。
「なにしてんだ?」
そのとき聞こえた声に、英二は肩を揺らした。
「あ、アッシュ」英二はゆっくり顔を上げる。
「まさか覗き見? オニィチャン」
同じ学年なのに誕生日が少し早く、妹がいて世話焼きの英二を、アッシュはからかい混じりに『オニィチャン』と呼ぶ。いつもは気にならないその呼び方も、恋愛対象じゃないと突きつけられているようで今の英二にはキツい。
「・・・・・・具合悪いのか?」
ぼけっとしたまま答えない英二を怪訝に思ったのだろう。アッシュは眉間に皺を寄せて言うと、しゃがんで白く節くれだつ指を英二のおでこに伸ばした。触れられた手のひらは冷たくて気持ちが良い。
「熱はなさそうだな」
「ご、ごめん。考えごとしてただけ」
「・・・・・・そうか。ならいいけど」
あまり納得していない様子でありながらも、アッシュは頷くと立ち上がる英二に手を貸してくれた。
「ほら、屋上へ行こうぜ。二人が待ってる」
言いながら、さりげなく英二はアッシュと距離をとる。そうでもしなければ、隠さなくてはならないのに、ずっと鳴り続ける胸の鼓動が、アッシュに聞こえてしまうような気がした。
英二の恋は自覚と同時に、失った。
ふといつかの日に、クラスの誰かが『初恋は叶わないんだよ』なんて言っていたのを思い出した。
✱
「英二?」
いつの間にか落ちた夕焼けが、アッシュを橙色に染める。覗き込んでくる翡翠が近くて、英二は椅子をけたたましく鳴らして後ろに下がった。
「なに?」
「な、な、な、こっちの台詞だよ! 近すぎ」
「別にいつもの距離だろ」
確かにいつもは気にならないどころか、アッシュに対しては英二から肩を組んだり、頭をくしゃくしゃに撫でたり、パーソナルスペースが狭い。
ただ『いつもの距離』は恋心を自覚する前の話だ。
「照れてるの?」
すっと細められた瞳に、英二は無意識に再び一歩下がった。「い、いや」口から出た言葉は否定しているのに、その声音は肯定しているも同然だった。
「あ、アッシュのさ!」
誤魔化すように、もごもごと口ごもって、
「・・・・・・、好きな人ってどんな人?」
思い描いていたよりも幾分も情けない声音だった。もっと友だち同士のノリで聞くつもりだったのに。
「英二。やっぱり昼間、聞いてたんだな」
「ごめん。わざとじゃないんだ」
「そんなことはわかってる」
アッシュに怒った様子はない。座りなよ、と言われて、英二はようやくゆっくりと椅子に腰かけた。ふたりの間に刹那、沈黙が流れる。それはままあることだが、自業自得とはいえ、英二は少し居心地が悪かった。
「教えてもいい、けど」
アッシュにしては珍しく、迷っているようだった。翡翠の瞳が僅かに宙を泳ぎ、英二を捉え、それからふっと柔らかく三日月をつくった。ずきり。痛む胸はアッシュのその愛おしげな視線が向けられた先への、羨望だ。
「アイツがいるだけで、オレは幸せなんだ」
答えになってない。それでも、英二はなにも言えなかった。なにを言えばいい。あやふやな思考を切り裂くように、町のチャイムが鳴る。
「帰るぞ」
おててつないで、みなかえろ。アッシュの指先はあと少し手を伸ばせば届く距離にあるのに、こんなにも遠い。
✱
✱
人差し指を空に向けて、シンは弾けんばかりの笑顔をうかべた。『モヒカン頭の人』お題はバッチリ。一位の旗の下、その隣に並ぶショーターがシンの頭をくしゃりと掻き撫でた。英二は待機列からふたりに手を振る。
天気は快晴。体育祭にはうってつけの日和だ。赤いハチマキがじんわりと滲む汗を吸い込んでいく。スターターピストルを合図に、英二のふたつ前のグループがお題へと一斉に向かう。
「英二。ハチマキほどける」
器用なようで、案外不器用なのか。ひとつ前のグループ列、振り返ったアッシュの手から白いハチマキを受け取って、頭に巻いてやる。
「違うチームだけど負けないからな」
「それ聞くの百回目だよオニイチャン」
ふっと笑ってアッシュは立ち上がった。
ほどなくして鳴り響いたスターターピストル。誰よりも最初にお題まで辿り着いたアッシュは、四角く折られた紙を開いて、一瞬動きを止めた。
そうして何故か、鋭い眼光で隣のクラスのユーシスを睨んだ後、保護者応援席で呑気に座っていたマックスのところへと向かった。引いたのは『ここの卒業生』アッシュ自身がつくったお題だ。
マックスはアッシュが突き出した『ここの卒業生』の文字に少しだけ肩を落としたが、やがてノリノリでゴールまで走っていく。無事、一位だ。
それを横目で見送りながら、スタートラインに立った英二は、ふと思う。そういえば、アッシュがつくったお題はもうひとつあった。まだ内容は知らない。つまり──、
英二もまた、スターターピストルの音で駆け出して行く。左から二番目。迷うことなく真正面の紙を手に取って、目が書かれた文字を読んだと同時に、体がガチガチに固まる。どうして、と零れた声は小さい。
『好きな人』
そんなの、ひとりしかいない。
その時だった。ともすれば歓声にかき消されてしまいそうなほどの穏やかなその声が、「英二」と呼んだ。たしかに、聞こえた。
英二は顔を上げる。眩い太陽を背負って向かうは、翡翠。アッシュはゆっくり瞬きをした。その表情はなにを考えているかわからない。
だけど、走り出した足は、もう止まれない。
「アッシュ、一緒に来てほしい」
──伸ばした手は、指先を掴んだ。
糸を複雑に絡める必要はない。
英二はただ、アッシュが好きなんだ。
恋人、親友。もういっそ、冠なんてなんでもいい。
隣にいたい。
「奥村が引いたのは?」
「『好きな人』」
判定係のマイクを半ば奪い取るようにして言い切る。校庭に響き渡る英二の声に、どよめきが広がっていく。本気か、否か。教員を含め、誰もが判断しかねている。
「君が好きだよ、アッシュ」
マイクを通らなかったその声はしかし、届けたい人にはきちんと届いた。ええと、判定係が口を開いて「奥村のそれは・・・・・・、」と口を濁す。
「君がいれば、僕は幸せなんだ」
きっと、伝わった。
返事なんて求めていなかった。というより、ただアッシュのことが誰よりも大切なんだと伝えたいばかりが先走って、他はもうどうでもよかった。
と、そのときだった。
柔い感触が、唇のほんの少し横に触れた。
キス、されたんだ──気がついた時にはゴールテープを切っていた。野次混じりの歓声は最高潮に達し、英二は顔を赤らめて、隣に立つアッシュを見上げた。
「アッシュ、ありがとう」
「・・・・・・いいや、勘違いしてるだろ」
あと、数センチ。触れなかった唇同士。だけど、きっと周囲には、ふたりがキスをしたように見えるだろう。そしてアッシュが矢面に立つという点を除けば、それはあの場を収めるには最善の策だった。
「見世物にする気はないんだけど?」
きょとん。アッシュの言葉に、英二は頭にはてなマークを浮かべた。つまり、と考えるより先に。
英二の指先を、そうして手のひらを掴んだアッシュは、遠くから押し寄せようとする人並みを避けるように、校舎へと向かう。誰も追いつけやしない。
ふたりが着いた先は教室だった。外は煌めく太陽に照らされて眩い中で、影の作られたこの空間はひんやりしていて、どこか別世界のように感じる。
「英二がいるだけで、オレは幸せなんだ」
ぽつり、アッシュは呟いた。
「俺のそばから離れてほしくない」
離れるもんか。英二の伝えたい思いは言葉にするより先に「でも伝えるつもりはなかったんだぜ」アッシュによって遮られた。
「その思いで英二を押し潰してしまう」
その答えを聞いて、英二は「は、はは」と思わず笑ってしまった。誰よりも大切に思っていた存在は、自分のことを誰よりも大切にしていてくれたのだ。
「君が望むなら、僕はなんだって叶えてやりたい」
英二は小さく背伸びをして、「ねえ、アッシュ」その名前を呼んだ。そうして、そっと触れるだけの優しいキスをした。