阿呆考 ふざけんな。この阿呆。
同居人のロナルド君が放った言葉である。
「ロナルド君、枝毛」と髪を抜いたら非力な私には珍しく2本同時に抜けた。痛かったらしい。
時は午後十時。締切が迫り休息なき休日を過ごす退治人。その背後に佇むドラルクは俄に高揚した。
私が若造にダメージを与えたのは初めてではないか。畏怖。その二文字が私の頭で踊る。いや、踊ったどころではない。砂になる前の一瞬に目尻に溜まる涙を見た私の頭の中はさながらカーニバル、祝典である。
人は髪が抜けたら痛いのだなあ。人の枝毛など抜いたことがなかったから知らなかった。私の毛髪は言うまでもなく素晴らしい絹糸で、ジョンも完璧無欠の丸。枝毛などない。
「でもいい眠気覚ましになったわ」
「さすがゴリラ。どれ、もう一本」
ガシガシ頭を掻いた若造がなにか言っている。私の観察眼が異変を見逃さなかっただけである。
私は更なる畏怖を求めてロナルド君の髪を2、3本抜いてみようとしたが、めざといゴリラの風圧で死んだ。
「調子に乗んな。阿呆!」
また阿呆と言った。二百年以上も生きている博識広聞な私に向かって阿呆とはなんたることか。
でもよく聴いてみたまえ。阿呆。阿呆。
なんとも可愛らしい響きではないか。
「馬鹿」とか「間抜け」とか、「ポンチ」よりもだいぶ良い。「あ」から「ほ」への移りがスムーズで、テンポが良い。腹から出た「ほ」の余韻が響くのが上等である。「か」や、「ち」ではこうはいかない。ゴリラが無駄に形の良い唇を一生懸命「ほ」と窄ませているのも痛快で結構。
「本当に生えてたんだってば。たまには私のシャンプー使いたまえ。特別に許可する」
私は久方ぶりの畏怖に浮き足立っていた。阿呆でも可愛い。それが私。
「なんで上から目線なんだよ。大体お前いつもサリーちゃんのパパみたいな髪型なんだからボサボサでも変わんねえだろ」
「この艶が目に入らんか下男」
嘆かわしいことにこの下男は阿呆なので、私の可愛さを理解しない。
阿呆といっても私のように可愛く優雅な阿呆ではない。がさつで鈍感で無駄なハンサムとすね毛を撒き散らし、乙女とのロマンスに一端の憧れを抱くものの懐にハムカツを携帯するが故にほど遠い。日夜勤労ばかりしている憐れな阿呆である。
吸血鬼叩きやキーボードを打つ手を止めて目を凝らさせねば、この私の偉大なる可愛さは理解できまい。そうでしょうとも。もっとよく見なさい。
「やっぱ分かんねえよ。近づけんな角が刺さる」
ふむ。私の角ってもしかして強い?畏怖の念を抱く?若造で試したかったが握り拳に浮かぶ血管が見えたのでやめた。寝ている間に覚えていろよ若造。
ところでこの若造。私の可愛さを理解しないということは、可愛くもない自分より二百余年も歳上の吸血鬼を家に入れ、同居しているということになる。意味不明である。
私はこの家に転がり込んだ当初、あまりにあっさり同居に持ち込めたものだから、憐れな退治人君は私のあまりの可愛さ、利発なオーラや明晰な頭脳にコロッとやられたのではと分析していた。
しかし、掃除機で身を吸われた時点で分析は裏切られ、日夜ポンチどもに親身になって足掻くさまを見るうちに驚きをもって異なる結論に着地した。
ところで、私を掃除機で吸ったことがあるのはジョンとロナルド君だけだ。ジョンがなぜ私を掃除機で吸ったのか。それは語るに哀しい過去があるが、今は割愛する。
「はい。ロナルド吸血鬼退治事務所。今日は休業日なんですがお急ぎですか?えっ、壺?ポールダンサー?……そこまで困ってるなら明日事務所に」
「間に合っています。それでは」
「おい、勝手に切んな。困ってるって言ってたのに」
横から受話器を取って置いたら砂になった。
若造は流されやすいのである。五歳児のごとくなんでも鵜呑みにする。そして慈善事業家もかくやのお人好しっぷり。阿呆の三重苦。これが私の出した結論である。我ながら信じられないが、動かぬ真実だ。
「本当に困ってるならまた掛かってくるだろ。それよりもさっきヴァミマ行った時フクマさんに会ったぞ。何やら糠漬けをじっと見つめていたなあ」
「アッ!早く言えよ馬鹿野朗!」
もちろん嘘だ。阿呆めが。
しかし、私の一言で奇声をあげ泣き喚くゴリラの脳内では、既に糠漬けになった己の姿が再生されているに違いない。さすが作家の想像力というべきか、私のテクが素晴らしいというべきか。
まったく、この若造はいつまで経っても手の掛かる五歳児で優雅で可愛らしい私とつり合うべくもない。私は嘆く阿呆を鎮めるためにバナナヨーグルト蒸しパンを作るのだった。同居人が阿呆だと困るねえジョン。
おわり