都会育ちの僕に、獣道をスイスイ進むKKの後を追うなんて到底無理な話だった。もちろん足腰にも体力にも自信はある。だがろくに整備の行き渡っていない、暗く足場の悪い坂道は僕を散々手こずらせた。
それにしたって、と袖口で額の汗を拭いながら考える。 いくら足元に気を取られる下り坂と言えど、一度は登ってきた道だ。今までだって何度か山奥の依頼を受けたことはあるが、そう簡単にこれほど距離を開かれるなんてこれまでなかった。
それに加えて、先ほどから何度かKKに呼びかけても返事はない。スマホも圏外。辛うじて見えていたKKの背中も、完全に見失ってしまった。
とうの昔に人々から忘れ去られてしまった廃神社、依頼の異形は片付けたとしても別の怪異が蔓延っていたって不思議はない。
単に道を外れてしまったのか、既に怪異に取り込まれているのか。
「暁人」
聞き慣れた声に呼ばれる。前を歩いていたはずのKKが音も気配も感じさせぬまま後ろに移動することなんてあり得ない。走って撤退することも頭を過るが、あまりに地の利が悪い。こんな足場も見通しも悪い山道で無闇に走ればよくて遭難、最悪滑落だ。
下山には邪魔だった弓を仕舞っていなかったことは幸いだった。まとめた矢の束から一本矢尻に触れ、意を決して振り向いた先に立つKKの姿に僕はとんでもない怪異に巻き込まれたことを確信した。
「えーっと、KKで……いいんだよね?」
尋ねた声は我ながら緊張感の欠片もなかった。矢からも指は離れてしまう。だってそれもそうだろう。
目の前のKKらしき人物の背後には、ユラユラと見覚えのある特徴的な尻尾が揺れている。
自慢じゃないが、僕には洲本のたぬきにちょっとした知り合いがいる。彼らも化けたときは尻尾が残っていたが、このKKにもそれとまるきり同じ、茶色くて毛先だけ黒い、大きな尻尾が生えていた。しかも頭には丸い耳まで付いている。人間の耳と合わせて計四つ。洲本のたぬきは耳を残していなかったから、もしかしたら彼らは僕が思っているよりよっぽど化けるのがうまかったのかもしれない。
「暁人」
と、また呼ばれる。KK、もといたぬきは、KKの顔でKKは絶対見せないような腑抜けた笑顔を浮かべている。
エーテルの力を持たない僕に彼の真意を確かめることも仲間がいるか確かめることもできない。だけど悪意は感じない。
もしもこのKKだぬきが何か企んでいるのだとしても、いざとなれば僕一人でどうにかできるだろう。
差し出された手を取ると、KKだぬきは一層大きく尻尾を揺らして満面の笑みを浮かべた。
*
結論から言うと、このたぬきは予想通りただの化けるのが下手な化けだぬきだった。
手を引かれて連れられること体感十分。それまで陽の光も遮るほどに鬱蒼と生い茂っていた木々が嘘のように開けたそこは、思わず目を細めるほどに眩しかった。真ん中にはポツンと小さな祠が佇んでいる。山の中では不気味なだけだった風の吹き抜ける音と木からどんぐりの落ちる音も、この場所から聞けば、さながら動画サイトに上がっている環境音のASMRだ。
思わず感嘆の声を漏らした僕に、KKだぬきは得意そうに鼻を膨らませた。
「おい暁人!」
あやとりをしていた僕たちの後ろから苛立った声が反響した。やっと来てくれたのかと安心したのが半分、もう見つかったのかと残念に思ったのが半分。
ドスドス大袈裟に音を立てながら近づいてきた足音は僕の真後ろで止まった。化けだぬきなんて目じゃないほどの禍々しい空気を放っている。
後ろを振り向くのがガラにもなく怖くて、KKだぬきの手にかかっている赤い毛糸だけを視界に映していると、無理矢理首根っこを引っ掴まれた。
「一体誰と何してんだ、オマエは」
仕方なく立ち上がり視線だけをKKに向ける。その表情は苛立ちとも呆れとも取れない色が浮かんでいた。
「えぇっと……KKと、あやとり?」
「オレとあやとり、ねぇ」
KKの視線はほとんど彼と同じ姿をしているKKだぬきの方へ移った。あからさまに鼻根を寄せて苦い顔をする本人の表情に、KKだぬきは目を丸め、さっきまで揺らしていた尻尾をピンと立てて固まっていた。
「オレの顔で情けねぇ面すんじゃねえよ、このイタズラだぬき!」
KKが怒鳴ると、ポンッと音を立ててKKだぬきは白い煙と共に飛び上がった。
さっきまで居た大きな尻尾と丸い耳の生えたKKの代わりに、足元に現れたのは小さなたぬき。あやとりの赤い毛糸はきれいさっぱり消え去って、小さな手には大事そうにどんぐりが握られていた。
キューキューと鳴いているたぬきを他所に、KKは手のひらから光の雫を落とす。KKが僕の中にいたときほど鮮明には聞こえなくなったが、たぬきがKKに怯えていることと、僕に礼を言っていることは何となく伝わった。
たぬきは何度かキューキュー鳴いて、僕の周りをぐるぐる回り山の奥へと走って行った。
僕がしばらくその先を見つめていると、KKは僕の手首を引いて短く「行くぞ」と、たぬきの消えた方とは逆へと歩き出した。
「こんなとこでたぬきになんか化かされてんじゃねえ」
手首を掴む手の力が不機嫌さを物語っている。ごめんと謝罪すると、KKはいつもより目尻を吊り上げたままの視線を僕に寄越した。
「こんな土地なんだ。アレがただのイタズラだぬきじゃなかったらオマエだってタダじゃ済まねぇかもしれないんだぞ」
「その……、ごめん。あの子に悪い気は感じなかったから、つい」
「つい、で万一死なれちゃたまったもんじゃねえんだよ」
前を見て言ったKKの声量が僅かに下がり、手首を掴む手の力が緩んだ。
目の前にいたのが可愛らしい姿をしたKKだったから僕の警戒心は緩んでしまっていたが、想像していたよりも遥かに心配させてしまったようだ。
バツの悪さに繋がれたままの手に目を見つめる。だけど拗ねてばかりもいられず、僕は手首を滑らせてKKの手を握った。
「KKがいるから大丈夫、心配ないよ。僕はKK残して死ぬつもりなんて絶対ないから」
振り向いたKKの表情は相変わらず苦虫を噛み潰したように皺が寄っていた。
「言ってろ」
一瞬だけ痛いほどに手を握られて、それから僕たちは無言のまま山を下った。