『おい、何でオレの服まで売ってるんだ』
右手が勝手にグイと前へ動いた。手のひらから漏れ出している黒いモヤも濃くなって、見るからに“怒っています”といった態度だ。なにより僕の内側の僕でない部分が不機嫌なのを微かに感じる。
『ヤダなあお客さん。秘密ですよヒ・ミ・ツ。そ〜んなマル秘事項、いくらお得意様だからって教えられるはずないじゃありませんか』
ね? と猫又は小首を傾げた。僕が見ると可愛い仕草も、右手から漏れる黒いモヤの主──KKにはどうにも癇に障ったようで、僕の内側に鎮座する不機嫌の、苛立ちと怒りが大きくなった。
猫又はかわいい。だがKKが怒るのも納得はいく。
狭い屋台の奥に吊るされていたロングコートはどうやらKKの私物らしい。なんでも、刑事時代に愛用していた代物だとか。
しかもコート一着だけならまだしも、KKの書いた報告書はあちこちの猫又商店で取り引きされている始末。それも、人並みに猫は好きな僕からしても法外だと眉を顰めるほどの値段で出回っている。
『人ん家勝手に漁りやがったな! この泥棒猫!』
「KKそれなんか違う気がする」
『やめてくださいよお客さん、人聞きの悪い。アタシらはちゃあんと正規ルートでしか仕入れてませんよ』
ニャニャニャ。恐らく笑っているのだろう。猫又は口元に前足を持っていくと、肩を揺らしてチラリと横目でKKを、というよりもKKの実体はないから僕を見た。
『別にいいんですよアタシは。このままお客さんが買ってかなくても。アンタが成仏してもこの外套が売れるまで、アタシが責任もってここに陳列しておくだけですよ。永遠に』
ニャ。猫又は再び小首を傾げる。金色の目に見つめられ、何となく胸の奥がざわついた。
僕の中に居るKKを見ているのだと思ったその目は、まるで僕を見ているようだ。動物とも人間とも異なるその視線に思わず喉が詰まる。
『ったく、もういい。んな昔のもんくれてやる。おい暁人、さっさと行くぞ』
「ちょっと待って」
またもや勝手に動こうとした右手を力づくで抑え、僕はボディバッグから冥価を入れた巾着袋を取り出した。すると共有しているKKの感情が、一瞬だけ無風になった。
「いくら?」
『オマエまさか買う気かよ』
『お、さすが肉体持ちだね、魂だけの旦那とは違ってお目が高い! 18,000Mにゃり』
巾着の中からチャリンチャリンと硬貨を広げる。結構な枚数があったはずだが、どう言う理屈か猫又は嬉しそうに喉をゴロゴロ鳴らしながら、その小さな羽織の袂に全てをしまった。その袂が膨れている様子も重さで羽織が着崩れる様子もないからなおさら不思議だ。
『毎度あり〜。いい買い物だと思うよ、アタシは』
またしても猫又は僕を見ながら、口元をニンマリと上げた。
『無駄遣いしやがって。んなもん買って何になる』
「さぁ。けど僕は無駄遣いじゃないと思うけど」
吹き抜けた木枯らしに、僕はコートの首元をギュッと寄せた。
渋谷のスクランブル交差点は今日も今日とて人混みでごった返している。平日の昼間だと言うのに遊びに来たであろう学生を尻目に、僕はと言えばいつも通りの外回りだ。冬物とはいえスーツの上にロングコート1枚を羽織っただけの格好はかなり堪えるものがある。
あれから不思議な力も失い超常現象に遭遇することなく、ただの人となってしまった僕に、相棒と呼んでくれた彼の意志を継ぐことは終ぞ叶わなかった。もしも今、この東京中に蔓延る穢れとマレビト退治に奔走できていたら、寒さなんて大した問題でもなかっただろう。
走ることもビルからビルへと駆けることも出来ず、ただ地を歩くだけの東京は、あまりにも寒かった。
『けど、それを着ていれば幾分マシでしょう』
ニャニャニャ。聞き覚えのある笑い声が響く。つられて見上げたショーウィンドウには、羽織を着て浮かぶ、尻尾が2本生えた猫の姿が写っていた。
ガラスの向こうには数えるのも嫌になるほどの人が忙しなく行き交っている。それを遮るように映る僕たちだけの時が止まったみたい。猫又は僕のすぐ後ろに浮かんで、金色の目を向けている。
「どう? 少しは様になったかな」
『ええ、随分とお似合いで』
猫又はそれだけ言うと、ゴロゴロ喉を鳴らしながら頭を下げて消えていった。
「本当、いい買い物させてもらったよ」