夢小説を書くほどに いくら立香本人が「たいしたことではなかった」と言っても、以蔵には負い目がある。実際に、みっともない嫉妬と優越感で立香の一度目の祝言をめちゃくちゃにしたのは以蔵なのだ。
そのおかげで立香を娶ることができる――というのは結果論でしかない。
だから今度こそ、立香の幸せな門出をともに祝いたい。
そう思いながら相談と折衝を重ね、途中経過の報告のために藤丸家を訪れた。今日は藤丸家から譲り受けた袴姿だ。
「まぁまぁまぁ、お前はよくやってくれるわね」
招かれた居間で、立香の母はうきうきしている。
「ご両親はどちらに泊まるの?」
「はい、お屋敷の近辺の宿を取ろうかと」
「こっちでお式を挙げるのは嬉しいのだけれど……土佐でもお披露目をしなくてもいいのかしら」
立香の母の言葉に、以蔵は反射的に立香を見た。立香は唇を噛んで下を向く。
しかし、隠してもしかたない。以蔵は、
(立香さん、申し訳ありません……)
と心中で詫びながら口を開いた。
「……うちん家は、あまり今回のことを……」
「……そう、それならしかたないわね」
濁した口調から、立香の母は察してくれた。立香はますます肩をすぼめる。
涙ながらに結婚を申し込み、潤んだ声で承諾してもらえて、以蔵は早速土佐の実家に手紙をしたためた。
二十二歳の、祝言の場で花婿から駆け落ちされた娘と結婚を決めたことを。
跡継ぎの座を弟に譲ったとはいえ、以蔵は長男だ。しかも上京して帝大を優秀な成績で卒業し、選良官僚としての道を歩み始めた。
娘を持つ親にとっては折り紙つきの優良物件に違いない。
以蔵の両親としても、女学校に通って教養と礼儀作法を身につけた都会的な適齢期の娘を嫁に迎えると期待していたはずだ。
『嫁き遅れ』を娶ることに、特に父は反対した。今の以蔵にはあまりにふさわしくない、嫁に瑕があっては土佐に凱旋するにも都合が悪い、と返信で言ってきた。
かつて、貧乏士族の苦学生にとって主家の令嬢は高嶺の花だった。
二人は何も変わっていないのに、世の評価は逆転してしまった。
立場や世間体でものを見ることの滑稽さにこっそり苦笑しながら、それでもこの気持ちは譲れない、と以蔵は繰り返し主張した。
両親は幼いみぎりからの以蔵の頑固さを知っていたから、
『言うて家を継ぐ立場やないし、東京で暮らすがじゃき』
と、最後は諦めとともに容認してくれた。
そんなわけで、今のところは土佐で披露宴を行う予定はない。
(孝行息子、とは言えんのう……)
家計が立ち行かなくなるぎりぎりまで、中学に通わせてくれた。父は藤丸家へ世話になるにあたっての保証人になってくれた。母は一高や帝大の寮生活のためにいろいろ気を遣ってくれた。
この結婚はそんな思いやりを裏切るものだ、と言われても反論できない。
それでも。
(わしは立香さんを幸せにしたいがじゃ……)
以蔵はその一心で動いている。
「ね、ねぇ、以蔵さん」
立香がなぜか口籠もりながら呼びかけてきた。
「ちょっと、裏庭行かない?」
立香の母を窺うと、鷹揚にうなずいている。
婚約したとはいえ、まだ以蔵は元使用人だ。母屋の立香の部屋へ上がるわけにはいかない(藤丸家の家族は「気にするな」と言ってくれているのだが、結婚という節目を迎えるまで上下の別ははっきりさせておきたい)。
連れ立って通用口から裏庭へ出た。昼下がりだから、書生が薪割りをしている。立香への想いを伏せていた(立香にはほぼ見抜かれていたのだが)頃のことが思い出されて、無性に懐かしい。
立香は和装の以蔵の袖を引っ張り、書生の目を避けるように裏庭の隅へと導いた。
「ねぇ、これ……」
立香は一冊の冊子を差し出した。
居間にいた時から、かたわらに置いていたものである。
どうやら女性誌だ。薄桃色の表紙に、黒インキで洒落た着物を着た女性が描かれている。
「これがどういたがですか」
立香は赤面して、わずかに震える手で雑誌の頁を繰った。
「ここ……」
小説と思しい頁で手が止まる。
「見て」
うっすらと目に涙の膜を張り、立香は一番上の段を指差した。
『乙女吾妻鏡 作・藤丸りつか』と書いてある。
「……立香さんが書かれた?」
驚きながら尋ねる。
以蔵が求婚する一年ほど前から、立香は尼寺に入る支度をしていた――と、立香の弟である未来の義弟から聞かされていた。
正確には尼寺ではなかったが、郊外に庵を結ぶ女世捨て人の世話になるのは出家とあまり変わらない。
その女世捨て人は生活のために雑誌に小説や人生相談の連載を持っているらしい。悔恨と傷心に苛まれていた立香に小説を書くことで癒しを得てみては、と助言助言していたことを告白の後で聞いた。
「おととしの冬頃にね、邪暗奴さんに送ったの」
邪暗奴というのが、その女世捨て人の名前だ。
「その頃はわたし、邪暗奴さんから食い扶持は自分で稼ぐように言われてて。それで、邪暗奴さんが雑誌の編集者さんに見せて……」
「はぁ、なるほど」
肯定も否定もできず、以蔵は頭半分ほど下にある婚約者の顔を見た。
立香は邪暗奴の庵で自活することを目指していたらしい。
このご時世で、女が筆一本に頼って生きるのは難しい。よほど才能があっても、同人にはなかなか入れないだろう。女性誌や少女雑誌でも女の書き手は侮られて、男と同じ稿料を得ることもできないかもしれない。
そんな困難を抱えてでも、妻を侍らせる以蔵から逃げたかった。以蔵へ傷を与えた己を許せなかった。
(罪らぁ……なんちゃぁなかったがにのう……)
立香曰く、『わたしの欲のままに以蔵さんを誘って、つらい未練を与えてしまった』ということだが――
もう二度と逢えなくなるからこそ、一夜の逢瀬が生きるよすがになる、ということを立香は理解していなかった。
もう一度、と願わなかったわけではない――しかし、降って湧いた僥倖がどれほど以蔵の学生生活の支えになったか。
そのことに想いを至らせなかった立香が愛しい。
互いに互いが気にしていなかったことへ罪悪感を覚え、六年間苦しんできた。
その罪を許すのは、相手ではなく己自身だ。
時間をかけて、互いに心の凝りがほどければいい。
そう思いながら、立香が広げた頁を見る。
「もう出回ってどうしようもなくなっちゃったけど……ごめんね?」
「何を謝るがですか」
「その、旦那様を差し置いて、小説なんかを発表して……」
「ほがぁなことですか」
以蔵はおかしくなって立香の橙色の髪を撫でた。
「わしが何や言うことやありません。こん頃の立香さんが何がなんでもわしから逃げたかったことはよう存じ上げちょります」
そう言うと、こわばっていた頬が少し緩んだ。
「ありがとう……」
「ほん代わり」
以蔵は立香の手から雑誌を取り上げた。
「え」
「読まいていただきますよ。立香さんが独りで何ぃ考えちょったか」
立香はいっぺんに赤面した。
「え、え、え、困る。困ります」
「どういてですか。わしに見られたらいかんことぉ書いちょったがですか」
「そ、そう、いや、そんなことは、ない、と、思います……けど……」
目を泳がせて動揺をあらわにする姿が可愛い。
「もう何百人も読んだがですろう。今更わし一人が加わったち、大したことないですろう?」
「い、いや……大したこと……ない、です……はい……」
さすがに、少しいじめすぎたかもしれない。退こうかとしたところで、立香は金色の視線を上げた。
「こ、ここで隠しごとをしても、しょうがないよね……読んで」
頬を染める立香に、強要した罪悪感も湧く。
「えいがですか」
「うん……もう世に出ちゃったものだから」
「ほいたら」
以蔵は女性誌を小脇に挟み、居間に戻ったらかばんにしまおうと決めた。
◆ ◆ ◆
結婚して新居に引っ越すまでの短い間、藤丸家の近くにまかないつきの下宿を借りている。
「ただいまもんてきました」
「はーい」
下宿屋の女将は歳を重ねて若い男の面倒を見ることに慣れていて、以蔵の土佐弁にもたいして動じずに対応してくれる。
日焼けした畳の敷かれた部屋で、ちゃぶ台の前に腰かける。水差しから湯呑みに湯冷ましを注ぎ
一口飲んで喉を潤してからかばんを開け、女性誌を取り出す。
はてさて。
「どがぁな出来ながじゃろうのう……」
女学生時代、立香は国語が好きだった。家庭方針からあまり本は買えなかったが、学校の図書室からよく蔵書を借りて読んでいた。
女学校三年(以蔵は中学五年)の時、せがまれて上野の帝国図書館へ連れて行った。夢中になって書棚を漁る立香をなんとかなだめすかして帰宅した頃には六時を回っていて、主人は以蔵の監督不行届を激しく責めた。
「わたしがわがままを言ったから……以蔵さんは悪くありません!」
身を挺した立香もまた旺盛すぎる学習意欲を咎められ、帝国図書館へ通うのを禁じられた。
「少しの寄り道はいい。あまり締めつけすぎて逃げることを覚えられても困る。だが、図書館にはもう二度と連れて行くな」
「立香は自分が何をしているかわかってないの。本なんて読む賢しらな子をお嫁に欲しがる家はないわ。何ごともにも分相応はあるということを、今のうちに教えてやらないと」
立香の両親の言葉に、以蔵は密かに奥歯を噛みしめた。
(どういてお嬢さんは自由に生きられんがじゃ……お嬢さんの聡さが世の中に縛りつけられるがを止められんわしが情けない……)
しかし、学費援助を受ける書生には主人に背く道はない。時折小間物屋や駄菓子屋につき添いつつ、退学の日まで女学校から立香を迎え続けた。
結婚に失敗して笑いものになった立香を、そんな資格はないと知りながらずっと案じていた。
もう何にも立香を縛らせたくない。つらい思いをしてきた立香を解き放ちたい。
それが以蔵の腕という籠の中だとしても。
立香を取り巻く籠を少しでも広くしたい。それだけの器を手に入れたい。
何が立香のためになるか、という手がかりを得るべく、以蔵は最初の一行を読み始めた。
~ ~ ~
あの頃のわたしは、義高さまが人質だったなんて考えもしていなかった。
ただわたしの許嫁だから対の屋に住まわっていて、わたしの顔を見に来てくれる、と。
世界を知らないことは、どれだけ幸せだったのだろう。
~ ~ ~
「お、義高と大姫じゃな」
鎌倉時代のできごとが記された、骨太の歴史書とされる『吾妻鏡』では珍しい恋物語だ。
源頼朝の娘・大姫と、木曾義仲の息子・義高のいとけなくも純粋な恋は、源氏の棟梁の座を巡った父同士の争いに踏みにじられる。
義仲を殺させた頼朝は後の禍根を恐れて十一歳の義高の命をも奪い、大姫を心の病へと突き落とした。
この二人を題材に、立香はどんな物語を紡いだのだろうか。
授業参観の父兄のような心持ちになる。
義高は毎日のように大姫の暮らす寝殿へ顔を見せる。語り手の二十歳の大姫は窮屈な人質生活を慮るが、六歳の大姫はただ己に逢いに来てくれていると無邪気に信じている。
ままごと遊びの妻役になり、夫役の義高へ甲斐甲斐しく尽くす大姫だが、ふと疑問に思う。
~ ~ ~
「義高さまは女の子の遊びばかりしていてつまらなくないかしら?」
義高さまは、幼いわたしの問いへ笑顔を向けた。
「私は姫の喜ぶ顔を見るのが何より好きなんです」
「でも……幸氏と目配せすることがあるでしょう? ああいう時、男の子にしかわからないことを考えてるんじゃなくて?」
義高さまと乳兄弟の幸氏との間には、言葉にしなくても通じ合える絆がある。わたしはそのことが無性にうらやましく、妬ましかった。
「……姫には敵いませんね」
義高さまは苦笑して、わたしの頭を撫でた。
「確かに姫の御前を下がってから、私と幸氏は鎌倉の街や野原を巡っています。あまり遠くには行けない身ですが……」
「わたしも、連れて行って」
義高さまはわたしの言葉に目を見開く。
「いけません、私たちは山や丘を駆け上ることもあります。お父君やお母君が大事にしている姫を危ない目には遭わせられません」
「でも……わたしは義高さまと添い遂げるのだから……義高さまのことは何でも知りたいの」
「ダメです」
「ダメじゃない。わたしは義高さまのことをわかりたいの」
「……」
義高さまは首を振ってわたしを見下ろした。
「しかたありません、姫。一度きりですからね?」
「はい!」
喜色を上げるわたしに、義高さまは困ったように微笑んだ。
~ ~ ~
(なんじゃ……こう……既視感が……)
脳内で何かが形をなそうとしている。
(なんぞどこかで……いや、気のせいかもしれんき)
深く考えてはいけない気がして、以蔵は誌面に改めて目を落とした。
義高は大姫と幸氏を連れて鶴岡八幡宮の裏山の獣道を登る。
人が通れるように整備された道ではない。大姫は木の根につまずいて転んでしまう。
足をくじいたかもしれない、と義高は大姫の草履を脱がせ、手ぬぐいを裂いて大姫の足首に巻く。
~ ~ ~
「姫、もう戻りましょう。お屋敷を抜け出して怪我をしたとわかったら、お母君はどれほどお悲しみになるか」
「もう少しだけ! 義高さまが言っていた、山からの眺めが見たいの!」
「姫……」
「それに、もう怪我はしてしまったのだもの。今戻っても山に登ってから戻っても同じよ」
~ ~ ~
詭弁めいた大姫の言葉に押し負け、義高は大姫を背負って見晴らしのいい崖上に着く。
眼下には大工や人夫が立ち働く、成長中の鎌倉の街。遠くに目をやれば、由比ヶ浜の入り江から広がる青い海。遠い右手には稲村ヶ崎がうずくまり、その向こうには江ノ島があるはずだ。
物心つく前から住んでいた街の全貌を初めて見渡し、大姫は歓声を上げた。
~ ~ ~
「素敵! 鎌倉はこんな風になっていたのね!」
「私も初めて見た時は感動しました。木曾は山の中で、一番高い木に登って見ても森が広がるばかりですから」
「義高さまと一緒なら、もっと素敵なものを見られるわね。わたしたち、ずっとずっと一緒よ」
「はい、姫。私はずっと、姫のおそばにおりますから」
木の切り株に腰かけたわたしに、義高さまは視線を合わせる。
その瞳に浮かんだ翳りのことなんて、わたしはちっとも気づかなかった。
好きな人のことを見ないで、ただ自分の嬉しさだけを優先してしまっていた。
子どもだったとはいえ、なんて愚かだったんだろう。
~ ~ ~
脳裏を、百貨店の屋上から見た東京の街並みがよぎった。
そして、と頁を返して義高のセリフを改めて確認する。
二人の父・頼朝と義仲は従兄弟だ。
頼朝の父・義朝は長男だったが、その父親(大姫と義高の曾祖父)・為義から嫌われていた。為義は母親の違う義仲の父・義賢の方を可愛がり、一時は跡を継がせようと考えていた。
その子同士の頼朝と義仲には、本来さほどの優劣はない。後の世で頼朝が高く見られるのは流刑前に朝廷の官位をもらっていたのと幕府を開いたからで、義仲が低く見られるのは京の貴族の礼儀を知らずに顰蹙を買っていたのと戦に負けて滅ぼされたからだ。
それなのに、この義高はずいぶんと大姫へ下手に出ている。まるで、主家の令嬢と使用人であるかのように。
(……)
既視感を消すことができないまま、先に進む。
源平合戦が始まり、それに伴い二人の父同士の争いが激化した。やがて義仲が討ち取られたという報が届く。義高にも真綿で首を絞められるような有形無形の圧力がかかり、日に日に緊張の増す面持ちに大姫は不安を覚える。
四月の末、女房の一人が義高の粛清計画を聞きつけて、大姫と母の政子に報告する。
大姫は幼いなりに考えを巡らせ、幸氏に義高の変装をさせて囮にして、義高には女房の衣を着せて鎌倉から逃がす。
しかしもちろんそんな浅はかな計画はすぐに露見し、義高は追っ手の御家人によって武蔵国の入間で討ち取られた。
~ ~ ~
胸に杭を打たれたら、このような気持ちになっただろうか。
わたしは何もできなかった。
もっとうまく立ち回っていれば、義高さまは命を奪われることもなかったかもしれない、と心から悔いた。
六歳の姫君に大人の男同士の争いを止める方法なんてなかった、と今なら思う。
けれどわたしは、深すぎる無力感と罪悪感に溺れていた。
もう二度と、あの包み込むような微笑みを見ることはできない。
優しく触れてくれるたおやかな手も、この世にはない。
わたしの未来は、真っ黒に塗りつぶされた。
父を憎むことにすら頭を巡らせられないほどの絶望。
この先、何にすがって生きればいいのか。
息を吸うことすら申し訳なくて、涙を止めることのできない日々が始まった。
~ ~ ~
「……たまるか……」
思わず感嘆が口から漏れる。
立香は大姫へ自己を投影している。
この言葉は、大姫の口を借りた立香の絶望だ。
以蔵を傷つけた(と思っていた)罪悪感は心から消えることなく、繰り返し立香を苛んでいたのだろう。
それこそ、以蔵を殺してしまったと思い詰めるほどに。
この感情をなかったことにはできない、と改めて感じる。
以蔵があの夜のことを大切な宝物だと思っていることも、立香が以蔵の胸に刃を突き立ててしまったと思っていたことも、変えられない真実だ。真実は人の数だけある。
だからせめて愛情で包み込むしかない。
華奢な身体を傷ごと抱きしめ、少しでも早く癒えるように、と。
そんな気持ちを抱いて、読み進める。
成長しても大姫の胸の傷は塞がらない。
義高を殺し、大姫を病ませた負い目のある頼朝は、どんな顔で娘と接すればいいのかわからない。
身分的に、御家人には嫁がせられない。頼朝と交流のある関白・九条兼実から紹介された公達と引き合わされても、大姫の心が動くことはない。
政子はなんとか大姫の鬱屈を晴らしたいと猿楽を呼んだり和歌や物語を教えさせたりするが、現状を打破できない。
大姫の適齢期が過ぎようとする中、頼朝は親心と実益の両方を満たす案を思いついた。
十代半ばの後鳥羽天皇のもとに入内することだ。帝の寵愛を受け、生まれた皇子が皇位を継げば、大姫はこの上ない名誉と財を手に入れられる。源氏には外戚の座が転がり込む。
もちろん、大姫は抵抗した。仮に帝から愛されたとしても、それは十年以上求め続けたものではない。大姫にとって、義高以外の人に価値はない。
しかし、ようやく大姫に報いる方法を見つけたと思い込んだ頼朝は、京との伝手を兼実から土御門通親に乗り換えてまで話を通してしまった。
決まってしまったことには逆らえない。
そうならざるを得ない、と思いながら大姫は女御にふさわしい教育を受ける。衣も調度も鎌倉で用意できる最高級品をしつらえ、何人もの御家人が荷運びの手配をする。
弟の頼家は随従しないので、帝にお目見得する機会のないことを残念がった。妹の三幡は、鎌倉では着る者のない十二単をまとう大姫に目を輝かせた。
空っぽの大姫は、上洛前夜も褥の上でぼんやりしていた。
求めるものが得られない人生には意味がない。求めるものはこの世にないのだから、大姫の人生に意味はない。意味がないなら、せめて父を喜ばせよう。こんな空っぽの娘を帝が寵愛するなんて思えないけれど。
そんな風に想いをたゆたわせていた大姫の耳に、茂みをかき分ける音が届いた。
瞬きの間もなく、一人の男が御簾をめくり上げる。
〜 ~ ~
「人を呼びますよ!」
小声でたしなめると、狼藉者は闇の中なのにわかるほどはっきりとわたしを見た。そして、口を押さえて嗚咽する。
「姫、姫……なんと美しくおなりに……」
男らしい低い声なのに、なぜかわたしの胸は締めつけられた。
男でも女でもない、声変わり前の美しい声が、耳に蘇る。
「どうぞ人などお呼びにならずに……私です、義高です」
その瞳に宿る光は、天狼星よりもなお鮮やかにわたしの心に刺さった。
何もかも変わっているはずなのに、何も変わっていない。
この人は義高さまだと、直感と本能が呼びかけた。
「姫、お迎えが遅くなって申し訳ありません。この義高、姫が入内されると聞いて居ても立ってもいられませんでした」
わたしは寝間着のまま義高さまに抱きついた。義高さまは数瞬逡巡して、わたしの背に腕を回した。
おぶってくれた時の身体は、若木のように伸びやかな感触だった。
今はたくましく、雄々しい。
「姫にひとつ伺いたいことかございます……この度の入内、姫はご納得の上のことでしょうか?」
その言葉に、心の堰が決壊した。涙があふれ、直垂の胸に顔を押し当てる。
「厭……入内なんてしたくない……! 義高さまがいなくなったから、わたしの人生に意味がなくなった。だから鎌倉殿の娘として、父上が望むように振る舞ってたの。でも、義高さまがここにいるなら……」
「姫」
わたしの肩に頬をすりつけながら、義高さまは呼びかけた。
「姫、姫……! 生きていてくださってありがとうございます……!」
~ ~ ~
義高は屋敷の外に馬を待たせていた。大姫を抱えて鞍をまたぎ、手網を引けば馬は北へと走り出した。
義高は道々、己と馬の首の間に座らせた大姫へからくりを教えてくれた。
十三年前、頼朝の追っ手から逃げていた義高だったが、入間の地で取り押さえられた。
しかしその者は大姫を慕い、義高との幸福を願っていた。大人同士の権力争いで失われる命を惜しがった。
その男は路傍に打ち捨てられていた同じ年頃の少年の遺体の首を斬り、出世欲の高い男に首桶を譲った。
首桶を鎌倉へ運んだ男は、大姫を悲しませたことに激怒した政子の命で死に追いやられた。無辜の者を巻き込んだことは後悔しているが……
木曾の母の許へたどり着いたが、いつ首が偽物たとバレるかわからない。母を危険に晒さないために、離れざるを得なかった。
その後の差配を担ったのが、和田義盛に再嫁していた巴御前だった。
義仲の忘れ形見を失うわけにはいかない。しかし木曾で義仲を慕う者は監視されている――と、巴は鎌倉からできる限りのことを指示した。
義高は世間から隠れて人知れず元服し、時折こっそりと母に会い、自給自足の生活を送っていた。
大姫を忘れられないから、妻を持つ気にはならなかった。大姫には身分の釣り合う男と幸せに過ごしてほしかった。
ところが、巴の使いから入内の話を聞かされた。
(姫は今でも義高さまを慕っておいでです)
帝の寵姫ともなれば、無位無官の義高にとって大姫は完全に雲の上の人になってしまう。
大姫がそんな運命を受け容れられるなら、義高の出る幕ではない。だが――それで本当にいいのか、と確認したくなった。
「木曾はいいところです。静かで山深く、暗い悪意などどこにもない。暮らす人々も素朴で、権謀術数渦巻く鎌倉とは空気の澄み具合が違います」
義高は言葉を切って、背後の大姫へ確認するように言った。
「私はもう木曾義仲の嫡男ではありません。姫の身の回りの世話をする女房もおらず、過酷なことばかりになるでしょう。やはり入内されたいと言うなら、今からでもお戻しできます」
大姫はその言葉を封じたくて義高の胸に頬をすりつけた。
~ ~ ~
「……ばか。義高さまのお嫁さんになれるなら、わたしはなんだってできる。だから、このままわたしをさらって」
「姫……!」
義高さまは声を震わせた。涙がわたしの額に落ちる。
「私を生かしてくれたあの御家人、巴殿、和田殿、姫を愛して護ってくださった政子殿……皆にはどれほど感謝してもし足りません」
わたしの目からもまた涙がこぼれ、義高さまの直垂を濡らす。
「ずいぶん回り道をしましたが――やっと私は姫を護れる。いつまでも共に暮らしましょう、姫」
「はい……!」
義高さまの心の臓が、とくとくと脈打っている。
(神様――)
八幡様、お稲荷様、弁天様――
神様だけでなく、とにかくすべてのものに感謝したくなった。
好きな人と共に暮らせる。
誰に邪魔されることなく、共白髪になるまで寄り添える。
つい先ほどまで思い浮かべることすらできなかった幸福が、甘くわたしを酔わせた。
~ ~ ~
「っ……」
以蔵は思わず口を押さえた。
(立香さん……!)
鼻の奥がつままれたように痛む。
小説としてのできは、正直陳腐だ。似たように悲恋を乗り越えて幸福を手に入れる話は、それこそ山ほどある。
しかし以蔵は、この小説の作者を知っている。好きな人を傷つけた慚愧の念に囚われ、己を責め続けて来たことを知っている。
そして、その苦しみを描いた人を心から愛している。
自分自身を責め苛み、それでいて救いを求める。
立香はそんな複雑な感情を心の奥底で飼っていた。
もっと早く迎えに行ければよかった――と思うが、以蔵も以蔵で罪の意識を抱えていた。
翌日の祝言に追い詰められた立香は、最後の思い出作りのために以蔵に夜這いをかけた。
そこにあった想いを、以蔵は『誰でもえいき、花婿に処女やりとうなかったがじゃろう』とはね返した。
(夢らぁ見たち、破れるだけじゃ)
心の奥底に封じ込めていた、叶わない想いを揺り動かされたくなかった。
目の前の現実が、己に都合のいい妄想としか思えなかった。
拒む以蔵に立香は、婚家がもたらす以蔵の将来の利益を取引材料として使った。
金や地位で動く男だと思われている。そう気づいて、頭に血が上った。
軽はずみな令嬢に男の現実を見せてやる――と思っていたが、やはり恋情を隠すことはできなかった。
だからこそ、事後はことさらに『遊び』だったことを強調した。
互いを揺るがさない、心の伴わない行為だということにしたかった。
その情動こそが立香を傷つけていた、なんて六年間まったく気づかずに。
(わしはなんちゅうアホじゃったか)
頭の回転の話ではない。
実際、勉強はできた。現実逃避のために机にかじりついていても、そうそう首席に与えられる恩師の銀時計を狙える位置には行けない。学業に関しては優秀だったのだろうという自覚はある。
しかしそれと賢さは別の話だ。賢い人間は目の前の人の機微を読み、いたずらに傷つけたりはしない。
以蔵は己を勉強ができる阿呆だと思っている。
その阿呆に、贖罪の機会が訪れた。
この小説を書いたのは、『嫁き遅れ』と蔑まれるまで白馬の若君の助けを待っていた人だ。
己を白馬の若君とは思わないが、そこに込められた期待には応えたい。
女性誌をちゃぶ台に起き、畳に横たわる。目尻からこぼれる涙を手の甲で拭い、洟をすする。
天井を見上げ、両腕で輪を作る。
あの夜、腕の間に立香がいた。
十六夜の蒼い光を浴びた白い肌。
たっぷりの蜜と艶にまみれて、以蔵を呼ぶ声。
触れた指にめり込み、溶けてしまうのではないかと思うほどに柔く、熱い脂肪。
初めて雄を迎え入れ、軋み、戸惑い、やがて喜悦を覚えた秘部。
恋情の見せた幻だったのではないかと疑うほどに、鮮やかであいまいな記憶だった。
しかし、あれは夢ではなかった。今度こそ、堂々と抱きしめられる。どんな苦難や試練からも護ってやれる。
(――愛しちゅう)
両手の輪を手前に引き寄せ、その幻影にくちづけた。
◆ ◆ ◆
祝言を挙げて初めての年明け。
立香は年末のうちに、鴨居にしつらえた神棚をぴかぴかに磨き上げた。
年が明けて二人連れ立って鎮守の社に参り、古い御札をお焚き上げして、新しい御札をいただいた。
榊立てにみずみずしい榊を活けて、御札を挟むように神棚に並べる。
鮮やかな手跡の残る御札の横に、封筒が添えられていることに気づいた。
折らずに紙幣を入れられそうな大きさの封筒は、少し色あせている。
「立香さん」
「ん?」
振り向く立香へ、以蔵は神棚を指差した。
「あの封筒、何でしょう。神棚に供えるようなもんですか」
立香はなぜか頬を染めてうつむいた。
「あ、は、はい……」
その反応が解せない。ここで話を終えたらもやもやだけが残るので、重ねて問う。
「わしには見覚えがないですけんど、何ぞ立香さんには大事なもんでしょうか。教えてもらえんと、夜も眠れんかもしれません」
「その……ね、稿料なの」
以蔵は雑誌に載った大姫の小説のことを思い出した。
胸が締めつけられるほど切実で、だからこそ過ぎてしまえばいささか滑稽にすら感じてしまう魂の叫び。
「はい」
相槌は少し笑いを含んだものになっていたかもしれない。立香はますます赤面する。
「うん、あれ。純文学の人にしたら幼すぎる小説」
「誰もほがぁなことは言うちょりませんんろう。小説に高尚も稚拙もない、ただ書きたいやつが書きたいように書くだけじゃ、ちお師匠さんも言うちょったがやないですかえ?」
自分に前を向かせてくれた邪暗奴の言葉だ、と立香が以前教えてくれた。
帝大を出た小説家のことも何人か知っているが、今昔物語を題材に世の無常を嘆いた作家も、現代を舞台に女主人公の波乱万丈の冒険を描いた作家もいる。
以蔵の言葉に、立香はわずかに頭を上げる。上目遣いの金色の瞳には、羞恥がにじんでいた。
「それでも……あれはあんまりにもわたしの願望が盛られすぎてたから……」
「愛しい嫁御からあればぁの願望向けられたら男冥利に尽きるっちゅうもんです。もっと自信持っとうせ」
うぅ、と消え入りそうな相槌を返した立香は、
「……うん、頑張る……で、あれがその、小説の稿料。わたし、大事にしたいの」
「大事にしたいがなら、こがぁに飾らいでたんすにしまうとか、銀行に預けるとかした方がえいがやないですかえ」
以蔵の言葉に、立香は首を振った。
「ううん、そういう、お金としての価値じゃなくて……これね、わたしが初めて自分の力で稼いだお金なの」
確かに、職業婦人でもない、家庭に入った女は給金をもらう手段を持たない。家計に用いるのは夫の給料だし、商家で店を預かる場合も扱うのは店の売上だ。
「もうそんな機会はないと思うから……覚えておきたいの」
家庭の大黒柱たる以蔵はもはや初任給をもらった気持ちなど思い出せないが――立香がそれをどう受け止めているかは想像できるつもりだ。
「ほいたら、とっと飾っちょりましょう。神棚見上げるたびに立香さんが仕事の誇りを思い出せたら、のうがえいですろう?」
「でも、もし家のお金がなくなったら遠慮なく使うよ?」
「よしとうせ、立香さんの虎の子に手ぇ出すほど落ちぶれんようにしますき。わしにも甲斐性はありますき」
以蔵がしっかりと視線を吸えると、立香は微笑んだ。
「うん……ありがとう。以蔵さんの気持ち、大事にしたい。五十円ぽっちだけど」
「五十円?」
以蔵は目をむいた。
「立香さん、あの小説で五十円しかもろうちょらんがですか?」
「う……うん」
急に腹立たしくなる。
五十円といったら、銀座あたりの寿司屋でそこそこのネタを頼んだら消えてしまう程度の金額だ。
「搾取じゃ……」
「以蔵さん? ――きゃっ」
思わず、細い肩を掴んでしまう。
「えいですか立香さん、今度雑誌に何ぞ載っける時はわしに一声かけとうせ。編集と交渉しちゃるきに……わしの嫁御の足許見たらどがぁな目に遭うか教えちゃりませんとのう」
以蔵の剣幕に戸惑ったのだろう、立香は首を傾げた。
「わたし、たぶんしばらくは小説なんて書かないよ?」
「まだわからん未来んことも含めて話しちょります。嫁御の権利護るがも、亭主の務めです」
「うん……ありがとう」
不器用ながら愛情が通じたのだろう、花が咲くような笑顔を見せてくれる。
もう曇らせたくはない。
(ほいじゃき、わしは気張らないかんがじゃ)
いつか、立香が立香らしく生きられる世が来た時のために。
そっと肩を引き寄せる。くちづけた頬の熱さに、たまらなく胸が弾んだ。