憂かりける人 特別な何かを期待していたわけではない。していたわけでは、ないけれど。
「塗り薬もお出ししますからね。一日三回、ちゃんと塗ってください。朝だけじゃありませんよ? 傷をしっかり治して万全の状態で任務に挑むのも隊士の責務なんですから。柱として皆の手本となるようお願いしますね」
「ああ」
慣れた手つきでぐるぐると包帯を巻く同僚の姿をじっと見つめながら、義勇はこの状況について思案する。手当てをしながら小言を言われるのはいつもと変わらないが、今日は面白い程に目が合わない。
「はい、もういいですよ」
包帯を留めた部分をぺちと叩き、彼女――胡蝶しのぶはあっさり義勇に背を向けた。室内を忙しなく動き回って塗り薬と包帯を用意する姿は、傍から見ればただテキパキと要領よく動いているように見えるだろう。しかし、義勇にしてみれば彼女が自分から逃げているようにしか見えないし、残念ながら実際その通りなのだろうと判断するに足る心当たりがなくもない。さてどうしたものかと悩みながらも着替え終わってしまった義勇は、しのぶに促されてのそりと椅子から腰を上げた。
「こちらに一週間分の塗り薬と包帯を入れています。包帯は余裕をもってお渡ししていますけど、もしも足りなくなったら鎹鴉を寄越してください」
義勇に小さな紙袋を手渡しながら、しのぶは視線を手元に向けたまま必要なことだけを口にした。いつもならば義勇の顔を覗き込んで「ちゃんと塗ってくださいね」と彼が頷くまで念押しするような場面なのに、今日はそのつもりもないらしい。やはり何か言うべきかと思った義勇が口を開いたところで、それを察したらしい彼女は笑顔を崩すことなく彼の背中を押して退室を促した。
「それではまた一週間後に」
半ば強制的に廊下に押し出されたとほぼ同時、義勇の背後でピシャリと戸が閉められた。鍵を掛けた音はしないので、開けようと思えば開けられるだろう。けれど、再びこの戸を開くのであれば、それなりの言葉を用意しておかねばなるまい。なぜなら彼女のらしくない対応は、きっと義勇が彼女に伝えてしまったあのことが原因なのだから。
「もう放っておいてくださいよ! 冨岡さんには関係ないことじゃありませんか!」
「関係ある」
「ありません!」
「ある。好いた女に手を出されて黙っていられるわけないだろう」
「……はい?」
半月ほど前、義勇はそうしてしのぶに好意を伝えた。計画的に伝えたわけではない。そもそも口にするまで当人が意識していなかった感情なのだから、事前に準備できるはずもなかろう。
任務帰りに立ち寄った街で、義勇は偶然、男に言い寄られているしのぶを見つけたのだ。昼間から酒を飲んでいたのか、男はまだ空も橙色に染まっていないというのに顔を真っ赤にしていて、彼女の腰に手を回して下卑た笑みを浮かべていた。
面倒な男に絡まれているのは一目瞭然だったが、鬼殺隊の柱であるしのぶが酔っ払った民間人に負けるはずもない。だから義勇も最初はわざわざ助けてやるつもりなどなかったのだが、男の手が彼女の臀部に下がったのを見た瞬間、彼は腹の底からどす黒い何かが溢れ出すのを感じた。そして二人のもとに駆け寄り男の腕を捻り上げており、男が逃げ出した後に彼女に説教めいたことを言って――気がつけばぽろりと、無自覚の好意を伝えてしまっていたのである。