世界のことなど知る由もなく、興味を持つ術すらなく生きていた。
それでもこの場所が世界で最も美しい星空を宿すのだと言えるのは、世界とは何かを教えたひとがいたからだ。
雪原に昇る朝日のようで、肌を凍て付かせ喉を刺す吹雪の疼痛のようで、そして瞬きの間に巡る季節のような女だった。それまでに見た美しいもののどれとも違うのに、別の言葉では形容できない在り方で北の地を生きる魔女。
「ね、あんたもこっちおいでよ。ほら、」
何かを気に入ったとき、その手の内にあるものを与えたがるとき、傷だらけで彼女の元へ戻った姿に見通しているみたいに微笑むとき。招く手の先のその爪は、椿の花の色をしていた。
舟に乗って湖へ出たいと言うからどうぞと答えたのに、これってあんたが普段死体を運んでるやつじゃない、なんて癇癪を起こすおかしな女。死の湖の渡し守ミスラの舟なのだ、死体を運ぶためであるのは当然で、そうと知っていて何を言うのかと思えば。
「普段はいいわよ、何だって! でも今はデートなんだから、こういうときくらい気を利かせなさいって言ってるの! せっかくこんなに綺麗な夜なのに!」
デートなんですか、これ。言いかけて、けれど小言の続きにかき消される。正直に面倒臭いと言ってしまうほうが面倒なことになりそうで、俺にはあなた好みの小洒落たものなんて用意できませんよ、とその辺りに落ちていた何かの骨を宙で弄んだ。呆れ顔で、まだ不服そうな様子は尖らせた唇が物語っていて、溜息こそつかなかったけれど、仕方ないわねと呟いてから光を宿す指先がそれを組み上げる。
「ほら、作ってあげたんだから、しっかり漕いでよ」
当然のように差し出された手を取って彼女が用意した舟に乗せてやれば、それだけで今度は笑顔を見せる。黒い塗装の上を這う金の装飾。あなたにしては控えめですね、と思ったままを口にして漕ぎ出すと、あたしは趣味がいいでしょ、と得意気な声が返ってきた。
湖面を割いて夜の奥、更にその先へ、滲み出す闇の中。雪の降らない凪風の晩。この北の地で、こんな日は年にどれほどあるだろう。もしかしたら数年に一度しかないかもしれない。
獣の遠吠え、死告鳥の羽ばたき。ときおり混ざる、かすかな歌声。チレッタの気まぐれで、尻すぼみになって終わって、続きでもなんでもない、また思い付いたように奏でて、流れて。
「いい夜よね、本当に」
「そうですか」
「あんたはそうは思わない? こんなに綺麗なのに」
「……まあ、嫌いじゃないですね。悪くはありません」
「そ。なら、好きってことね」
アメジストの空だとか、サファイアの色に酔いしれるとか、聞こえてくる歌はそんな言葉ばかりでなんだか意味が曖昧で。何が綺麗とか、どうだとか、俺に教えたのはあなたでしょう、と。あなたがそう言うのなら、そういうものなのだろうなと思って受け入れて、それでもやっぱり興味のわかないものはほったらかしてそのうちに忘れる。そのたびに、なんでこの良さがわかんないのよ、と泣いたり怒ったり、損してるわね、なんて勝手なことを言って笑ったりと、とにかく忙しない女だ。そんな彼女がこうして言葉少なに傍らにいることを思っていたら、歌うその横顔を眺めていたい、と。そんなことを、思ったような気がした。
「ミスラ」
傍へ、という意味を持って差し出された手が、何か大きな意味を持つもののように思えて惑う。大切だとか、特別だとか、どうでもいい存在ではないがそこまで言い切るほど寄り添い合わねば生きていけない自分たちではない。所有や誓約の元に成り立つ関係でもないのに、正しく言い表せないこの感触は何だというのか。妙だな、と胸の内に燻ったものを、蟠る前に振り払うために櫂を握り直し前を向いた。手を取る代わりに指先で、舟と揃いの紋様をなぞる。
「漕ぎ手は俺しかいないでしょう。しっかり漕げって、あなたが言ったんじゃないですか」
「いいわよ別に、そんなこと。それよりも、」
重心が変わって舟が揺れる。ごそごそと身動ぐ気配に振り返ると、体を横たえたチレッタが空に向かい手をのばしていた。何してるんです、と訊ねるより早く、急かす指先に再び招かれる。
「おいでったら。魔法で無理強いされたくないでしょ?」
「はあ……わかりましたよ。これでいいですか?」
櫂から手を離し膝をつき、チレッタの顔を覗き込む。何を掴むでもなく宙にあった手が、頬を包んで髪を絡め、瞼をなぞり唇を撫でる。離してください、と言わない自分のことを考えていた。拒む理由も浮かんでこなくては、そんなふうには思えずに。
「なんだか機嫌がよさそうですね。酔ってるわけでもないのに」
「飲みたかった?」
「……いえ、今日は、いいかな。あなたは?」
「いらない。もったいないじゃない」
普段ならきっとふたりとも、選ばないほうの選択肢。そんなことを、聞いて、答えて、繰り返しているうちに引き寄せられて。なんだかもういいかげん姿勢が不自然だ、首が痛いな、なんて考え事、そのうちに、倒れ込んでしまったほうが楽だったから。揃って仰向いて、星を眺める。瞬きを数えて、燃え尽きる様を見送って、濃くなる夜の気配、空気が静んでいくほどに星灯りも増す。
「チレッタ、」
「なに?」
「歌ってくれませんか」
歌なんて、このひとに会うまで知らなかった。歌い方も、音を奏でることも、物言わぬ死体や艶めく冷たい石や、ただあるがままの自然から教わることなどあろうはずもない。
沈黙と視線を受けながら静かに息をする。北の地に根を張るにはあまりにも脆く生まれつき、強かさも持たぬ者たちにとっては、この女の白い手は血の通わぬ酷薄さを想起させるものらしい。貴石で飾り立てることを好むそれが持つ存外高い熱に、触れたことのある者はどれほどいるのか。この絢爛で獰猛で、季節のひとときを切り取って形にしたような、湖水の如く澄んだ声を持つ大いなる北の魔女を深く知る者は。
おいで、と。再び呼ばれたような気がした。唇は、動いていなかったはずだけれど。なすがまま、されるがまま、胸に抱かれて頭を凭れる。二人で寝転がるにはやっぱり狭いですね、とか。こんなふうに過ごすならもっと寝心地よく作ってくださいよ、とか。そんな言葉は発する前に蒸発してどこかへいってしまった。文句を言うにはタイミングを逃したのかもしれない。皮膚と肉と骨に隔てられた向こうにある規則的な鼓動が、そういうものを一つひとつ、忘れさせようとしてくるから。
彼女の視線の向かう先を思い、同じように空を見遣る。今ここにあるのは漂う声の断片だけ。不均等に仕上げられた散光は過去のもの。それが水滴のように下垂る様を、こうして見上げたいのなら。
世界のことを教わった。雪も氷もない景色を、咲き乱れる花の香りを、強く在るとはどういうことか、己の心の使い方。そうしてこんな夜に知る。
ここより綺麗に星が見える場所なんて、この世界のどこにもないことを。