鬼の正体(匠メイ) ばり、ぼり、ざく! と漫画の効果音のような咀嚼音が響く。思わず口を抑えながら箸を置けば、火村さんは飲みかけのロックグラスを片手に吹き出した。
「ははっ……くっふ……はははははっ!」
「……んぐ」
「喋るな喋るな」
そんなに笑われてしまうような仕草だろうか。黙々と、もぐもぐと、口を動かしたのは単純に美味しかったからなのだけれど。噛み応えがある食感と熱々でジューシーな肉汁から広がる芳香さとほど良い塩加減が絶妙にマッチしていて、いくらでも味わいたい。もう少し柔らかな食感であれば箸が止まらなくなるほどだったに違いないから、きっとこのくらいの固さがちょうど良いのだと思う。
「……、とても美味しいです」
「ありがとよ」
相好を崩した火村さんの目尻に皺が寄った。仕事が終わった後、事務所に残って「試作品」と称した手料理を振る舞ってくれることが日常になりつつある。毎度ながら称賛をして、慈しむような表情で律儀にお礼を述べることも。
「節分の時使った豆をな。砕いて衣にしてみたんだよ」
「なるほど」
腑に落ちると同時に、こんなバリエーションがあるのかと感心する。食べ応えがあるはずだ。砕いた豆の衣が包んでいるのが豚肉という点も新鮮でしかない。鼻から抜ける豆の香りとマッチしていて、鳥の唐揚げとはまるきり違う代物だと思った。
「季節の行事を丸ごと味わっている気分です」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」
あまり気の利いた台詞を言えなくても例外なく喜んでくれる様相を不思議な気持ちで見つめる。貰って嬉しいのはこちらのはずなのに、どうしてだろう。分け与えてくれる側の火村さんの方が何十倍、何百倍も幸せそうな表情をしている。
(いつものことだと、当たり前のことだと、思ってはいけない)
勘違いしてしまいそうになり、火村さんや豆衣のご馳走からそっと目を逸らす。
とっくに咀嚼は終えているのに、次の一口を放り込みたいのに、胸の奥の何かが不意に押しとどめる。与えられるがままの幸せを享受してばかりの私に、罪悪感を植え付けられるような。
唐突に生まれたこの気持ちは何だろうと暫し本心を手繰り寄せてみて、ひとつの仮説に辿り着く。節分で追い払うべき鬼の存在が、自身の境遇と少し重なったからだ。
(おには外で。ふくは内……)
要するに敵や不幸の種になり得る存在を外に追いやり、幸福を家の中に閉じ込める。そうして無業息災を願う趣旨の日本伝統行事だ。となれば、私はどこに位置するのか。記憶のないまま転がり込んだ厄介者の私が「鬼ではない」と証明できる術は、今のところ持ち合わせていない。鬼を払うために豆を撒いているいるはずが、本当は撒かれる側だったなんて可能性も否定できないのだ。記憶を喪失している現状がぎりぎり、今日における穏やかな日常をかろうじてつなぎとめているだけに過ぎない。
だから、覚悟を決めなければ。
鬼だったと気がついた時すぐに「七篠メイ」を手放すだけの、覚悟を。
「メイちゃん?」
突如、至近距離で聞こえた声に肩が跳ねる。左側を向こうとするのと、左肩に気安く腕が乗せられたのはほぼ同時だった。
「……っ」
「お腹いっぱいか?」
「い、え……」
いつの間にグラスを置いていたのだろう。覗き込まれた火村さんからは表情が読み取れない。目元のほくろの傍には、笑い皺の痕がくっきり残っているというのに。
「福の神みたいなモンだよな」
だから、唐突にも思える台詞にどう反応して良いのかがわからない。
「俺の作った料理に美味いって、毎回とびっきりの笑顔をくれるんだからよ」
「……誰が」
「メイちゃんに決まってんだろ」
今度は心臓が跳ねそうになる。鬼とそう大差ないと考えていた私の心を読むように、肩に乗った腕に僅かな重みが加わった。
「……そうなると、ここにいる人たち皆、神様ってことになりますよ」
「なんでだよ」
「皆火村さんの作る料理が大好きだから」
「違いねえな」
そうなりゃ七福神よりよっぽど御利益がある事務所だな、と快活に笑う姿はもう、いつもの火村さんだ。ちっとも成り立たない理屈に可笑しさが込み上げるといつの間にか肩の重みは消えて、代わりにぽんぽんと頭を撫でてから離れていく。
* * *
ひと時の憂いが通り過ぎてか、メイちゃんは再び箸を手にした。節分用の豆を砕いて衣にした塩豚肉揚げは会心の出来栄えで、だからこそ再びメイちゃんが美味そうに頬張ってくれるのが素直に嬉しい。
(単純なもんだな、俺も)
先ほどまでメイちゃんの頭に触れていた右手をそっと握りこむ。少し硬い髪の感触とわずかな温もりだけが残るばかりで、当たり前だが鬼の角など生えていない。
先ほどの表情から察するに、おそらく節分のルーツを思い返していたに違いない。鬼は外に払われるものだとか何とか考えるだけでも馬鹿らしいが、彼女の境遇を思えばそのような考えに至るのは決して不自然ではないのが恐ろしい。
ばり、ぼりぼり、ざくざく。先ほどより多少遠慮したような咀嚼音に吹き出しそうになり、ぎりぎりのところで堪える。こんなに可愛らしく気を遣う子が鬼であるはずなどないのだ。
(むしろ本当に鬼の角を隠し持っているのは……)
有り得もしない空想に一層目を細めて、再びロックグラスを煽る。
アルコールなどでたかが外れるような飲み方はしないが、それでも今は二人きりの食卓で、ぎりぎり理性を保っている。
欲にまみれた鬼を外へ追い出すなら今のうちだろうが、果たして目の前の彼女はその事実に気がついているのだろうか。