無から黒への態度が終始「月彦モード」のまま終わるむざこく 受付の女性に応接室へと案内され、彼が入って来るまでの間は、いつになく緊張していた。今をときめく人気議員の鬼舞辻無惨が私設秘書を募集していると聞き、軽い気持ちで応募したら書類選考で合格したのだ。
ソファの横で立って待っていると、ノックする音が聞こえ「はい」と返事した。
「お待たせ致しました、鬼舞辻です」
爽やかな眩しい笑顔。そう、人気の一因が「イケメンすぎる政治家」と言われる、その比類なき容姿の良さなのだ。しかも自らコーヒーを乗せた盆を持ってきたので、思わず「私が」と近付いてしまった。
「いやいやお気遣いなく。どうぞ、お掛け下さい」
「それでは失礼致します」
一礼して着席する。なんと議員自らコーヒーを持ってくるなど意外だった。先程案内してくれた受付の女性は何をしているのか……様々なことを考えるが、彼は慣れた手つきでカップをソーサーに乗せ、こちらに置いて、自分の分も置いた。
「受付の彼女にさせたら良いのに、とお思いですよね。まぁ、男の私が出すより彼女が出した方が喜ばれることは多いのでしょうが、お茶出しは女性の仕事、受付の仕事って考え方は古いと私は思うので、こうして私が用意しています」
素晴らしい。思わず、そう言いそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。これから自分の主になる相手に対して「素晴らしい」など、こちらの視点の感想を述べるわけにはいかない。
「それに彼女が出入りすることで会話が途切れてしまいますからね。じっくり話し合いたい時は私が持ってくるようにしているのです。良かったら温かいうちにどうぞ」
「いただきます」
一応砂糖とミルクも用意されていたが、ブラックのまま飲んだ。さっぱりとした爽やかな酸味のある美味しいコーヒーだった。
「しかし、あなたのような有名な秘書が私のような駆け出しの議員のところに応募されたのは何故ですか?」
大学卒業後、海外の特殊部隊に入隊し、その時の経験を生かし自衛隊出身の保守系地方議員をはじめ、中央省庁の議員秘書、外部相談役等を務めてきた。鬼舞辻議員は人気はあれど、今までの議員の中では若手であり、発言力もそれほど強いわけではない。
「鬼舞辻先生の大学院時代の論文を拝読致しました」
「あれを? お恥ずかしい話です。正に絵に描いた餅、机上の空論です」
「とんでもない。先代の下で多くのことを学んでこられた方だからこそ書けるものだと感動致しました」
「門前の小僧ですよ。父のおかげで議員になる前から学ぶ機会は多く与えられました。そのおかげで今日の私があるのですが、まだまだこの国を良き方向に導くには力が足りません」
尊大な物言いだが少しも嫌な気にさせない。彼ならきっと、この国を良くしてくれるだろうという期待が持てる数少ない政治家なのだ。
「そのお手伝いがしたくて、ここに参りました」
「力強い味方が出来たと本当に嬉しく思っています。本当なら三顧の礼で迎えたいほどの方です。どうぞ宜しくお願いします」
彼は立ち上がり右手を差し出した。自分も立ち上がり固い握手を交わした。
本当に感じの良い青年である。だが、信用したわけではない。
内部に入れば本当の一面が見られるだろうと思っていた。
人気商売だと割り切って、人目のあるところでは聖人君主のように振る舞うが、一歩中に入ればそうではない人間を多く見てきている。それでも良い仕事をするなら何とも思わなかったが、この国の政治家はつまらない男が多すぎた。
だから自分を失望させないでくれよと思いながら鬼舞辻議員を見ていたが、本当に隙がなく、事務所の中にいても常に紳士的で、従業員に対して甘すぎると思うことすらあった。
代わりに入って間もない自分が他の従業員に苦言を呈すことがあり、そのことについて鬼舞辻議員がこちらに謝罪してきた。
「本来は私がしないといけないのに、嫌な役目をさせてしまい申し訳ない」
「いえ……先生には先生のお考えがおありなのに、出過ぎたことをしてしまい申し訳ございませんでした」
心地好すぎて逆に気味が悪い。そう思うほどに出来過ぎた男だった。
でも優しく弱い男ではない。しっかりと発言し、口論で負けることはない。化けることが上手いのか、はたまた完璧な男なのか。どちらにしても我が主に相応しいと思える相手に出会えたのだ。
仕事ぶりでは問題ないが、私生活で何か問題は抱えていないか。どれだけ有能な議員でもスキャンダルで失脚ことは決して珍しくない。
秘密裏に彼の私生活や過去を探っていたが、学生時代に数名の交際相手はいたようだが目立って悪い噂はなく、議員の息子特有の馬鹿げた遊びもしておらず、妻は某大手貿易会社の会長一族で娘がひとりいる。休日は娘を連れて遊びにいく姿が多数目撃され、パーティー会場に何度か娘を連れてきているが、彼の溺愛ぶりもすごいが娘も「将来はパパと結婚する」と笑顔で抱きついて周囲を笑顔にしていた。
今までで一番手のかからない議員の下に来たかもしれない。調査結果をシュレッダーに掛けながら思わず苦笑いした。
ある日のこと。
遊説先で地元議員との懇談が長引いてしまい、帰りの新幹線に間に合わなくなってしまった。急遽宿泊先を探したが、駅前のビジネスホテルがどこも満室で、一部屋だけキャンセルの出たダブルの部屋に泊まることになった。
「すみません、私の判断が遅かった為に……」
「いいや、私もついつい盛り上がってしまったから……悪いな、同じ部屋で寝泊まりなんて」
「とんでもないです、こちらこそ申し訳ございません」
近くのネットカフェで泊まると同室での寝泊まりを辞退したのだが、狭いベッドでも横になった方が良いと勧められ、近くの居酒屋で食事を済ませて部屋に戻ったところだった。
「先に風呂に入って良いか?」
「どうぞ、その間にスーツを掛けておきますね」
「頼む」
彼の脱いだスーツとワイシャツを預かった。
傍にいる時はほんのりとしか感じないが、改めて服を預かると甘い香水の匂いがする。不快さはなく、彼のイメージにぴったりの匂いだが、いささか扇情的な匂いではある。
衣類用の消臭剤を吹きかけ、ハンガーで吊るしていると、バスローブ姿で議員は出てきた。
「お先」
「では私も」
先程コンビニで購入した下着を持ってバスルームへと向かった。
長い髪を洗いながら、ふと気になったことを思い出す。
そう、コンビニで着替えを買う時に「先生は?」と尋ねると「持ってきているから大丈夫」と答えていた。
日頃から泊まりになった時の為に着替えを用意しているのかと思ったが、ふと今まで見つからなかったパズルのピースが見つかったような気持ちになる。
常に持ち歩いている新品の下着、色気のある甘すぎる香水、酒が入ると増えるスキンシップ。いや、自分が都合の良いように解釈しているだけだと冷たいシャワーを頭から浴び、逆上せた頭を冷やした。
キュッとシャワーの栓を閉め、同じように気を引き締めた。
髪を軽く乾かして部屋に戻ると、彼はビールを飲みながら横になり、そのまま眠ってしまったようだ。無防備な寝顔が可愛いと思いながら布団を掛けると、ぐいっと腕を引っ張られた。
「ちょっと油断しすぎではないか? 私が狼になる可能性を考えなかったか?」
「え?」
ふふっと普段と変わりない穏やかな笑みを浮かべているが、力が強すぎて抵抗できない。
「ご冗談を……」
「冗談ではない。君のような魅力的な人と二人きりになって、何もせず帰すなんてことは出来ないよ」
やはり見つけたピースは正しかった。
この一年足らずの月日を思い返し、そのたったひとつのピースを嵌めるべきか否かを考えたが、迷わず嵌めることを選んでしまい、彼の背中に腕を回してしまった。