ただいま 私は帰る場所を二度捨てた。
追い縋る妻子を捨て、かつての主の首を持ち、ここに辿り着いた。
この道を選んだことに後悔はないが、帰る場所がないということは自分の足跡が消えてしまったような一抹の寂しさがあった。
しかし、幾度も住まいを捨ててきた無惨は、この感情が理解できないようで「馬鹿馬鹿しい」と一蹴された。
「たとえ帰る場所があったとて、斯様に長く生きていては帰りを待つ者も生きてはいない。いずれにせよ我々には帰る場所などないのだ」
その通りである。
今まで潜伏先として世話になったところはいくつかあるが、そこの主は皆、疾うに亡くなっている。
人間という生き物は自分が食い殺さずとも、時がくれば自然と命が尽きるのだ。
感心している自分を見ながら、無惨も何やら思い出したようである。
「確かに私も都を追われた時はつらかったなぁ……」
千年の昔、京を一歩出れば何も無い田舎であり、雅やかな着物はおろか、雨風を凌げる場所もなく、日除けになる場所を探すだけでも一苦労したと大きな溜息を吐く。
貴族の出でヤブとはいえ薬師を付けてもらうほどの地位にいた方なので、都落ち同然の出奔はさぞかし堪えただろう。
「つらかったが、あの頃に戻りたいかと言われれば、二度と戻りたくないと答えるだろう」
その気持ちも解る。
過去が恋しいのではなく、自分には帰る場所がないのだと、ふと心細さに似た郷愁を感じたのだ。
それさえも愚かだと無惨は思うだろうが思いも寄らない言葉が返ってきた。
「ならば、ここを帰る場所と思えば良い」
「ここを……」
「お前より先に私がくたばることはないからな。但し、場所以上のことは求めるな。お前が戻ったと私に言おうが言わまいが、私は別にお前に対して何も言わないからな」
そんな言葉など不要である。
ここを「帰る場所」と言ってくれただけで、この道を選んだ自分がどれほど救われたか。
胸の内を読んでいることは解っている。だから、敢えて感謝の気持ちを口にせず静かに頭を下げた。
「只今戻りました」
「おかえりなさい!」
近くのコンビニに行って戻っただけて、皆が口々に「おかえり」と出迎えてくれる。無惨に頼まれた支払いの為、コンビニに行くから欲しいものはあるか? と皆に呼びかけると口々にコーヒーや何やを頼んできた。なのでいつも以上に出迎えが丁重だったのだ。
しかし無惨は何も言わず無言でパソコンに向かっている。
「戻りました」
「あぁ」
頼まれていた煙草を机に置きに行くと礼もなく、しれっと受け取った。
いつものことだ、そう思いながら自分の席に戻ると無惨は小さな声で「おかえり」と呟いた。
あの時の言葉を覚えていてくれたのか、当時の記憶が無惨にあるのかどうかすらも解らない。だが、幾世を隔てても自分にとっての帰る場所はここなのだ。そう感じて静かに頭を下げた。