黒死牟の前でだけ泣いてしまう無惨様 あの鬼舞辻無惨が泣くなんて考えられない。
一番付き合いの長い黒死牟ですら「泣き顔を見たことがない」とさらりと答えた。
それもそうだろう。あの鬼舞辻無惨が涙を流すなんて想像できない。というより「泣かないで欲しい」と黒死牟は願っていた。
たとえそれが嘘でも演技の涙であったとしても、あの美しい鬼舞辻無惨の瞳から涙が零れ落ちることが許せなかった。
それは死の間際、人の想いが受け継がれることを思い知る場面であったとしても、鬼舞辻無惨は泣かない。そうであって欲しかった。
あの時、涙を流してしまえば、藻掻いた千年を己自身が否定してしまうことになる。
そう言う自分も消えゆく時に後悔と共に涙を流した。なんと情けないことか。鬼として生きた一生を否定してしまうことになる。
あの日、鬼として生きることを選んだ自分に後悔はない。負けたことに対する無念と、死ぬ心細さから、どうしてもあの涙は止められなかった。
後悔などあるものか、鬼舞辻無惨が与えてくれた新たな日々があったからこそ、自分は自分でいられたのだ。
「泣かないで……」
藤の花の下で泣く無惨に手を伸ばしたいが届かない。鬼狩りたちに阻まれて、魂となっても、そこに辿り着くことが出来ないのだ。
泣かないで、泣かないで、その涙を流さないで。
「貴方様が泣いてしまわれたら、我らすべてが無意味になってしまう……」
鬼とならねば生きていけない者たちであった。新たに鬼になった者たちの身の上を聞けば、鬼となることで救われた者たちばかりであった。
それは彼なりの救済だったのであろう。人は生まれた時から幸せになることを保障されているわけではない。貧しき者、病の者、罪に手を染めた者、愛する者を失った者……枯れるほどに涙を流し、そして、やっと笑える瞬間を手に入れたのだ。
何度も繰り返す。己の瞳からはとめどなく涙が流れているが、鬼舞辻無惨にだけは涙を流してほしくないのだ。
黒死牟のささやかな願いは叶えられることはなく、藤の花の下で無惨は力尽き、もう二度と、無惨と出会う日など来ないのだろうと黒死牟は思っていた。そして、そんな寂しさも地獄での務めを終え、黒死牟が人として転生した時には、綺麗さっぱり忘れ去られていた。
継国巌勝。今生では彼の心を巣食う嫉妬や憎しみはなく、ただ彼の能力を信じて邁進する才能のみが与えられた。
眩しい太陽の下、巌勝は仕事の電話をしながら都会の街並みを歩く。すれ違う人々の顔など、いちいち見ていない。ただ、取引先との電話に集中していた時、ぼんっと肩がぶつかり持っていたスマホを落とした。
「失礼!」
相手の男がしゃがみこみ、スマホに手を伸ばした。巌勝も同じようにしゃがんでスマホに手を伸ばすと、指先が触れ合い、互いに見つめ合った。
何故だろう、初めて会ったのに、とても懐かしく、相手に対し味わったことのないような愛しさを感じた。そして、相手も美しい瞳からぽろりと一筋の涙を流す。
初めて出会ったのに何故だろう。その男の涙を美しいと思い、その男の涙が自分と再会したことでの喜びで流す涙であって欲しいと思ったのだ。
変な話である。初めて会ったのに「再会」なんて言葉が浮かぶなんて。巌勝はスマホを持ち、小さく頭を下げた。男も涙を拭い立ち去ろうとする。
どうしても引き留めたくて、その瞬間、誰かの名を叫んだ。
自分は「無惨」なんて人の名前を知らないはずなのに、その名を呼ぶと心が落ち着くのだ。不思議なことに、「無惨」と呼ばれたその男は振り返り、こちらを見て優しい笑顔を見せた。
本当に不思議なことばかりだ。今度は自分の視界が滲んで見えない。巌勝はその場で泣き崩れ、声をあげて泣いた。