社畜無惨様×居酒屋の店員巌勝 過労死が他人事ではないと思い始めたのは、ここ1~2年のことだ。
こんなはずではなかった。お決まりの台詞を思い浮かべながら、毎日何とか終電に間に合うように仕事を切り上げることを考えている。
大学卒業後、第一志望の外資系大手証券会社に就職した。資産運用業務に配属されるまでは自分の目標通りだった。
必死に働いて自身の資産を形成し、富裕層の人脈を作り、得た知識やコネクションを使って30歳までにリタイアして、自分も悠々自適の投資家生活を送ることが夢だった。しかし、そうはいかない。
仕事の合間に語学の勉強は必須である。入社前からTOEICで高得点を叩き出していたが、英語は出来て当たり前。中国語や他の言語習得も求められ、入社時に証券業務に関する資格は全て取ることが必須であった。それに加えて独学で公認会計士の試験にも合格した。
仕事中は顧客の応対に追われ、夜になると海外支店とのオンライン会議、休日は毎週接待ゴルフ……満足に寝る時間もないのだ。
これだけ頑張っても営業成績は1位になれない。要領が悪いわけではない。皆、死ぬ気で頑張っているので、勝ちが見えず、解ることは燃え尽きて脱落した者が負けということだ。
会社名を言えば合コンで入れ食いだと聞いていたが、合コンなんて行く時間がそもそもない。彼女は大学を卒業してから出来ていない。風俗に行くことすら面倒臭い。
スーツ以外の買い物もしていなければ、出張や研修以外で旅行に行った記憶もない。当初の予定通り、貯金額は凄まじいものになっているが、それを投資して運用しようという気にすらならない。最低限の積立しかしていなかった。
もう人生が終わった気がした。気付けばリタイアするはずの30歳になったが、寝に帰るだけの家で、ひと眠りしたら、始発に乗り経済新聞を読みながら会社に向かう。
フラフラと家に向かっていると、ふと一軒の居酒屋が未だ暖簾を出していることに気付いた。
腕時計を見ると、今日はいつもより早く退勤したようで、たまにはまともな飯が食いたいと思い暖簾をくぐった。
「まだいけますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
居酒屋と呼ぶには小洒落すぎた内装の店だった。黒を基調とした店内はカウンターと奥に座敷がある小さな店で、壁張りメニューなど、がやがやしたものがないので凄く落ち着いた。
他に客がいないこともあって、余計に静かな雰囲気なのでホッとした。1日中、電話の音や何かしらのアラーム音を聞いていると、煩い環境に行くと眩暈がするのだ。
渡された温かなおしぼりで手を拭きながら、ぼんやりと店内を見渡していると、カウンターの中にいた大将がにっこりと笑った。
「大分、お疲れですね」
「え、あぁ、はい……」
初対面の相手に言われるなんて、よっぽどだな……と切ない気持ちになる。これでも大学時代はミスターコンテストで優勝したイケメンで有名だったのだが……と思っていると、ことんと目の前に、お猪口に入った白い液体が置かれた。
「これは?」
「蓮根のすり流しです。疲労回復効果がありますし、お腹に優しいので、食前に飲んでいただいているのです」
蓮根の食感が僅かに残り、優しい出汁の風味とすりおろした生姜のピリッとしたアクセントがとても美味しかった。
これだけで癒される……そう思うと、涙が出そうになった。
「だ、大丈夫ですか?」
大将はこちらを見て、オロオロしている。それもそうだろう。出した料理を食べて涙目になっている客を見て無視するほど、鈍い大将ではなさそうだ。
「この数年、ずっと忙しくて、体に良いものとは程遠い暮らしをしていますし、こうして誰かに健康を気遣ってもらうこともなかったので……勿論、自分自身も自分に無頓着でした」
こんな小さなお猪口ひとつに、様々な手間が掛けられていることは一口飲んだだけで解った。それはただ美味しいだけではなく、作り手の愛情すら感じられて、味覚だけでなく心まで満たされるようだった。
「正直、旨いものは接待で食っています。鉄板焼き、中華、フレンチ……でも、今まで食べたどの料理より、これが一番沁みました」
「嬉しいですね、料理人冥利に尽きます」
自分と同年代の大将は嬉しそうに笑った。目元が涼やかな美形で、元気な時ならその顔に見入っていただろうが、今は久し振りに腹が減るという感覚に支配されていた。
「今日は酒を飲まず、ちゃんと飯が食いたいな……良いですか?」
「解りました、いくつかお出ししますね。苦手なものはありますか?」
そうして会話を交わしながら、大将の料理を腹いっぱい食べた。
会計の時、店名と大将の名前が書かれた名刺を貰った。
「うちの料理で癒されるなら、いつでも来て下さいね」
継国巌勝、良い名前だなと思っていると、釣銭を渡される時、両手でぎゅっと手を包まれた。
「こんなに美味しいって食べて貰えたら作った甲斐があります。俺も元気を貰えました、有難う」
ヤバい、泣きそう……そう思いながら、大将の手を握り返した。
あんなに男前で、こんな旨い飯が作れたら、さぞかし女にモテるだろうな……と思いながら、久し振りの満腹感に満足しながら帰宅した。
そこから週5ペースで通い、時々、翌日のお弁当にどうぞ、と持ち帰りの料理なんかも渡してもらうようになった。
今まで着ていたスーツのサイズが合わなくなり、鏡で見ると、ちょっと太ったな……と体型を気にしていたが、大将に「最初に来た時が痩せすぎでした。今、適正体重でしょう?」と言われ、風呂に入る度に鏡で体型を確認したが、以前のようにあばらが浮き出ていることはなく、引き締まった良い体型だった。そして、春の健康診断で初めてオールAを取った。
「考えたら、社会人になってから飯を旨いって思った日なんてなかったなぁ……」
「食は生きる基本ですよ」
「本当に今ならそう思う。大将みたいな嫁さんがいたら、家に帰るのが楽しいだろうなぁ……」
そうぼやいた瞬間、大将は持っていた皿を落とした。ガシャンと割れた音で我に返り「すみません」と片付け始めた。
「面白いこと言いますね」
「いや、本当。ここの弁当を職場に持って行ったら、皆に愛妻弁当ですかって言われて、ちょっと嬉しかった……」
ゴツンッと思い切り棚で頭をぶつける音が聞こえて、意外とどんくさいんだな、この人……と思いながら、アツアツの揚げ出し豆腐を食べた。
今日も料理が旨い。明日もここに来るのが楽しみだ。