その日、空はやけに鮮やかな青色をしていた先程授業をしていた教室に自身のペンケースを取りに行った帰り、廊下を歩いていた霊幻は階段の隅でうずくまっている人影を見つけた。
「お前……一組の影山だよな。こんなところで何やってるんだ?」
小柄な体格、そして男子中学生にしては白い肌と地味な髪型。顔は見えないがおそらく二年一組の影山茂夫で間違いないだろう。
彼について、週に二回ほど授業を受け持っている霊幻が知っていることはあまり多くない。自分が今年赴任して来たばかりというのもあるが、とにかく大人しい生徒なのだ。
授業中に発言することはほとんどなく、真面目にノートを取っているか、たまに窓の外を眺めているかのどちらか。
そう言えば授業中に寝ているところを見たことがないような気がするが、とにかくどこにでもいるような、大人しくて真面目な普通の中学生そのもの。
そんな真面目そうな茂夫が、本来なら授業の途中であるこの時間にサボりをしていることに霊幻は少し驚きを感じていた。
「具合が悪そうだな。歩けないなら保険の先生呼んできた方がいいか」
「……こ、来ないでください」
「は?」
「信じてもらえないかもしれないけど、今の僕は近くにいる人を傷つけてしまうかもしれないんです。お願いだから、見なかったことにしてください」
「……そうは言われてもだな」
霊幻は規則に対して厳しい方ではないし、むしろ生活指導などを担当している教員に比べればだいぶ緩い方だと思っている。だが教職員として、授業時間に体調が悪そうな生徒が一人でいるのを無視することはできない。
というより、さっきから茂夫がなんの話をしているのかさっぱり分からないため、霊幻としてもどうすれば良いのかよく分からなかった。
「なぁ、傷つけるっていうのは、具体的にどういう意味だ?」
「えっと……実は僕、超能力が使えるんです」
「超能力っていうと……物が浮かせられるとかスプーンが曲げられるとかそういうやつか」
「はい。でも僕の力はそれだけじゃなくて、意識を失ったり体調が悪いと勝手に暴走したりして」
俯いていた顔を上げた茂夫の肌は、元々色が白いとはいえ、随分青ざめているような印象を受けた。思春期によくある思い込みにしては、やけに思い詰めている、もしくは何かに怯えているような印象を受けた。
(……下手に否定しない方が良さそうだな)
霊幻は少し距離を空けて、茂夫の隣に腰をかけた。経験上、込み入った話をする時は隣に座っている方が相手にリラックスしてもらいやすいのだ。
「……実は俺も、影山と同じことで悩んでいた時期があってな」
「先生も、ですか?」
「あぁ。お前ほど強い力を持っていたわけじゃなかったが、たまに授業中に力が漏れてないか心配してたよ」
即興で考えた作り話に乗っかってくれるかはイチかバチかの賭けだったが、こちらを見る目には驚きと、初めて理解者を得られたかのような 希望に満ちており、どうやら信じてもらえたらしい。
「先生は、どうやって自分の力をコントロール出来るようになったんですか?」
「そうだな……俺の場合は大人になるにつれて自然とコントロールの仕方が身についていったわけだが、影山だって必ず自分の力との付き合い方が分かるはずだ」
自分の言葉はほとんどが嘘で、我ながら馬鹿馬鹿しいことを言っていると思う。教師として、彼の幻想を肯定することが正しいかどうかも分からない。
けれど、この多感な時期にいる子供が少しでも安心できるように、そう思う気持ちだけはおそらく本当だ。
「だから、あまり重く考えすぎる必要はない。影山くらいの年頃だったら誰だって悩むことだからな」
嘘をつく時、人は目が泳ぐという。ならば嘘をつくコツは相手と目を合わせることだ。数秒ほど自分の目を凝視していた茂夫は、床に目線を移してからぽつりと言葉をこぼした。
「……先生も、僕と同じ……」
「まぁ、そうなるな。分かってもらえたらとりあえず保健室に行ってくれると助かるんだが」
「あ、あの!また相談に行ってもいいですか」
「あー、授業の質問ならいくらでも構わないんだが、俺ができるアドバイスなんてたかが知れてるし……ってもうこんな時間か!」
面倒な話の流れになったと、左腕に目をやった霊幻は時計の針が授業の終了五分前を指していることに驚き、慌てて立ち上がった。
「悪い、次の授業の支度があるから話はまた後でな!」
そう言って後ろを向きながら歩いていたせいか、階段を下ろうとした足が滑り落ち、身体が宙を浮く。落ちる、そう思って衝撃に備えて目を瞑った時だった。
「先生!」
焦ったような彼の声がした。あぁ、このままでは嫌なものを見せてしまう。目の前で人が、ましてやさっきまで自分と話していた人間が怪我するところなんて見たくないだろう、そう思っていた。
「は……?」
「良かった、間に合った……」
いつまで経っても来ない痛みに、恐る恐る目を開けた霊幻が見たのは廊下の窓に映る、浮遊している自分の姿だった。目の前にはこちらに向かって指を刺している茂夫の姿。
そのまま彼の指がなぞる通りに自分は動き、自分を包む力のバリアのような物によって床に運ばれる。
「先生、怪我はないですか?」
とてつもないことをしでかしておいて普段通りの声色でこちらを心配する茂夫の姿を見て、霊幻はやっと理解した。先程までの茂夫の言葉は、ありきたりな思春期の思い込みでも虚言癖でも、ましてや幻覚でもなんでもない。
「……あぁ、おかげさまでな」
正真正銘、彼は本物の超能力者だったのだ。