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    hinorea23

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    hinorea23

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    ヒヨロナと頬にキスのお話です。

    #ヒヨロナ
    henbane

     早寝早起きをした。宿題を忘れなかった。家事を沢山手伝った。通学中に人助けをした。かけっこで一番になった。テストで前回よりも良い点を取った。喧嘩をした妹にちゃんと謝った。たとえ結果が伴っていなくても、弟が何か努力をする度に、一生懸命な姿が可愛くて、人一倍褒めてきた記憶がある。
    「おお、すごいな。偉いなぁ、ヒデは」
     濡れた手を急いでエプロンで拭いてから、弟を抱き上げる。よくやったと額を合わせれば、誇らしげに瞳が輝いた。晴天の空のように澄んだ瞳が、もっともっと褒めてと訴えてくる。小さな唇が、踊る音符を次々と紡いでいく。
    「頑張ったヒデオには、兄ちゃんが特別にちゅーしてやろうな」
     そう言って、苺大福のような頬に口づけた。音符の数を増やし、弟はきゃっきゃと炭酸が弾けるような歓声を上げて喜んだ。素直な感情が嬉しくて、二回、三回とキスを続けた。
    「へへ、にいちゃんのほっぺにちゅーは、ご褒美?」
    「おう。これからも、ヒデの頑張りを見ているからな。兄ちゃんに、沢山ちゅーさせてくれよ?」
    「っ、うん! 俺、いっぱい頑張る!」
     それは、幼き日に結んだ、他愛もない約束だった。いつしか心地よく忘却されていく、思い出の一つだった。伸び伸びと成長していく弟の養分の一つになれたらいいと、思っていた。本当に、それだけだったのだ。
     だから今、戸惑いばかりが前に押し出されて、伸ばした手を虚空に固まらせてしまっている。


     たんぽぽの綿毛が空を舞う時のような柔らかい音を立てて、弟は瞼を下ろしている。ほんのりと頬を染めて、兄の次の行動を心待ちにしている。その表情は、数多くの女性と遊んできたヒヨシには、悲しいくらいすぐ分かってしまった。ああ、これは、キスを要求する顔だ。
    (お前、まさか)
     数年に渡るわだかまりが溶けてから初めて、弟達と合同で仕事をした。弟の放つ弾丸が、新横浜の平和を迷惑で脅かす吸血鬼を砕いた。本当に強くなったと、心の底から感心した。現場の片付けを終えた後、活躍を労いに弟の元へ行った。少しの緊張とそれを凌ぐ高揚感が、何だか気恥ずかしかった。けれど、よくやったと肩を叩こうとした時、弟は碧霄を一瞬初々しく光らせてはにかんでから、赤い帽子を脱ぎ、そっと目を瞑った。そして、現在に至る。
    (いや……それは、それは駄目だ)
     寸分違わずに重なる弟の姿に、眩暈を覚える。弟はいつも、背中に純白の羽を生やしたかのような態度で、己のキスを待った。頬で鳴る春の音色を、胸躍らせながら待っていた。
    「……おい、ヒデオ」
    「何? 兄貴」
    「何って、おみゃあこそ、何しとる?」
    「…………え?」
     初めて聞く言葉に困惑しているような声を漏らして、弟は瞼の幕を上げた。瞬きを不自然に繰り返し、こちらを見つめ返した。せめて歪んでしまわないようにと、ヒヨシは頬に力を入れる。
    「いきなりそんな顔をして。びっくりしたじゃろ」
    「え、だって、兄貴、いつもしてくれただろ? あの、ほら、ええと、頬に、さ」
     予想は、願っていない方向に、行くなと叫ぶ方向に、見事に的中した。何とか腕を下ろし、照れくさそうに帽子をいじる弟に、深く息を吐く。
    「あのなぁ……一体いつの話をしとる。お前も俺も、もう子供じゃないじゃろ?」
     今度は、弟の表情が、泥水で薄められた絵の具のような、ぼやけたものになった。真正面から受け止めたヒヨシは、胸が鋭く痛むのを感じた。錐が突き刺さった、血を伴う痛みだった。冷たい夜のコンクリートに落ちていった血の滴を、その醜い死体を、彼自身も呆然と見た。
     だけど、駄目なのだ、それは。大人になった兄弟がするものではない。
    「三十過ぎたおじさんと、二十歳過ぎた青年が頬にキスなんて、誰かに見られたらどうする? 誤解もされるし、お前の名声にも罅が入る。お前はもう十分に一人前じゃ。ご褒美はもう、必要ないじゃろ? そんなことをせんでも、お前は俺の自慢の弟だぞ」
     口の歯車を、回す。義務的に、弟に、そして自分に、正しいと言い聞かせながら。けれど無理矢理作る言葉を塗り重ねるほど、弟の瞳からは、柱が一斉に割れるように光が失われていく。ぐさり、ぐさりと、心臓を攻撃する錐も、増えていく。それでも、せり上がった呻きを、押さえつけた感情の下に隠した。ようやく弟の肩に手を置いて、焦る気持ちを抑えて、話を締めくくる。
    「今夜も、お疲れだったな。流石だったぞ。日々、努力を怠らずに、退治人の腕を磨いているお前を、尊敬しておるよ」
    「……あにっ、俺、ちが……そうじゃ」
    「うん?」
     先程とは違う朱が、弟の頬を支配した。己が触れなかったそこを乱暴に擦り、弟はうなだれた。螺旋が歪んだ歯車が、大きく軋んだ。血が無様な模様を描いて、溢れた。あまりの痛さに、息が詰まりそうになった。それでも、首を横に振る大勢の己がいた。
    「どうした?」
     弟も首を振る。己とは真逆の方向へ。
    「……おれ、ちがう、にいちゃん、に…………」
     だけど弟はそれ以上、何も答えなかった。言えなかったのだと、推察出来た。大団円を迎えるはずの退治劇は、後味の悪さと、抉られるような罪悪感を残して、終わった。言葉の代わりに、一粒の涙が、静かに弟の頬を伝ったのを最後に、記憶も突然途切れている。その後どうやって家に辿り着いたのか、欠片も思い出せないくらいに。


    (泣かせてしまった……)
     吸対室の窓から昇る月を見上げながら、ヒヨシはため息をつく。新横浜の夜を照らす月は、今夜は一層物淋しげな色をしていた。その形が弟の目に浮かんだ涙の粒に似ていて、塞がらない傷が疼いた。奥歯を噛み、瞼の裏に刻まれた光景に手を握りしめる。
     弟の頬にキスをするのを拒んでから、数日が経っていた。弟は、誰の目から見ても明らかなほど、落ち込んでいた。淀みなく、変わらぬ温度を保って過ぎていけるはずの日々は、濁流に飲まれている。
     あれからも、弟とは幾度か顔を合わせている。そして兄だから、兄ゆえに、直ちに分かってしまう。弟の態度、動作、声の裏側に、傷跡が無数に刻まれたままになっていることに。新鮮な血が、流れているままになっていることに。紛れもない己が、再び弟をひどく傷つけてしまった。弟の瞳は哀しくひび割れた青鈍色になり、今も溺れている。
     どうすれば良かったのだろう。或の頃のように、頬にキスをすれば良かったのだろうか? 四六時中、煮詰めるように考え続けている。幼少期の延長で、弟の頬に口づければ丸く終わるのか。しかしそれは兄弟のあるべき姿から、かけ離れているものではないか。
    (俺達は、血を分けた兄弟で、一緒に暮らしてきた家族で)
     兄弟だから、キスが出来た。
     だけど、兄弟だから、もうキスは出来ない。
     だけど、それが正解ならば、大切な弟は一生、泣いたままだ。
    「…………」
     胸に手を当てる。指の腹が、赤く染まる。この痛みもどこから生まれているのかと、考える。何故、痛いのだろう。
    「隊長」
     背後から声をかけられ、底のない沼に暗く沈んでいた意識が慌てて顔を上げる。
    「……っ、おお、すまん、半田か。パトロール、ご苦労じゃったな。変わりなかったか?」
     見えない箇所の汗を拭い、有能な部下を労えば、彼は一呼吸置いてから曖昧に頷いた。
    「何じゃ。変な吸血鬼でも出たんか?」
    「いえ、そうではないのですが……」
     首を傾げ、遠慮がちに、さらに不思議そうにこちらを見る部下に、ヒヨシは疑問符を顔に貼り付ける。
    「隊長も、何か悩み事があるんですか?」
     しばしの逡巡の後、一旦は閉じかけた口から発せられた問いかけに、文字通り目を丸くした。
    「……どういう意味じゃ、それ?」
    「ロナルドに会ったんですが、隊長が彼奴と、全く同じ顔をしていたので。勿論お二人は他人だし、同じと表現するのは変ですが、何というか、瓜二つだったので、つい」
     不純物のない続きの言葉に、己の肩が震えたのが、分かった。消えない弟の姿が、悲しみで萎れた姿が、否応無しに迫ってくる。遠くで、雷が鳴った。
    「ここ数日、というか先日の捕物帳から、ロナルドの様子が妙におかしいのはご存知です? 元気がないとういうか、絶望しているというか。自分としては、今の奴は張り合いが全然ないんですが」
    「そのロナルドと、俺が、全く同じ顔をしている、と」
    「あ、誤解がないように言いますが、隊長は本日も完璧に仕事を捌いていると思います。ただ、彼奴みたいに、苦しそうに見えて。まるで、そうですね……全く同じことに悩んでいるみたいに感じられたので。何かあったんですか?」
     返事の前に、無意識に瞬きをしていた。瞼の裏にいる弟の暗い瞳に、自分が映っている。泣いている弟の瞳にいる兄も、血を流して同じ顔をしていた。
    手を伸ばそうとすれば、或の夜、弟を否定した大勢の自分自身が、慌てて怯えながら罵倒してきた。掴むな。求めるな。駄目だ。その先は、兄弟じゃない。
     だけど、それまで沈黙を貫いていた、一番真ん中にいる自分が、一つに結んだ髪を揺らし、峻烈に澄んだ瞳で見据えて、厳かに唇を動かした。遠い日に結んだ約束を抱いて、迷いを払う力強い口調で、兄ならば、弟から、もう二度と、逃げるなと。
    「あの、隊長……?」
     額に手を当て、突然低く笑い出した上司に、半田の声が少し裏返る。
    「大丈夫ですか?」
    「半田、お前って、本当にすごいのう」
     益々訳が分からない顔をする部下にも微笑み、ヒヨシは胸の血を丁寧に拭き取る。年下の部下に教えてもらわないと、痛みの意味すら分からなかった、出ていた答えから目を背けていた己が、情けなかった。
    (俺のこれも、つまりは同じだったのか……)
     弟の苦しみの原因は分かっているのに、己の苦しみの原因からは、逃げていただけだったのだ。
    「流石俺の頼もしい部下じゃ。今度、礼をさせてもらうぞ。以前あげた恐竜のぬいぐるみ以外で、考えておいてくれ」
    「えっ、あ、ええと、ありがとう、ございます……?」
     会話の枠から最後まで外れつつも、嬉しそうに律儀に礼を言う部下の肩を叩いて、頭上の月に頷いた。間に合うだろうか。どうすればいいかなど、決まっている。もう兄失格かもしれないが、弟の涙を、拭いに行かなければならない。


    「すまんな、呼び出して」
     誰もいない夜の公園に、朧な赤が姿を現した。恐々と近づいてくる影に手を振れば、或の日のままの青白い顔をした弟がいた。
    「……あに、隊長さんこそ、仕事じゃねぇの?」
    「今は休憩時間じゃ。どうしても、今夜、お前と話がしたくてな。お前こそ忙しい中、来てくれて感謝する」
     距離を取って立ち止まる弟に、向き合う。足元から崩れてしまいそうに、可哀想なほどぶるぶると震えている弟に、歩み寄る。
    「謝らせてくれ、ヒデオ。すまんかった」
     そして姿勢を正し、頭を下げた。穏やかな風が走り、弟が息を飲む音を運んできた。
    「な、なにやってるんだよ、兄貴。顔、上げてくれって」
    「お前との大事な約束を、つまらん理由で破ってしまったんじゃ。お前は忘れずに、覚えていてくれたのにな。傷つけてしまったことを、本当に申し訳なく思う。謝って済む話じゃないのは、分かっているが」
     返ってくるぎこちちない沈黙が、弟の混乱を雄弁に物語っていた。
    「あ、あにきは、悪くないよ。俺が、浮かれていただけで、それで……お、おかしいんだよな、だって、俺と兄貴は」
    「ああ……俺達は、実の兄弟じゃ。大人になった兄弟は、普通キスはしないかもな」
     息を強ばらせ、見る見るうちに再び涙の膜を張らせる弟に、もう一歩近づいた。そして今度こそ、弟の手を取った。汗ばんで冷えた手を、随分と大きく男らしくなった手を、離さないように握った。
    「うん、世間からすれば、キスは出来ないのかもしれん。けどな、俺はそれで、ヒデが泣くのはもっと嫌じゃ」
    「え……?」
    「お前が悲しいと泣く方が、ずっと辛い。今も、胸が引き裂かれるように、耐えがたい」
     青鈍色だった弟の瞳に、雲一つ無い碧く光る空が見えた。キスをせがむ、幼い日の弟の空だ。弟はキスをしてほしくて苦しかった。兄も本当は、キスがしたくて苦しかったのだ。何故なら。
    「兄弟には、正しい姿みたいなものがあるかもしれん。でも、そんなものより、大事な弟の笑顔が、俺は見たい」
     頬にキスをした時に満開に咲き誇る、七色の花のような弟の笑顔が、一番愛おしいからだ。昔から、分かっていたじゃないか。
     弟はしばらくの間、涙を湛えたまま、黙ってこちらを見つめていた。様々な赤が、弟の内側を巡っていた。紅玉のような、薔薇色のような、明るい春色めいた赤が。そろそろと、手を不器用に重ねてきて、弟はやっと、久しぶりに笑ってくれた。
    「…………いいの? あにき」
    「お前こそ、いいんか? こんな兄ちゃんのキスで」
    「いい! 兄貴が、にいちゃんがいい……っ」
    「ん、そうか」
     込み上げてくるくすぐったさに身を任せ、繋がる弟の手を強く引いた。
    「遅くなって、ごめんな。よく頑張ったな、ヒデオ」
     そして、優しく、頬に口づけた。
     弟の肌は、熱い血潮が薫り、甘い蜜の味がした。
     空白の時間の月が満ちていくように、長く、キスをした。互いを苛んでいた同じ苦しみが、静かに、春の夜に消えていった。
     触れあいを終えようとした時、弟が激しくしゃくり上げ、嗚咽を目一杯零しながら遂に泣き出した。全身全霊で感情の表す弟に、驚きよりも先に苦笑が滲み、そのまま背中に腕を回す。
    「泣くな泣くな。どうしたんじゃ」
    「だ、だって俺、兄貴に嫌われたって、思ってて……また兄貴に、口聞いてもらえなく、なって、こ、今度こそ、もう二度と会えなく、なるって、だから、こわくて」
    「嫌いになるわけがないじゃろ。この世でたった一人しかいない、俺の弟じゃぞ。ヒデも、許してくれてありがとうな」
    「おれが、にいちゃんのこと、嫌いになるわけ、ない!」
     下から抱えるように抱き締めた背中を、昔から慣れ親しんできた一定のリズムで叩く。安堵と喜びで泣きじゃくる弟に、拒絶の反対側に位置する言の葉を、幾年も兄弟二人であたため続けてきた約束を告げる。
    「これからも、いつだって、ヒデオの頑張りを、傍で見ているから。兄ちゃんに、沢山キスをさせてくれよ?」
    「うん……うん!」
    「兄ちゃんの人生を彩ってくれる、お前の笑顔をもっと見せてくれ」
     弟の頬を、両手で柔らかく包む。万華鏡のように、くるくると可愛い表情で魅せてくれる弟に、愛しさを込めて笑う。そして弟が、待ち望んでいた幸せの花を咲かせてくれた時、たとえ何が待ち受けていようとも、この笑顔を絶対に守ろうと誓ったのだった。

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