ビブリオマニアは眠れない七月二十八日の朝、ラギー・ブッチは驚いた。
前日、レオナに指示されたとおり、彼の部屋を訪れたのは午前六時のこと。部活の朝練が始まる午前七時まで十分余裕があるが、あいにくレオナは寝起きが悪い。ベッドから離れてもらうまで、平均三十分は必要だった。それが、なぜか今朝に限ってもう起きている。
ベッドの上に寝転んではいるが、レオナの眼はしっかり開いていた。
「ど、どうしたんスか?」
「寝てない」
「えっ。熱はかります?」
「そういう事じゃねえよ」
レオナはそう言って、そっと手元の本を閉じた。昨日プレゼントされたばかりの本だった。ラギーは合点した。
「徹夜して読むほど面白かったんスか?」
「ああ?」
「いやいや、睨まないでくださいよ、レオナさん~」
「ふん」
鼻を鳴らしてベッドから降り、シャワールームに向かうレオナ。ラギーは急いで朝食のヨーグルトとスモークチキンサンドを用意した。
ベッドの上の古ぼけた本に、ちらりと視線を送る。あのマレウス・ドラコニアからのプレゼントとは思えないしょぼさだが、実は大変な価値があるという。
さっさとシャワーを終えて出てきたレオナに、ラギーは声をかけた。
「レオナさーん。俺もちょっと勉強したいっていうか、お願いがあるんスけど」
「あ?」
「レオナさんが読み終わったあと、この本貸してくれたりしませんかね?」
「駄目だ。コピー取って売りさばく気だろうが」
「うっ」
「勉強なら他の本を読むんだな。こいつはおまえには荷が重い」
「へいへい。どうせ読めそうな気はこれっぽっちもしませんけどね」
「ってことが一週間前にあって」
「レオナさん本当にプレゼント気に入ってくれたんだ。よかったね、ツノ太郎」
「ああ。プレゼンターとして誇らしい」
「……誇らしい、じゃないっスよ。マレウスさん」
「なんだ、ブッチ」
「どうしたんですか、ラギー先輩」
「一週間前からずーっと、レオナさん起きてるんですけど?」
オンボロ寮のゲストルームだった。
マレウスと監督生が映写機で古いサメ映画を見ていたところに、姿を見せたラギー。グリムはとっくに飽きて、ソファで寝ている。
スクリーンでは、巨大なサメのぬいぐるみが郊外のショッピングセンターの客を次々と襲っていた。しかし、ラギーの話はこの映画より奇怪である。
「あのレオナさんが眠らないなんて……」
「俺も最初は気にしなかったけど、一週間はおかしいでしょ?」
「昼寝もしてないってことですよね」
「憑りつかれたみたいに、ずっとあの本読んでるっス。眠たくならないんだって」
「あのレオナさんが?」
「あのレオナさんが」
「昼に見かけたときは、レオナさん元気そうだったけど……」
「それもおかしいでしょうが。寝てないのに元気で、マジカルペンの魔法石もきれいなもんっス。そんなことは、あり得ない。放っておけってあの人は言うけど、ねえ、マレウスさん? ここで偶然会ったついでに聞きますけど、あんた、何か知りませんかね?」
ラギーはマレウスがここに入るのを見かけて来たのだが、あくまで偶然というポーズを崩さない。
ディアソムニア寮の連中はいけ好かないし、こちらの弱みを易々と晒すわけにもいかない。だが、マレウスは、あまりにも露骨に怪し過ぎる。
本人に悪意がなくても、騒動の切っ掛けになることはあるのではないか。
マレウスは自分の顎に指を添え、思案顔でラギーと監督生の話を聞いていた。
「僕に心当たりはないが」
ラギーは疑わしそうに眼を半目にした。
「あの本、本当はすごく高いんでしょ? プレゼンターの予算超えてるはずなのに、どうやって手に入れたんですか」
「福引だ」
意外な答えに、ラギーと監督生は顔を見合わせた。むにゃむにゃとグリムが寝言をこぼす。マレウスは続けた。
「僕があの本を手に入れたのは偶然だ。麓の本屋であの本に眼をとめたが、展示品ということで売って貰えなかったんだ」
「ツノ太郎、じゃあ、どうして?」
「どうしたものかと考えながら街を歩いているとき、難儀しているご老人に行き会った。荷物持ちを手伝ったのだが、その謝礼にオレンジを一袋渡された。オレンジを持って歩いていると、今度はクローバーに会った。オレンジピールを作りたいが、どこも売り切れだというではないか。オレンジを渡したら、礼だと言って歯磨きセットを寄越してきた。また街を歩いていると、亀の妖精が川辺で困っていた。甲羅の汚れが落ちないというので、歯ブラシに魔法をかけて渡してやった。その亀の妖精から貰い受けた物が真珠だ。ちょうど商店街のマダムが真珠のピアスを落として困っていたので、手持ちの真珠を使って新しいピアスを贈った。マダムから贈られたのが福引券の束だ」
わらしべ長者って本当にあるんだね、と監督生は感心した。
「それで、福引で本を引き当てたってこと?」
「いや、福引を回したがっていた幼子にやった。その子が十回挑戦したうちの一回が、古本屋の本なんでも一冊プレゼントの権利でな。それだけ譲ってもらい、本屋に行った」
唸るラギー。
「え、じゃあタダで? マレウスさんの時給で考えたら高いのか?」
腐っても世界で五指に入る魔法士である。
「プレゼント代は、古本屋の店先にあった募金箱に入れてきたが」
「……。俺、今度から募金箱持って歩くッス」
「とにかく、プレゼント選びの幸運に恵まれたということだろう」
監督生は首を傾げた。
「うーん。話を聞く限り、本当に偶然みたいですけど。やっぱりレオナさんに、ちゃんと話を聞いたほうが」
そのとき、ゲストルームのドアがばんと開いた。ラギーがぎゃっと叫んで耳を伏せる。
レオナだ。彼は家主とラギーを無視して、大股でマレウスに近づいた。
「おい、マレウス。ちょっとツラ貸せ。文句は言わせねえぞ」
「わかった」
レオナは鼻を鳴らして、くるりと踵を返した。その後ろ姿にふわふわとついて行くマレウス。
二人の気配が去ってから、ラギーと監督生は揃って息を吐いた。
「あーあ。こりゃ骨折り損だったかな?」
「まあまあ。早く解決するといいですね」
「あの二人、相性はともかく、実力は折り紙付き! 何とかしてくれなきゃ困るっス」
少なくとも、得体の知れない現象に焦れているだけの状態より、マシになることを期待したい。
サバナクローの寮長室で、レオナは足を止めた。続いてマレウスが入る。ドアはひとりでに閉まった。
マレウスがレオナの部屋に入るのは、これが初めてだった。
レオナの部屋は明るく解放的で、同じ寮長室でもディアソムニア寮とは趣きが異なる。気温は高めだが湿度は低く、人間には過ごしやすい。
ところがせっかくの過ごしやすさを侵食する物体が、視界に圧力をかけてくる。本だ。大量の本がデスクやテーブルに積み上がり、床にも塔を築いている。
この散らかりようもラギーの訴えた異変の一端なのかと、気を引き締めるマレウス。幸運のダイスに選ばれたプレゼンターとして、アフターケアには責任を持つべきだろう。
「キングスカラー、この本の山はどうした?」
レオナから返されたのは、答えでなく問いかけだった。
「アジ・ダハーカにタピオカミルクティーを飲ませるとどうなる?」
「……どうなる、とは?」
「知らねえのか。使えねえ。リリアにあたるか」
「待て。何の話だ?」
アジ・ダハーカは神代のドラゴンの一種だ。アジ・ダハーカは、その身に負った傷口から邪悪な下僕たちを這い出させるという特徴を持つ。伝説に曰く、聖なる山の奥深くに今も幽閉されているそうだ。うかつな攻撃は厄災を余計に広げるため、やむを得ず封印されているというわけだ。
「タピオカミルクティーを飲んだアジ・ダハーカから湧いた生物が、酩酊する可能性を検証している」
マレウスは心の底から聞き返した。
「何のために?」
ふわふわの耳がぴんと立つ。
「おまえが寄越した本の続きを書くためだが!?」
「………は?」
レオナの眼は、それはもう真剣だった。ようやく事の異常を実感して固まるマレウスに、レオナは仕方なさそうに話し始めた。
「あの本には元の持ち主の呪いがかかっている。続きを読めなかったことを悔いて死んだ、その執念がな。読み進めるにつれて少しずつ発動し、読み終わった瞬間完成する呪いだ。ったく。最初は、普通に続きが気になって眠り損ねただけだったんだがな」
何をしてても続きが読みたい。
それを読むために、世界の裏側の本屋にまでワイバーンを飛ばしたって構わない。読めるまで眠れないし、何も手につかない。時に本は、そこまでの情熱を読者にもたらすという。マレウスも本は読むほうだ。そういう気持ちは理解できる。
「事情はわかった。そういうことなら『続編』が必要だろう。しかし」
「ああ。この本が著者の絶筆だ。続編はこの世に存在しない。違うか?」
「残念ながらその通りだ。すまない、キングスカラー。僕からのプレゼントでこのような事になるとは。すぐに呪いを解いてやろう」
マレウスは責任感と申し訳なさでいっぱいだった。
呪いで誤魔化されているだけで、レオナの身体は休息を欲している。このままではやがて衰弱し、死に至るだろう。
それはこの本にとっても不幸な事だ。
マレウスは改めて本をスキャンした。購入時はなかった魔法反応は、レオナの言う通りのものだ。魔力の高かった前所有者の強烈な執着が、長い月日のうちに「呪い」へ変化した。
これは世界に数冊しかない稀覯本で、レオナ曰く人間の世界では絶えて久しい言語で書かれている。最終ページに染みついた願いは、長い間気付かれずに熟成され、その願いに感応できる人間の元までついにたどり着いてしまった。
本来、次の読者への害意はなかっただろう。彼か彼女は、そんなことに興味がない。ただ続きを読みたかったのだ。
やるせないものだと思いながら呪いを吹き飛ばそうとしたマレウスの足を、レオナは思い切り踏んだ。
「やめろ。余計なお世話だ。今、おまえの横槍で解呪されると、本にどんな影響が出るかわからない」
「……善処はする」
「眼が泳いでるんだよ。いつかのステージみたいに、ガワだけ直して中は滅茶苦茶か?」
「もしものときは城にある本を代わりに贈ろう」
「いらん。余計なことをするな」
「キングスカラー、おまえはもう七日眠っていないと聞いた。人の身には危険な状態だろう。意地を張るのは止せ」
「解呪の準備は進んでる」
レオナは落ち着き払っている。マレウスは瞬きした。
「本気か? いくらおまえが優秀でも、この本の続きを書くなどと正気とは思えない」
「名作の続編が名作とは限らないだろうが。今回は売るわけでも賞を狙うわけでもない。読み手の納得感があればいい」
「……確かに。おまえの知識欲に同調して発動した呪いだ。おまえが言うなら一理あるのだろう。僕も呪いに悪意は感じない。おまえを殺そうとして眠らせないのではない。読むべき続きを探したいという願いが核になっている。……続きを書ける見込みはあるのか?」
問題の本は古代呪文の研究書だ。文才だけでは書けない。レオナの唇の端が釣りあがる。皮肉な微笑だ。
「次期領主様直々のプレゼントに呪われて死亡。そんなみっともないスキャンダルを防ぐ手伝いをさせてやるぜ。おい、アジ・ダハーカにタピオカミルクティーを飲ませるとどうなる?」
「執筆に必要な情報、ということか。……タピオカとはなんだ?」
「ある種の芋から作られる、もちもちした粒だよ」
「ミルクティーである理由は?」
「薔薇の王国、ゼピュロシア高原産の茶葉が、爬虫類系魔法生物の中枢神経に影響を及ぼした事例がある。この本の二百十六ページで、白海沿岸での古ルーン語変質の経緯が言及されているが、ゼピュロシア高原と白海は古代から交易ルートがある」
「ドラゴンは爬虫類ではないぞ」
抗議しながら、レオナが山の中から手元に呼び寄せた文献を一緒に覗き込む。
「なるほど。『サラマンダーの鱗色と茶葉収穫量から見る地政学』。人間たちは奇妙なことに関心を持つのだな。そういえば城の書庫にこんな本があった」
マレウスが茨の谷から転移させてきたのは、一辺が五センチもない小さな本だった。開くと芥子粒より文字が小さい。
「作者が小妖精だったんだ」
「読むのも魔法がかりかよ」
文句を言いながら、レオナは視力強化魔法を使おうとした。
「よせ。僕がやる。ブロットが心配だ」
代わりにマレウスの魔法がレオナの視界を開く。一見、レオナの体調は良好だが、呪いが一時的に負担をせき止めているに過ぎない。
「ふん。殊勝な心掛けだな、マレウス。じゃあついでにこれも出しておけ」
「……欠席届?」
「きゃあああああ!」
絹を引き裂くような乙女の悲鳴である。
「絹を引き裂く音なんて聞いたことがないがな」
「僕もだ」
あああああ、と最後まで振り絞り、乙女ことキャリーは「あ」の形に口を開けて固まった。ここは太陽の国、ブルエ川の上流。かつて妖精族の祭壇が祀られていたという遺跡の一角だ。
歴史は長いが、観光地として開発されているわけでもなく、放置されている。最寄りの村まで徒歩一時間、獣道が維持されているのは、村人が遺跡の周囲でしか取れない薬草を摘むためだ。
村はほんの百年前にできたばかりで、さらにその何百年も前から廃墟だった遺跡の伝承を受け継ぐべくもない。森で数年に一度起きる失踪の原因が遺跡に潜む魔獣の仕業とは、村人たちには想像もつかないことだった。
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