政略結婚しないと出られない部屋 その表示を見たマレレオの顔は、端的に虚無だった。
八十平米ばかりのフローリングは正方形。窓のない白い壁と天井。ひとつきりのドアの上の電光掲示板には「政略結婚しないと出られない部屋」と書かれている。
教室に持ち込まれた古いゲーム盤が輝いたと思ったら、これである。
マレウスは不敵な笑みを浮かべた。
「おもしろい封印魔法だな」
「魔法で開けられなかったときのおまえのツラ、写真撮ってあるからな」
「おまえのユニーク魔法でも開かなかったときの顔は自撮りしていないのか?」
「するか! ……自撮りなんて語彙、おまえ持ってたんだな」
「リリアが教えてくれた。しかし、政略結婚しないと出られない部屋か。確かに僕たちは王族だが……。政略結婚と言われても」
「詰み、だろ。政略結婚の定義は、『家長や親権者が政治的な駆け引きや経済的利益のために、婚姻当事者の意思を無視してとりきめる結婚』だ。俺たちはどちらも家長でも親権者でもない。原始的不能条件ってやつだ」
「あ」
マレウスが声を上げた。
電光掲示板のメッセージが変わったのだ。
『テーブルの上を見てください。』
見ると、数枚の書類がテーブルに置いてある。部屋に入ったときはなかったはずだが、いまさら不思議がっても仕方がない。書類のタイトル欄には「婚姻条件通知書」と書かれていた。
「……『ドラコニア家の長子マレウスとキングスカラー家の次子レオナとの婚姻に際して、良家は夕焼けの草原国王と茨の谷の女王の名のもと、下記の条件に合意するものとする』」
「わざわざ読み上げるな! おい、いたずらにしちゃ手が込んでるな。面白くもない」
「待て、キングスカラー。……これは本物の公文書だ」
マレウスの手の一振りで、茨の谷と夕焼けの草原の紋章が書面に浮かび上がる。正式な手順で発行された書類にだけ付与される、魔法刻印である。
レオナは喉を低く鳴らした。
「まさか、家同士の話はついてるとでも? マレウス、おまえリリアから何か聞いてないのか」
「聞いていない。おまえこそ、僕との縁談を打診された覚えはないのか?」
「ねえよ」
茨の谷は閉鎖的な国として人間たちに知られている。夕焼けの草原との関わりもほとんどない。
結婚条件書の内容はその常識を覆すものだった。
両国間での相互防衛保障条約、投資保護条約、自由貿易協定。大使館も設置される。ちなみに結婚式の費用負担割合、結婚後の生活に関する取り決めの条項もあった。生々しい。
レオナは腕を組んだ。
「茨の谷が外交方針を変えるのは勝手にすりゃいいが、わざわざうちを選ぶメリットがあるか?」
「確かに付き合いはない。だが、下手に因縁のある国より対等な条件で交渉できるのではないか?それに古くから続く家同士で、なおかつ未婚の王族がいるという事が好ましかったのかもしれない。おまえの国はどうなんだ?」
「うちは魔法士が少ないからな。茨の谷からその辺のノウハウを得られるのは、メリットだろう。俺の片づけ先としちゃ悪くない」
「片付けるというが、住まいは谷と草原を半年ずつと条件にあるぞ。チェカ王子が成人するまでの間の、おまえとの面会回数保障条項まであるが、……彼はおまえの隠し子なのか?」
「侮辱罪で訴えて社会的に殺すぞ」
話している間に、マレレオも落ち着いてきた。
面倒になったともいう。部屋の扉は相変わらず開かない。結婚する気もない。このまま救助を待つというのも一手だろう。
腹を決めて、レオナはどかりとソファに腰を下ろした。
「ハッ。しかしおまえが結婚か。茨の谷には、結婚したら妙な儀式の生贄にされる風習はあるか? 初夜を見学されたり、ドラゴンと番えるように肉体改造されたりは?」
「ドラゴンを何だと思っているんだ? 王族の一員として公務に参加してもらうだけだ。おまえのほうこそハーレムが必要か?」
「そんなもん持つのは国王だけだ」
「そうなのか。ドラゴンは固体による。宝物を集める習性の延長だ。つい、好ましく思う者や、美形の者まで対象とすることがある。僕はそんなことはないから安心しろ」
「そういう保証はおまえの嫁にしてやれ」
欠伸混じりの雑談は、この二人にとっては破格に穏やかな時間となった。と、電光掲示板の表示が変わった。
『この部屋では新婚生活を疑似体験していただけます。』
マレレオに重い沈黙が降りた。
室内、衝立の向こうにキングサイズベッド、壁にシステムキッチン、奥にシャワールームが完備されている。ここで暮らせるということだ。互いに食事を振る舞ったり、同じベッドで休んだり、むにゃむにゃな運動をしてもよい、ということだろう。マレウスは呻いた。
「婚前交渉を学生に推奨するとは」
「おぞましいことをわざわざ口に出すな……!」
レオナは嫌な予感に身震いした。最初に条件通知書、次に新婚生活の薦め。外堀を埋めんとする圧力が露骨になってきている。
すでに監禁の罪を犯している犯人が、二人の人権に配慮してくれるかどうか。望みは薄いだろう。
やっと救助が来たとしても、自由意志を奪われたあられもない姿を晒すことになっては困る。
「ちっ。おい、マレウス。俺はサインするぞ」
「……理由を聞いても?」
「結婚できるなら離婚だって可能だ。そもそも脅迫されてサインした婚姻契約書なんざ法廷で無効にしてやる」
「それもそうだな」
さらさらと交互に婚姻契約書にサインを書き込む。魔法士にとって、自著のサインは重要な魔法素材である。アズールのユニーク魔法をつい思い出しつつ、防衛魔法のレベルを各自上げた。警戒しながら結果を見守る。
『ブブーッ! この結婚は条件を満たしておりません!』
記したばかりのふたりのサインがすうっと消えた。
「はあ?」
「馬鹿な。僕たちは確かに婚姻契約書にサインをした」
口々に言いたてる二人に対して、電光掲示板の表示がまた変わる。
『政略結婚しないと出られない部屋』
「僕たちはサインをしたはずだ。キングスカラー、おまえも何か……。キングスカラー?」
レオナの瞳孔が開いている。政略結婚しないと出られない部屋が、この婚姻契約書は違うと断じる。その意味。
「政略結婚の定義は『家長や親権者が政治的な駆け引きや経済的利益のために、婚姻当事者の意思を無視してとりきめる結婚』」
「その通りだと思うが……」
「婚姻契約書は、少なくともこの部屋では正式な公文書として存在している。第三十二条に、この婚姻は各当事者につきその本国法に関わらず当該契約によって成立するとあるから、契約書にサインがすめば俺たちは結婚したことになる」
マレウスは思わず背筋を伸ばし、咳払いをした。
「そうだな。僕たちは夫婦ということになるだろう」
「契約条件も、政治的な駆け引きや経済的利益のための結婚という点をクリアしている。草原の王と谷の女王の名において合意するとも書かれているから、家長が決めた結婚というところも合っているはずだ」
残る条件はひとつしかない。
「キングスカラー。こんなところに閉じ込められ、やむなくサインしたのだ。『婚姻当事者の意思』は十分に無視されている」
「判断するのは俺たちじゃない」
マレウスの眼に強い光が浮かんだ。
「こんな部屋ごときが僕たちの心を深くのぞき、測るというのか。度し難い無礼の報いはおってくれてやるとして、心からおまえを拒んでいる状態でサインをしろというのなら無理だ」
レオナは吐き捨てた。
「精神操作の魔法があるだろ」
「そのような事を言うおまえに怒りを感じる。だが、赦す」
「やめろ。何様のつもりだ」
マレウスはついに言った。
「恋愛結婚になってしまうから、条件を達成できなかった。おまえはそう考えているんだな?」
「おぞましい単語をほざくな!」
サバンナでは八キロ先まで届くというライオンの咆哮である。セベクで鍛えられているマレウスも耳を押さえた。
「『恋愛結婚になるから』が理由とは限らない。俺たちがサインに納得した事が引っかかった、っていうのはどうだ?」
「なるほど。離婚や無効化を前提に、納得の上でのサインではあった。ならばどうする?」
「マレウス、おまえ今すぐ誰かと恋に落ちろ。他の奴と一時的にでも結婚するのが耐えられなくなれ」
「ここにはおまえしかいないが!?」
「壁とかでいいだろ」
「よくない!」
「使えねえやつ」
「わかった。その減らず口を塞いで欲しいということだな?」
「都合の悪い意見は封殺か。おまえはさぞかし立派な王様になるんだろうよ。ぼっちトカゲ帝国の、な。中身のない人形どもを従えて鱗がハゲるまでふんぞり返ってろ」
「黙れ」
「そう思えば、こんな部屋でも招待されてよかったじゃねえか。あのお人好しの監督生がおまえを忘れても、次のアテがあるわけだ」
「黙れと言ったぞ!」
異世界から来たという人の子。監督生まで嘲笑うレオナにマレウスは激昂した。迸った雷撃に皮張りのソファが真っ二つに割れ、キッチンの大理石が砕け散る。床は軋んで、部屋全体が今にも風船のように破裂しそうだ。
レオナは軽い身のこなしで距離を取り、飛来した破片を砂に変えた。密室でドラゴンに威圧されても、その口元には皮肉な笑みが張りついていた。
「つくづく惨めなガキだ」
「おまえは……!」
怒鳴ろうとして、何かが鱗にひっかかる。何かとはお笑い草だろう。マレウスはこの部屋に入れられた最初から、それを忘れずにいる。
あまりにも急な展開に、とりあえず棚上げしていただけだ。
マレウスとレオナは、この部屋に来る前から一緒にいた、ということを。
春の終わりの教室だった。少し暑かった。それがいけなかったのだろうか。チョコレートと氷菓がすぐに溶けてしまうだろう温度が、「何か」を孵した。
マレウスは踏みとどまった。この世に現われたばかりのそれは、きっと傲慢で横柄で、これ以上無視されようものならぷいとどこかへ消えてしまう。
レオナは消したいのかもしれない。確かにここはもうさっきの暑い教室ではなく、白々しく結婚などという文字を突きつけられて、雰囲気は台無しだ。そんな形を望んだわけではないと、レオナなら醒めるのは当然だ。
なかったことにしたいと思うことを、責められない。
マレウスは責める言葉の代わりに、雷の刃を無数に生み出した。
革命の狼煙だった。
春は終わっていた。
いくつかの事件がマレウスを感傷的にさせる。自分より早く終わるものが多過ぎた。
移動教室は、今日もマレウスに伝えられない。
がらんとした教室で、長毛の猫が我が物顔で落ちるように机に突っ伏している。寝ていた。消灯されているが、室内はぼんやり明るい。陽光が、窓の向かいの白壁から反射している。
猫の耳の輪郭を作る毛の一本ずつが、その呼吸に合わせてわずかに揺れていた。
いつも喧嘩をしていた。さて喧嘩を、どうやってしていただろうか。
ぼんやり見つめていたから、いつから眼が合っていたのか不思議と思い出せない。
猫の眼の緑ばかりが明晰だった。輪郭の溶けそうな午後は、正解をつかむのに適していない。
何もかもが通り過ぎていく。
見送りたくないときにどうすればいいか、マレウスは知っている。自分から先に通り過ぎてしまえばいい。
けれど足はここにいたいのだ。遠くの雲の流れにつれて日差しは濃淡を刻々と変える。一瞬も同じシーンはない。
変わるからこそ、ここにいたいのだ。
マレウスの視界が切り替わる。教室の入口から見上げていたはずが、チョコレート色のなだらかな後頭部は真下にあった。この角度では顔が見えない。
望めば地球の裏側で咲く花も見える。
それでもマレウスの視界は、やわらかなチョコレートブラウンに占められている。見てわかることばかりならよかったのに。
猫は言った。
「革命をお望みか?」
王たる身に遠いはずの言葉が差し込まれ、鱗の下で回される。身震いした。
種と個が違う。自分のような者は自分しかいない。それは誇りだ。誰よりも遠くを見て、早く知り、長く世に留まる。山のように、空のように。それでも足はここにいたいのだった。結ばれて落ちるまでの朝露にも「世界」がある。
もしもそこに行けたら。
並んで生きられたら。
音もなく立ち上がった猫の眼に唆されたわけではない。
誰しも持てるのは今この時だけだ。鼓動を数える行為は虚しい。自分の今を生きること。没入すること。深く。瞬きの底に、永遠の輝きを見ること。
足が止まっている。
「おまえを捕まえても?」
これは多分、そういうことなのだ。
手を重ねたら、不機嫌そうに唸った。
「何が果報は寝て待て、だ。面倒くせえ。おまえに移動教室を教えなかったやつら全員呪う」
ボードゲーム部の生徒が教室に現われ、目にした光景に飛び上がり、抱えていたゲームをうっかり落としたのは、この三秒後のことだった。
帯電した魔力の刃は、マレウスを囲む檻のように連なっている。
レオナはうんざりして肩を竦めた。
「おい。つくづく使えねえトカゲだな」
「……………………」
「俺を許せなくなるぐらい怒って、おまえを許せなくなるくらい俺を痛めつけろよ。怪我させずにやる方法だっていくらでも知っているだろう。片付いた後で俺に忘れさせる方法も」
「……………………」
「動かなくなった俺の手を魔法で動かしてサインさせろ。猫と結婚なんて反吐が出ると言いながら、部屋を出るための道具として扱え。出られたら、そのときは俺もおまえを利用したってことだ。それでいいだろう。何が不満だ? 俺たちに許し合いは無用だ」
マレウスは自分の額を押さえて呻いた。
「おまえは今まで一度も僕を許したことがない」
「そうだな」
「おまえと生きるということが、こんなにもひどいとは」
「革命は失敗でいいか?」
「失望しろ。成功している」
したからこそのダメージの入り方だった。刃は、近い場所ゆえに届くのだ。レオナは笑った。
「おまえマゾか? わかった。今からもっとえぐってやる」
「聞いたか、政略結婚しないと出られない部屋。これがおまえの言う新婚生活の疑似体験だぞ。いいのかこれで。新婚への冒涜だ」
「真顔やめろ。くそ、それにしてもおまえと結婚生活なんざ鳥肌が立つ」
「……僕も鱗が立った」
そこだけ気が合っても仕方がない。
仕方がないことばかりだった。
まだドアは開かない。契約書に何度サインしてもきっと認められない。恋だと言うなら仕方がないし、もし違う何かでもかまわない。また革命の出番だ。そんな風な気分で、マレウスはレオナにキスをしにいった。
自身を戒める雷撃の檻を消す。
遠慮なしに品定めをしてくる男の眼に腹を立てながら、彼の額の生え際に唇を落とす。レオナの耳がぱたぱたと動く。冷たいキスが心地よかったのだ。ささやかな振動が、マレウスの鱗を浮かせる。
塞いでもまったく安心できない口にも、キスはできる。
柔らかい皮膚の奥、互いの牙の気配。革命は熱病のごとく度し難い。
と、そのときだった。
『ブブー! ゲーム―バー! 他プレイヤー全員のゴールを確認しました。マジカル人生ゲーム「結婚は人生の墓場」を終了します。お疲れさまでした!』
「……は?」
「なに?」
ふたりは手に手をとって、教室に立っていた。
学園長から他寮長からリリアから監督生まで、いつもの面子が勢ぞろいしている。
「こここ国際問題になるかと……!! 戻ってきて良かったーーーー!!」
タブレットの向こうでボードゲーム部部長でもあるイデアが泣いている。
監督生が説明してくれた。
「校舎全体が魔法の人生ゲームに巻き込まれて、二人ペアで攻略する羽目になっていたんです。最下位が決まるまで続くルールで。さっき、セベクとケイト先輩がゴールして、やっと終わりました!」
つまりマレレオ最下位。
レオナはさり気なくマレウスから手を離し、距離を取って胸を反らした。
「マレウス、おまえがもたもたしやがるから」
「おやおや。仔猫といえども事実の歪曲は関心しないぞ」
「次に仔猫呼ばわりしたらおまえをロリコンとして扱う」
「……!?」
マレレオが一マス分のミッションもクリアできなかったとはいえ、ゲームは終わったのだ。
こんな事件が日常茶飯事のナイトレイヴンカレッジである。皆あっさりと解散し、去っていく。マレレオもだ。革命の後にも日常は訪れる。だがしかし。
「なんじゃこれは?」
問題のボードゲームを学園長と一緒に封印していたリリアは、ゲーム盤のゴール地点に出現した小さな宝箱に首を傾げた。イデアが説明する。
『プレイ中で消費された魔力量に応じて、ゲーム内のアイテムがひとつ、ランダムでゲットできる仕様なんですわ。どれ、……んん? オルト、この数値は』
「解析完了。特級魔法道具に相当する魔力反応あり。……出現するよ!止められない!」
ぽんっとクラッカーが弾けるような気安いエフェクトで現われたのは、書類だった。
「何々、……婚姻条件通知書?」
見慣れた名前でサイン済みだった。リリアは気絶した。
その後の国際問題のことを語るべきは今ではない。どっとはらい。