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    ふじたに

    @oniku_maturi

    笹さに♂

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    ふじたに

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    猫と怪物 3の表 笹さに♂

    #笹さに♂

    猫と怪物 3の表 夢中で本を読んでいる間は、全てから離れていられる。祖父の怒鳴り声から、祖母が母を否定する声から、私を押しつけ合う両親の争う声から、普通の人間たらんと足掻いた記憶から、その道中で人を傷つけたことからも、傷つけられたことからも。
     ノックの音が聞こえたので、返事をした。入ってきた二人におはようございます、と言う。目は文字に魅入られたままで。
    「お休みになられていないのですか?」
     後ろから入ってきた蜂須賀が言った。
    「えっと、わかりません。たぶんそうです」
    「まずは厠に行ってください。そのままお支度を。辞書は持っていけませんよ」
     それは確かにそうだ。辞書はかさばるし、原書はサイズが大きい。辞書などは紙が薄くて持ち運ぶとぐにゃりとする。やはり持ち歩きには文庫が至高だ。それに仕事、仕事。本を読むためには仕事が大事。
     新しい本が届くまで、何を読もう。脳内で本の題名を目まぐるしく思い浮かべながら、笹貫につられて歩く。お手洗いに行って、顔を洗って、歯を磨いて、着替え。着替えは考えながら立ってたら、笹貫があっという間にやってくれた。
     部屋に戻って、本の山の隙間、通路を奥に進む。あの本は多分一番右奥の本棚の真ん中くらいに…あった。上巻を引き出して、部屋の真ん中に戻る。本を開くと一晩ぶりの日本語の文章に夢中になった。笹貫がなにか言っているけど、頭に入ってこない。
     開かれた文庫本の上に突然大きな手が広げられて、顔を上げると、蜂須賀が間近でこちらを見ていた。
    「本は一度置いて、今日の予定について聞いてください。その間だけでもいいので、お食事もなさってください」
     なるほど、と思って蜂須賀の後ろになった笹貫の顔を見ると、もう一度口を開いたが、蜂須賀がそれを制止した。
    「今日は昨日進められた分がありますので、生活リズムを保つためにも今とりあえず起きていただき、午前中は残りの執務を進め、昼休みを三時間とし、内二時間を昼寝にあてます。 午後は午前の進み具合によって、日課か執務かを判断します。演練に行くものは決まっていますが、男士だけで行かせます」
     ぼーっと蜂須賀の言うことを聞いていると、匙を口の前に差し出されて、ぐいと押しつけられる。口を開くと勝手に入ってきたので咀嚼する。味噌味のおじやは好きだ。飲みこむとまた匙がくるので、機械的に同じ動作を行った。
    「もう少し食べられますか?」
     わからないので首を傾げたらもう一度匙が来た。それを咀嚼しているうちに、なんだかお腹がいっぱいのような、少し気分が悪くなったような気がしたので、うつむいて口の中に入っていたものをなんとか飲みこんだ。
     そうしていると蜂須賀が食事を持って、笹貫と一言二言話して下がっていったので、また本に戻った。
     ややして、笹貫が近くに来て、私の本を持つ手に手を重ねて行こう、と言った。そのまま本を取り上げられて、やさしく手を引かれたので、立ち上がって笹貫が持つ本に手を伸ばした。
    「仕事行ける?」
     うなずく。仕事には、行かなきゃ。
     そうすると本を返してもらえたので、懐に大事にしまった。
     手を引かれたまま廊下を歩く。握られたところが熱い。手からじわりと熱が上がってきて、段々胸まで熱くなる。不思議な心地だ。
     執務室について、みんなに挨拶をし、自分の席に座る。
     目についたものから手をつける。ふと眠気がきてぼんやりと指先だけ動かしていると、蜂須賀が後ろから手を伸ばしてきて、マウスを操り数行消した。
    「間違っていましたよ」
    「ありがとうございます」
    「今日の書類は、私も目を通したいので、すぐに送らないで残しておいてください」
    「わかりました」
     間違えていたらしい。蜂須賀が見てくれていてよかった。気をつけなくては。
     その後も蜂須賀と笹貫にも何回か注意されながら、午前の時間は過ぎていった。
     昼休みは本を読んでいい時間だ。
    「猫のとこ行く?」
     そうか、猫のところに行かないと。
    「はい」
     笹貫に答えて、少し足早に厨へ向かう。猫はもう来ていて、私の脚に身体をこすりつけながら、食事場所まで誘導する。猫はいつでもかわいい。
     猫がご飯を食べている間、石の上に座って本を読む。文字の連なりに夢中になっていると、猫が本の上に飛び乗ってきた。猫の下から本を抜き出すと、もう一匹。膝の上が猫でぎゅうぎゅうになったので、本は懐に戻した。
     猫を両手で一匹ずつ撫でる。冬の猫は温かくて、ふわふわしている。あの頃この子たちがいたら、なにか違っただろうか。
     物思いに沈みそうになっていると、猫が身体を伸ばしてきて私の頬を舐めた。ざりざりした舌は少し痛いけれど、猫からの親愛は嬉しい。頭を撫でると、もう一匹が反対側を舐め始めた。笑いながら両方の頭を撫でる。笑っていたのに、なぜか少し悲しいような気もした。猫たちは私の顔を舐めたいだけ舐め、匂いを嗅ぎ、被毛を擦りつけると地面に降りた。そして、二度三度振り返りながら去っていった。猫がいなくなった膝の上は、しんとした空気にさらされて冷たい。
     笹貫に行こう、と言われたので、立ち上がって笹貫に声を掛けた。
    「ご飯はいいです、お休みの時間は部屋にいます」
     それだけ言って、自室へ移動しようとすると、くんと袂を引く感触があった。振り返ると笹貫が私の片方の袂を指先で摘まんでいて、放してくれない。不思議に思って首を傾げると、笹貫が悲しそうな、寂しそうな、一人きりで寄る辺のないような顔をしたので、私はそれがとても気になった。この子にそんな顔をさせたくないな、と思った。
    「少しでいいから、オレといっしょにごはん食べて?」
     私はしばし考えこんでしまった。本の続きが読みたいのだ。けれど、この子を一人残すのも躊躇われた。
    「本を読みながらでも良ければ…」
    「いいよ」
     笹貫は即断すると、私の左手を取って歩き始めた。手の甲に、硬い掌の感触。笹貫の熱が、また私の身体に伝わってくる。笹貫は随分と体温が高いのだな。これが変な感じだと思うのは、きっと触られるのが苦手だからだ。左手を覆う熱に意識を集中すると、鼓動が強く打つのを感じた。そのことに気を取られていて、空虚な記憶の波は私をさらいに来なかった。
     食堂を通り越して厨へ入る。厨番はみんな忙しそうだ。入口近くで受け取るのを待っている子もいる。私たちが厨に入ると、燭台切光忠がこちらを振り返った。
    「ちゃんと来たね。笹貫の力は本物ってことだ。持って行くから、本を読んで待っていていいよ」
     おとなしく食堂へ戻り、空いている席に昨日までと同じように、向かい合って座る。私はいそいそと本を取り出して開いた。世界に本と私だけになる。本を読んでいて、真に気持ちいいときは、私さえ無くなる。ただ物語だけがそこにあるのだ。
     かたんと音がして、私の座っている椅子が揺れた。驚いて顔を上げると、隣の席、それもすぐ近くに、面白そうに微笑む一期一振の姿があった。驚いて声も出ない私の半開きの口に、白い塊がねじ込まれた。
    「驚かせてしまいましたか?お詫びに一切れどうぞ?」
     口に入れたものを吐き出すのは行儀が悪い。行儀が悪いということは、祖父が最も嫌うことだ。仕方なしに口に入ったものを咀嚼すると、卵のサンドイッチだった。トマトも入ってる。一期から距離を取りながら、はみ出た分も口の中にしまう。一期は予期せず近づいてくるし、思いもよらないことをしたりするので、警戒してしまう。しかもそれを面白がっているのだ。
    「その本、なんだか見覚えがありますね。最初のところだけ読ませていただけませんか?」
     そう言われると、断れない。本好きの子は邪険にできない。栞紐を挟んでから、本を閉じて渡す。
    「あ、私が読んでいる間は暇だと思うので、お食事していてください」
     そう言われて前を見ると、いつの間にか私の昼餉が置かれている。今日は色とりどりの一口サンドイッチと、ポテトサラダ、ピックの刺さったピクルスと、ジャムのかかったヨーグルト。どれから食べたらいいか迷っていると、一期が本を読みながら言った。
    「ポテトサラダ、胡瓜入ってませんでしたよ」
     それなら、とスプーンを手に取って、ポテトサラダを食べる。光忠のポテトサラダは好きだ。コンビニのも、スーパーのも嫌いな胡瓜が入っているから買わない。祖母が作ったものにも入っているけれど、好き嫌いは駄目だから、我慢して食べる。自分で一度作ってみたのは、あんまりおいしくなかった。一人きりの家で、作りすぎて、三日くらい三食食べた。
     世界が揺らいできていた私の前に、急に本が現れる。私は急いでそれを手に取る。
    「思い出しました。この本、私が近侍を勤めたときも読んでおられたの、憶えていますか?」
     開く前に一期に問いかけられて、記憶を探ってみる。
    「その時もサンドイッチを燭台切に作ってもらったでしょ?」
     思い出した。この本の最初の方に、サンドイッチを作るのがすごく上手な女の人が出てきて、燭台切光忠だって絶対に負けていないはず、と一期が言うので、光忠にねだってサンドイッチを作ってもらったのだ。
    「そう、それで、私に唆されて貴方は胡瓜のサンドイッチを食べたんです。おや?今日も胡瓜のサンドイッチがありますね。記念に一緒に食べてみませんか?」
     そう言われると、途端に胡瓜のサンドイッチが素敵なものに思えてくる。あの時はなんて言われたんだっけ、そうだ、本当においしい料理は好き嫌いを越えるはずです、と言われて一口だけのつもりで食べたのだ。目の前のそれを持ち上げて、匂いを嗅ぐ。光忠の作る胡瓜のサンドイッチは、全然青臭くなくて、パリッとしてて、おいしかったのだ。食べてみると、全然変わっていなかった。一口サイズだったので、あっという間になくなってしまった。ちなみにこれで胡瓜が嫌いじゃなくなったわけでは全然ない。このメニューだけだ。
    「私はサンドイッチは海老とアボカドを合わせたのが好きなのですが、主は何がお好きですか?」
    「ベーコンとトマトと、レタスの」
     そう言うと、まさにその具が入った一切れを、一期が私の手の上に乗せた。
    「私はこっちを食べますね」
     そう言って、海老の入った、私のものより大きな一切れを自分の手に取る。見せつけるように、一期が大きくかぶりついたので、つられて私も手の上の一切れを口に入れた。もぐもぐしている内に、今度は一期が食べたのと同じ海老の一切れを乗せられる。一期は私が食べたのと同じものを。私が飲み込むのを待って、またこちらを見て食べるので、私も食べる。
     一生懸命噛んでる間に、一期は自分の分を二口ぐらいでぺろりと食べてしまう。一期は昔から食べるのが早いのだ。
     一期がスプーンを取り上げ、私の皿に残っていた、白に橙のポテトサラダをさくりとすくう。隣に添えられていた小さなピクルスを、その上に乗せてこちらに差し出してきた。
    「あーん」
     そう言われて大きく口を開けられると、またつられて口を開けてしまう。口の中に匙が入ってきて、口を閉じるとするりと出ていく。
     ピクルスが乗っているので、さっきとはまた違う味だ。
    「今度はピクルスありとなしどっちにします?これが最後ですよ?」
    「えっ…えっと…ありで」
     もう一度同じものを口に入れられる。
     一期は新しいスプーンを手にして、ヨーグルトの小皿を持ち上げた。
    「こういうのって、カレーとかでも派閥できますよね。よく混ぜ派ですか?分離したまま派ですか?」
    「えっと…じゃあ…分離?」
    「じゃあ、はい」
     またスプーンを突きつけられる。ジャムは黒っぽくもあり紫っぽくもあるので、ブルーベリーだろうか。口を開いて招き入れると、甘みが口に広がった。
    「気に入ったみたいですね、どうぞ」
     本を取り上げられ、皿とスプーンを持たされて、でもおいしかったので食べた。身体が温かくて、重くなってきた。
    「眠そうですね。お昼寝されてはいかがですか?良ければ私が添い寝しましょうか?」
     一期が横にいたら絶対に寝られないと思ったので、首を横に振った。空っぽになった皿を匙と一緒に取り上げられて、ふたつは大皿の上に戻された。
    「嫌われてしまいましたね。それでは笹貫ならどうですか?きっと子守唄を歌ってくれますよ」
     笹貫の顔を見る。笹貫は決して女性的ではないが、きれいな整った顔をしている。瞳は美しい色なのだが、いつもどこか寂しげだ。笹貫なら、猫みたいなものだし、かわいいから、いいか、と思ったのでうなずいた。
    「蜂須賀の言うとおり、お気に入りなんですね。そうと決まれば、お皿は私が下げておきますので、部屋にお戻りなさい」
     もう一度うなずいて、お礼を言った。椅子を引かれたので、立ち上がる。笹貫がそばに来て、手を引いたので、それに合わせて歩き出した。本はいつの間にか反対の手に持っていた。
     支度部屋には寄らず、自室に戻ると、笹貫が着物を脱がして襦袢だけにしてくれた。着物は山々を覆う雪のように、本の上に広げて置かれた。促されて横になると、もう眠気が襲ってきていて、笹貫が布団と板間にまたがるように横になるのを見て、それじゃ身体が痛いんじゃないかな、と思ったのを最後に意識は幻覚のような夢に飲みこまれていった。

     夢の中で崖から落ちたことで、私は目が覚めた。布団をかけられていて、その布団の上からなにかがぽんぽんと身体を軽く叩いている。
     周囲に意識を向けると、右側に笹貫が横になっていた。ぽんぽんは笹貫が布団を規則的に叩いていたようだ。
    「起きた?」
     落ち着いた、低い声に向かってうなずく。
    「喉乾いたね、いっしょに厨に行こうか」
     それにもうなずく。
    「何か他にほしいものある?」
    「…煙草が吸いたいです」
    「わかった、じゃあ厨行って煙草ね」
     三度頷くと、脇に手を入れられて、身を起こされた。普段触れないような場所に掌の熱い感触がして身がすくんだが、起こしただけで大きな手は離れて行った。
    「立てる?」
     身体はだるかったが、ここに来る前の重さはなくなっていたので、はいと答えて立ち上がった。同じように狭いところで器用に立ち上がった笹貫が、着物を着せてくれる。文庫本を手渡されたので、懐に入れた。
     厨に行くと、光忠がリンゴジュースをくれた。キッチンカウンターのスツールに座って、それを全部飲んだ。笹貫も同じものをもらって、立ったまま飲んでいた。
     いつの間にか厨にあった上着を着せられ、外へ出る。冬の乾いた空気が、冷たく頬を刺す。それを感じて立ち止まっていると、笹貫がまた私の手を取った。この子は強引に接触してくるけれど、触り方はやわらかくて、嫌ではない。不思議な子だな、と思いながら手を引かれて歩く。
    「今日読んでる本、どんな話なの?」
     がさがさと鳴る藪の隙間道を通りながら、笹貫が聞いてきた。
    「世界の終わりと、並行世界と、望まない冒険の話です」
    「説明が簡素すぎない?」
    「あなたが読んだ時に楽しみが半減するようなことは、言いたくないです」
     なるほど、と言って笹貫はまた黙った。
     四阿に着いて、いつもの長椅子に座り、卵色のパッケージから煙草を取り出す。笹貫に聞くと、吸う、と言うので1本差し出して火を点けた。本を取り出しても何も言われなかったので、本を読みながら煙草を吸う。一度本を取り上げられたので、驚いてそっちを見たら、私が本の上に灰を落としてしまったらしい。本を開いて逆さにし、はたいている。ちゃんと元のページのままで返してくれた。
    「危ないから、どっちかにしな?」
     片手にタバコを持ったままそう言われた。笹貫の言うことはしごくもっともだったので、煙草を灰皿でもみ消した。
    「オレも吸い終わったから、行こ?」
     いつの間にか目の前にしゃがんでいた笹貫の顎が本の上に乗っかって、私は驚いて目を上げた。でも今、いいところなのに。
    「もう少しここにいましょう」
    「ここ寒いから、風邪ひくよ」
    「もう少しだけ」
    「じゃあ、煙草もう一本くれる?それ吸ってる間だけならいいよ。その代わり本丸に戻ったらもう一回なんか飲み物飲んでくれる?」
     笹貫はやさしい。うなずいて煙草とライターをそのまま渡して、私は本に戻った。
     もう一度声をかけられた時、私は渋々従った。約束は大事だ。
     笹貫に手を引かれて歩きながら、私は疑問に思ったことを聞いた。
    「どうして手をつなぐんですか?私は突然走り出したり、迷子になったりしません」
    「やだった?」
    「やではないですけれど」
    「そういう時もつなぐだろうけど、体温を感じたい、隣にいることを感じていたいって言う時もつなぐんだよ」
    「そうなんですか」
     知らない価値観だった。それがどういう時なのかはわからなかったけれど、笹貫は今日そういう気持ちなんだな、と思った。笹貫がそれがほしい時に、あげられたならよかったな、と思った。でもその割には、彼のほうがいつも体温が高くて、一方的に私が感じているような気もしたが、それは嫌な気持ちではなかったので、それ以上は追求をやめた。
     厨に寄って、約束通り冷たいお水を一杯飲んだ。上着は笹貫に持ってもらって、執務室に戻る。
    「笹貫から報告は聞いています。終業まではここで執務をお願いします」
     蜂須賀が各書類用のキーワードやテンプレートをつけた見本を作ってくれていたので、それを見ながら書類を作っていく。あとは私の自筆署名が必要な状態でまとめられた書類。蜂須賀はたまにこういうことをしてくれる。
     それでも本のことが頭から離れなくて、後ろで見張っている二人から何回か駄目出しをもらった。署名は本当に私にしかできない作業なので、そちらを優先させるように言われた。それも何度か書き損じて、やり直しになった。画数が多いのがいけないのだ。
     定時に上がるように蜂須賀から言われ、執務員たちに挨拶をして下がった。
     猫にご飯をあげて、猫を撫でる。猫は相変わらず本の上に乗っかったが、面倒なのでそのまま座らせて撫で回した。
     早く本を読みに行きたいので、急いで洗って浴槽につかる。笹貫が五十数えて、と言うので特に害になるものでもないし、言われるがままに数える。五十、と言った途端、お湯から抱き上げられた。言ってくれれば自分で出たのに。それでも落としたら笹貫がまずい、ということを覚えていたので、腕の中でおとなしくしていた。長椅子の上にタオルも着替えも置いてあって、すぐに全部拭かれて着物を着せられた。支度部屋まで我慢できなくて、笹貫の少し後ろを歩きながら続きを読み始めたら、なにでわかったのか、振り返った笹貫にすぐ見つかった。怒られると思ったが、笹貫は怒っていなかった。
    「片手で本読める?」
    「文庫なら」
    「じゃあそれ、危ないから、片手つないでならいいよ」
    「はい」
     右手を差し出した。本を持つのは左手のほうが得意だ。昼間のように私の手を包み込むのでなく、掌を合わせて握り合うような形で手を繋がれた。女の子がしたがる繋ぎ方だ。けれど何度か握らされた女の子の小さな手とは全く違う、大きくてごつごつした手だったので、新鮮でこそあれ嫌な気持ちにはならなかった。
     髪を乾かしてもらって、当然のように自室に戻ろうとすると、もう一度、今度は両手で手を握られた。
    「あのね、オレと一緒にご飯食べてほしいなって、お願い。どうしてもダメな時とか、忙しい時はあきらめるけど、オレが近侍の間はできるだけ一緒にご飯食べてほしい。本読んでても、いいから」
     私の目をまっすぐ見て、真摯な声で彼は言った。
     どうしてもダメな時はあるだろう。でも、今日は思ってたより平気だ。ちょこっとしか本は読めなかったけれど、お昼によく寝たせいだろうか、笹貫を置いて、悲しませてまでどうしても部屋に戻りたいとまでは思わない。
    「ダメな時は、そう言いますね」
    「ありがと、うれし」
     そう言って本当にうれしそうに笑ったので、私の心も少しだけ満たされた。
     それで連れ立って食堂へ向かった。
     私は先に座って、本を開いた。今主人公は図書館の女性を待っていて、料理を作っている。
     サラダドレッシングと、フライと煮物。
    「あーん」
     肩を軽く叩かれて、はっとして口を開けると、入ってきたのは、アスパラとお肉。卓を見ると、いろんな野菜の肉巻きと一口サイズのおにぎりが置かれていた。
    「ん、次どれ食べたい?」
     私の視線に気づいたのか、笹貫が聞いてくる。こういうのを選ぶのが私は苦手だ。どれにするのが正しいか考えてまごついていると、笹貫が1つ箸で取って、こちらに向けた。
    「じゃあ次は人参」
     うなずいて、口を開けるとすとんと口の中に置かれた。噛むと人参の甘い味がする。笹貫を見ると、私の前に置かれたものより大きな、何種類かの野菜が入った肉巻きを一口で口に収めるところだった。もぐもぐしながらこちらを見て、目だけで微笑んだ。
     その顔を見た時、心臓が一つ高く鳴って、口の中のものをいっぺんに飲みこんでしまった。喉に引っかかって咳き込みそうになるのを堪えていると、笹貫が湯呑みを差し出してくれて、受け取って一口飲むと落ち着いた。
    「ごめんね、大きかった?」
    「いえ、私が飲みこむのに失敗してしまったんです」
     どうしてこの子が謝ることがあるだろう。長く垂れた前髪の先に、少しだけ触れる。
    「笹貫は、なにも悪くないですよ」
     このかわいらしい子を、なるべく苦痛なく、少しでも楽しく、この戦争が終わるまで生かすことが私の仕事だ。全ての男士を、等しく。なのにこの子だけに心が傾いていきそうになる。これはなんだろう。
     指を離す前に、笹貫が微笑んで、私の指を捕まえて小さく口づけた。たったそれだけのことに、私はとても動揺した。慌てて手を引き抜こうとして、それは一度強く固い手に阻まれてしまったが、笹貫は私を閉じ込めずすぐに放してくれた。
    「ありがと」
     そう言って笑う彼はとてもかわいかった。
    「次は茄子食べよ」
     そう言って差し出されたものを、確認もせず口に入れる。私が食べると、笹貫も一つ食べる。そのやり取りを続けて、そうして開いた本はそのままで、私は笹貫を見たままで食事を終えた。
     デザートに出てきた、名前のわからないオレンジ色の果実はとても甘かった。けれどそれを剥く笹貫の指を果汁が伝っていく。それを見て、主人公はこれから図書館員の女性と同じベッドに入るのだと思い出した。どうして急にそのことを思い出したのか、自分の気持ちをはっきりと自覚したが、必死で蓋をして見ないふりをした。視線を引き剥がして、文字に目を落としたが、文字が成す意味はなにもわからなかった。少し待っていてね、と言われて彼が食器を片づける間も、私は本を読むふりをしていた。
    「蜂須賀がね、主が今日も寝ないんじゃないかって、心配していたんだ」
     食堂を出て、廊下を並んで歩きながら笹貫が言った。手を繋がれそうになったけれども、本を両手で胸に抱いてそれを避けた。気まずくて、自分でもどうふるまっていいかわからないでいた。
     笹貫の言っていることはわかる。蜂須賀は心配性だ。人間は数日寝なかったからと言って死んだりしない。特に今日は昼寝をしたのだから。でもこの子が同じ心配をしていたとして、同じ言葉で退けてしまえるだろうか。きっと傷ついた顔をすると思うとなにも言えなかった。
    「それでね、主がどうしても続きが気になるなら、オレが読んであげる。主はいつでも寝ていいから」
     この子はなにを言っているのだろう?
    「オレが声に出して読んだげる。そしたら主が目を閉じて横になっててもだいじょうぶでしょ?初めてだから、上手くはないだろうけど」
     不意にこどもの頃のことを思い出した。図書館で、職員さんが本を読んでくれる会があって、小学校の低学年の時何度か、学校から走って行ったことがある。もっと小さい子向けで、自分で読める本ばかりだったけれど、こちらに語りかけるようなその声に聞き入ったものだ。親が小さいこどもに絵本を読んだり、ということを本の中に見つけて知っていたけれども、私にはそれは望めなかったし、保育園や幼稚園には行かなかった。小学校の授業で先生や生徒が読み上げるのはごく短い部分だけだけれど、図書館では小さい子向けでも一冊を最初から最後まで読んでくれる。たくさんは行けなかったし、高学年になったら学校が終わる時間が遅くなって間に合わなくなってしまったけど、大好きだった。ここに来てからもうずっと行っていないけれど、図書館は自分がいていいと思える大事な場所だった。
     もう大人になってしまって、誰かが自分に本を読んでくれるなんて、考えたこともなかった。
    「笹貫が読んでくれるんですか?」
    「うん」
    「私が寝なかったらどうするんですか?」
    「ずっと読むよ。主の部屋飲むお水あるんだよね」
    「あります。蜂須賀が設置してくれました」
    「じゃあ、寝なかったら朝まで読むよ」
     笹貫がやさしく微笑んだので、嬉しくなって片手を本から離して、彼の方へと伸ばした。その先でなにをしようとか考えていたわけではない。反射的な行動だった。笹貫はその手をやさしく包んで、くるりと向きを変えて手を繋いだ。
    「つかまえた」
     そう言った時の微笑みは、さっき見たものと違う、少し悪い笑い方だった。そういう顔もとても彼には似合っていた。
     支度部屋で夜着に着替えさせてもらい、部屋の前で夜の護衛に挨拶をして、笹貫のことを伝えて、部屋に入る。
     布団は昼から敷いたままだ。朝と逆側の本棚へ、本の山の隙間を縫うように向かう。
    「この本じゃないの?」
     笹貫が、私が入ってすぐに枕元に置いた本を持ち上げて言う。
    「その本には、あなたに声に出して読んでもらうには不適切な部分があります。あなた方にそういうものを朗読させるのは、あまりに不道徳だと思うので」
     克明な描写ではないとは言え、なにしろその手前で止まったままなのだ。
     バラバラに並んでいる本の中からお目当ての本を抜き出す。
    「この本にしましょう、この本はだいじょうぶだし、導入部が眠くなりそうです」
     来た道を戻りながら、手に持った本を掲げてみせる。はしゃいでいる自分に気づいて、少し恥ずかしくなって手を下ろした。笹貫は私に寝てほしいからこの方法を提案したのだから、私は興奮していないで少しでも早く寝る努力をするべきだ。
     ひとつ息をついて、布団の上に正座した。
    「これはどんな本なの?」
    「献身と忠誠、友情と愛と歌と、種族の話です」
    「お、前の本より長い」
    「はい、長いお話なので」
    「新しい本じゃなくていいの?」
    「今この部屋には新しい本がないのです。きっと、明日届きます。それに、新しい本だと読んでもらうのに不適切かどうかわからないので、今日はそれがちょうどいいです」
     笹貫がふぅん、というなんだか含みがあるような返事をしたが、私はそれどころではなかった。布団の中に収まって、目を閉じる。笹貫が部屋の電気を消し、読書灯を点けたのが、瞼の裏の明るさでわかった。
     笹貫の声は低く艶があって、心地いい。その声がゆったりと、私の好きな本をなぞっていく。私は幸せな気持ちでそれを聞いていた。そして序章を全部聞くこともできず、誕生日には到底たどり着けないまま私は眠りに落ちた。

     ふと目が覚めたら、読書灯がついたままで、笹貫が横で寝ていた。本を途中まで読んでいたみたいだ。起こしたくなくて、しばらく動かずにきれいな顔を見ていた。それからそっと手を伸ばして、自分の布団の上にかかっていた毛布を笹貫の体にかけて、読書灯を消し、闇の中で笹貫の寝息の音を聞いているうちにまた意識が途絶えた。


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    Replies from the creator

    ふじたに

    PROGRESS猫と怪物 8の表 笹さに♂
    猫と怪物 8の表 笹貫に直に会って触れてみた効果はすごくて、読書も仕事も捗った。会わないと決めたのは自分だし、もう怪我なんてしてほしくないから、またしばらくは会えないほうがいい。そう頭では理解しているのに、彼がすぐそばにいた日のことを何度も思い返してしまう。
     研修のものがいないときは、基本的に蜂須賀が近侍を兼ねている。とはいえ蜂須賀は忙しいので、簡易版と言うべきだろうか。起こしてもらって、朝の支度はひとりでして、戻ると食事があるのでそれを食べ、器を厨に返してから執務室へ行く。猫のところはいっしょに行ってくれて、昼食は自室で取り、東屋へは執務室の誰かがついてきてくれる。蜂須賀に余裕があるときは内番を見に行ったり、私の仕事に余裕があるときは誰かを護衛に立てて演練へ。いっしょに猫に行って風呂に入ったら、部屋に食事を運んでくれて終わり。簡略化しても蜂須賀は残業をしている気配なので、私としてはもっとひとりでもいいと思っているのだが、本丸初期の本当に手が足りていないときに、私が不意に湧いたあやかしと遭遇してしまって以来、蜂須賀は常についていられる近侍に向いているものを見つけるのに熱心だ。
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