【12】雨宿りどうしてこうなったのか、本当ならもっと早い時間にタワーに戻るはずだったのに、「もう少し先まで」とか二人で言っているうちに奥まで進んでしまっていた。
雨が降るな、と空を見上げて言い合っていたのに、どちらも帰る提案をしなかったのは、単純にこのまま二人でいたかったからだと隼人は思っている。
夜のランニングは竜馬の習慣で、それにいつも付き合えるわけではなかったけれど、今日は仕事が早く終わったので久しぶりに自分も走ろうかと思った。
「虫の声がうるせぇが、すっきりするよな」
と屈託なく笑う竜馬が可愛くて、そんなことを言えるはずもないが、「そうだな」と返しながら部屋以外で二人きりになる機会があまりないことを、ふと考えていた。
それを不満に思ったことは特段なかったが、たまには二人で外に出てみたかった。
それが。
ランニング用のスウェットに着替えて出てみたら空は曇り空で、「あまり長くは走れないな」と呟く竜馬の声は聞こえていたが、なかに戻る気にはなれずそのまま走り出し、気がつけば目標にしていた箇所を通り越していた。
それを分かっていながら二人とも何も言わなかったのは、結局そういうことなのだろうと。
疲れたと音を上げたのは隼人のほうで、
「だらしねぇな。
座ってばっかりいるからだ」
と竜馬が呆れたように返して、そこからは歩いて夜の森を進んでいた。
タワーすぐの周辺と違い森には非常時のライトしか設置していないので、そう遠くへは行けない。
警備用のライトで照らされる範囲の道からは出ないのがルールで、それは当然二人とも理解していて、もちろん破る気などない。
それでも、薄暗さの漂うほうにどうしても足が向いてしまうのは、人に目撃されたくないのが理由だった。
だから、竜馬が「こっちはどうなってんだ」とか呟きながらギリギリの暗がりを歩くのを、止めなかった。
曇り空で月の明かりもない夜で、森は木々の葉がざわめく音と虫の声が響く。
いい夜とは言えないが、タワーのなかで過ごす時間のほうが圧倒的に多い隼人には、流れる空気がまったく違うことが新鮮だった。
隣に竜馬がいることが何よりも安堵で、また刺激で、
「さすがに戻らないとまずいか」
と竜馬が言うのを聞きながら、もう少しこのままで、と思うのも本音だった。
走ったせいで頬の紅潮している竜馬はやっぱり可愛くて、そんなことはやっぱり言えるはずもないが、首筋に流れる汗を目にすると心が疼く。
自分を見る瞳にはきらきらといつもの光が浮かんでいて、部屋の照明の下で見るより色気を感じるのは、周囲を満たす夜の闇のせいだと思った。
足を止めたのは立ち木が並ぶ陰で、そこは遠くからは見えないはずだと、”逢い引き”の最中にいるような自分がおかしかった。
帰るのなら、少しだけ。
「竜馬」
声をかけて、同じく立ち止まってこちらを見た竜馬の手に、腕を伸ばした。
それが分かっても竜馬が抵抗することはなくて、そのままそっと指を掬った。
何も言わず素直に預けてくるのが、同じ気持ちなのかと期待してしまう。
「……」
リングのはまる左手の薬指を、どうしても触れたくなる。
指を滑らせるように絡ませて、しっかりとつないでから、竜馬の顔を見た。
結ばれた手に視線を落とすその表情に、戸惑いの色ではなくやわらかい喜びの波が広がるのが分かって、胸にじわりと熱が湧く。
何も言わずにいると、こちらにちらっと目をやってから、
「……あそこじゃ、出来ねぇよなぁ」
と、小さく呟くのが聞こえた。
二人きりになれる時間はあるが、手をつないで歩く機会など、タワーではまず持てない。
「そうだな」
と返して、つないだままの手を持ち上げて、竜馬の薬指で落ち着くリングに唇をあてる。
絆の証。
竜馬にとって自分の存在の意味を明確に示すこれを、気に入っていた。
「……帰るか」
その自分を見る竜馬の眉が少し寄っていて、瞳に落ちるわずかな影が瞬きを隠して、その表情がまた、隼人の心を突いて揺らす。
頬に触れたい衝動を覚えながら、「ああ」と返したとき、ぽつんと雫が腕に落ちた。
二人で見上げると、今は真っ黒な雲が空を覆っていて、次の瞬間にはさぁっとカーテンを下ろしたように雨粒が降ってきた。
「まずい」
同時にそう言って、近くの木の陰に飛び込む。
つないだ手を、どちらも離さない。
こんな関係になる前に、竜馬は早朝に外を走る隼人の姿を見たことがある。
たまたま早く目が覚めて、ブラインドを上げた窓から外を見ると、スウェット姿の隼人が歩道の隅に立っていた。
胸がどくんと大きく鳴って、さっと離れて身を隠して、それから「何をやってんだ」と恥ずかしくなって、隅に移動してからふたたびそっと窓に顔を近づけた。
隼人はこちらに気がつくことなく腕の時計を操作していて、その顔は自分に見せるものと違って力の抜けた表情を浮かべていて、心がぎゅぅっと絞られるような痛みが走った。
まだ会話が上手くいかないときで、まともに顔を見ることすら難しくて、こんな素の状態なんて、目にしたことはなかった。
「……」
隼人、と胸のなかで何度も呼んだ名前を繰り返す。
普段の格好と違うのが新鮮で、似合っていて、ぼんやりと見とれていた。
気づかれたくないから、しっかりと顔を出してその姿を視界に入れることができない。
こそこそと盗み見る自分の卑屈さに怯みながら、それでも、ただ見つめていられる貴重な時間だったことを、竜馬は今も覚えていた。
だから。
思いが通じてから、自分も走ることを始めた。
あのときのことは隼人に伝えていないし言う気もないが、「なぞる」ことが、ささやかな楽しみだった。
二人で走るようになるなんてな、と隼人に握られた左手の熱を感じながら、木の下で竜馬は思い出している。
気分転換に、とたまに隼人を誘うのは本当は一緒に楽しみたいからで、あの朝目にした隼人が今は自分のすぐ隣りにいることの実感が、竜馬に高揚と安堵を与える。
今日は夜から雨が降りそうだと、渓たちが話すのを聞いて知っていた。
それを隠したのは隼人が「俺も行く」と言い出したからで、どうしても二人で外に出たかった。
こうして、手をつなげることが。
二人で木の陰に隠れて雨宿りを出来ることが。
確かに愛情で結ばれた関係なのだと、教えてくれる。
「寒くないか?」
と、こちらを見て尋ねる隼人の瞳はいつも通りあたたかい色をしていて、今は周りに誰もいないから表情も穏やかで、リラックスしているのが分かる。
「ああ」
声を返しながら、違和感なく身を寄せ合っていられるのが嬉しくて、ついその肩に頬を置いた。
「……」
隼人の息がかかる。
手を伸ばしてくれるのを、待っていた。
そんなことを言えるはずもないが、相変わらず左手の薬指に固執する隼人の姿は愛しさを覚えるばかりで、もっと触れたいと思ってしまった。
雨は途切れなく落ちてくる細い雫で薄い絹のような境界線を作っていて、それが自分たちを世界から分けているようだった。
だから。
少しくらい甘えてもいいだろうと。
虫の声に混ざって、静かな水の音が流れる。
汗をかいた体にその冷気は寒さを否応なくぶつけてくるが、そんなことはどうでもよかった。
反応しない隼人を気にせずそのままにしていたら、右腕が動いてゆっくりとつないだ指を外された。
そのまま肩が上がって、つられて顔を戻したらその腕が自分の腰に回るのが分かった。
強い力でふたたび引き寄せられてその体に密着して、さすがにそれは恥ずかしくて、「隼人」と思わず声を上げたが離してくれる気配はないまま、抱きつく形で立っていた。
「竜馬」
誰よりも愛しい男の声が降ってくる。
でもその顔を見上げる隙間がない。
腰を抱く腕の力強さと、押し付けられた体の熱が、自分の裡にも入り込むようで竜馬はふうと息を吐いた。
隼人。
ふたりだけだ。
「……」
小雨が降っている。
ここに立っているのは二人。
竜馬が肩に頭を寄せてくるなんて部屋でも滅多になくて、その気持ちが自分を信頼しての甘えだと分かるから、隼人は余計に動揺する。
こんな外で。
まともに抱き締めることも出来ない場所で。
でも、この小さな非日常に頼って竜馬に触れているのは自分も同じなので、もどかしさを堪えて抱き寄せるしかなかった。
声を上げた竜馬が次にはもう脱力して体を預けてくるのが、どうしようもなく可愛くていじらしかった。
やっぱり。そんなことは言えないが。
「……帰らないと、みんなが心配するだろうな」
竜馬の声がする。この幸せに溺れていたくても、現実が足を引っ張る。
「分かってる」
そう返しながら、隼人は竜馬の体が冷えるのを心配する。
雨はそう強くない。濡れて帰ってもすぐシャワーを浴びればいい。
もぞもぞと竜馬が動いて、体を起こした。
「帰ろうぜ」
こちらを見ずにそう言う顔が、赤くなっている。
こんな外で。
指は自動的に動く。視線を下に向けている顎を掴んで、持ち上げた。
「隼……」
「……キスだけ」
目を開いてこちらを見る顔にそう囁いて、ゆっくりと唇を重ねた。
「……」
薄く開いていたそれはすぐに応える。触れ合ったところから溶けるような熱が流れて、隼人の心に棘を刺す。
ここではブレーキが要るから。
分かっているから勢いをつけられない。絡んで引き出す熱を二人で弄ぶことが出来ない。
全然足りないのに。
息が漏れる。耐える。
竜馬の指が自分の腕を掴む。足りない。もっと。
もっと。
ねだるようなその強さに気持ちが揺れる。
俺だって。本当は。
そう思いながら、それでもやっぱり耳から入ってくる外界の音を捨てられなくて、隼人の意識は正常に留まることを選ぶ。
何とか唇を離して、竜馬の肩を掴んで、「愛してる」と囁いた。
その自分の目を真っ直ぐに捉えて、竜馬が
「俺も」
と言った。
光が見える。
ひたすらに自分を求める、強い色。
小雨が降っている。
ここにいるのは二人だけ。
それから急いでタワーに戻って、人気のない廊下を雫を垂らして歩き、距離の近かった隼人の部屋に入り、二人でシャワー室に飛び込んだ。
改めて触れ合う唇の感触を確かめながら、いつまでも肌を合わせていたかった。
水の音が流れる。
激しく背中を打つ飛沫があたたかくて気持ちよくて、竜馬が生き返ったと笑う。
その頬を挟んで持ち上げて、愛してると言いながら、隼人の瞳が伏せられる。
何度でも口にする。
成就しない独占欲が向かう先は、いつもたった一つの光。
「隼人」
竜馬の手が背中に回る。
毒も熱ものみ込んで、爪を立ててくる愛おしい左手。
-了-