あの日のことは今も鮮明に思い出せる。私の目の前で、友人が神に貫かれた。そして友人と契約していた私の夫がその場に膝を着くのはすぐだった。なりふり構わず私は彼の名前を呼び、今まで殺してきた神の存在にすら祈った。どうか、どうか彼を殺さないでくれと。誰でもいいから彼を救ってくれと。
けれど救いなど何処にも無いのだ。私は最期まで何も出来ないまま、彼の手を握り続けていた。最後に見た笑顔はやはり、やさしくて、私の中で何かが崩れていく音を聞いた。
そして私は、「力ある者となり弱き者を守る」という山紫の家訓の残酷さを知った。私が守らなければならないのは「誰か」であって、彼ひとりである理由がなかったからだ。
山紫の家では基本的に詠手舞手、その素質無しに関係なく自己犠牲に身をやつせるような人格になるように育てられる。私も無論そのひとりだ。誰かを救えるのなら、私が犠牲になることが私にとっての全てだった。私がかつてこの学校に入学する頃までは。
当時の私は家訓通り誰かを守ることに躍起になっていて、それ以外のことを全て蔑ろにしていた。私が傷つくことも、誰かに利用されることも、何も不思議ではなかった。そして、私は彼と出会った。
五社と一切の関わりなく生きてきた彼は、私に手を差し伸べた。私が皆を救うのなら、私のことは誰が救うのだと問いかけた。そして、私のことを守ると言ってくれた。
その言葉がほんとうに、ほんとうにうれしくて。私は多分、その時から山紫の人間から少し離れていったのだろう。私はこの命をかけて、いちばんに彼を守りたいとほんの少し思った。思ってしまった。
そしてその結果がこれだ。彼は私を守り、私は彼を守れなかった。ただ何も出来なかった私がひとり生きている。
教育の賜物なのか、血なのかは誰にもわからない。けれど私たちには、決定的に何かが欠けているのだと思わずにはいられない。だって、未だに私は誰かを守らなくてはと思っている。そのあり方が、正しいとしか思えないままでいる。
水明が中学三年になった秋、五社学園への入学が決まった。彼と同じ、舞手の素質があるそうだ。彼に似てやさしい子どもになった。そして私の背を見て育ったこの子は、私と同じことを繰り返すだろう。誰かを守るために自分を犠牲にすることを厭わず、そうして誰かを傷つけて悲しませる。けれど私の掛ける言葉はひとつしかない。
「入学まで、引き続き自己研鑽を怠らぬように。そして、神から人を守りなさい」
はい、と返事をする水明の瞳は真っ直ぐで、迷いがなくて、いっそ無垢なほど透き通っていた。何が正しくて、何が間違っていたのか、私には未だに分からないままでいる。
私たちは皆、どこかおかしいのだ。