It's nothing special カリムは、一人で起きることが苦手だ。
なんでも赤ん坊の頃から、よく泣いて、よく遊んで、よく寝る子だったらしい。だから、今もたくさん寝る子なのね、なんて母は穏やかに語っていたけれど、十七になっても変わっていないなんて少し恥ずかしいなと感じたことを、カリムはぼんやりとした頭で思い出した。
太陽と月が入れ替わる明け方、東の空でじわじわと、触れれば熱を感じてしまいそうな橙色が夜の色を侵食し始めている。ジャミルがカリムの部屋をノックするよりもずっと早い時間に、カリムは一人、ベッドの上で体を起こしていた。
深く息を吐けば、カリムの体に籠る嫌な熱が僅かに出ていく気がした。しかし、胃の底がむかむかとして、吐いた熱よりも多くの熱が身体中を巡ったと思えば、今度は悪寒に体を震わせる。
(熱、あるかも)
ここまで、明らかに体調を崩したと実感したのは、久しぶりのことだった。故郷にいた頃、特に幼い頃はよく、服毒の影響で体を崩していた。毒を呷ってしまった日はもちろん、その影響で内蔵などの機能が弱まったせいで、カリムは同年代の子どもよりもベッドに上にいることが多かったのではないか、と今は思う。
ここしばらく、体調を崩さずにいられたのは、刺客の少ない環境下だから、というのはもちろん一因だろう。しかし、カリムは一番の理由を知っている。
ジャミルのおかげだ。ジャミルが従者として、毎日カリムの健康に気を遣ってくれていた。特に、毎日作ってくる温かな料理たちが、カリムにたくさんの元気をくれる。ジャミルの仕事は、いつも完璧だ。
だからきっと、ジャミルはカリムが熱を出したと気付いたならば、カリムを心配してくれるだろう。献身的に看病だってしてくれる。――従者として。
(友達になるって、言ったばかりなのになあ)
カリムは、重い体を動かしてベッドから下りた。足の裏に体重が乗った瞬間に、平衡感覚がぶれて、ベッドの端に手をつく。ぐらぐらとする視界の中、ゆっくりと足を進めて棚の上にある薬箱を開けた。
(熱冷まし用……だっけ。気持ち悪い時は、別の薬を飲んでたような気もする)
ジャミルが常備してくれている薬たちは色々な種類があり、どれを飲めば正しいのか、カリムにはよく分からなかった。少し考えて、一番よく見る気がする薬を選んでみる。少なくとも、熱冷ましの効果はあるようだから、間違いではないだろう。
カリムは、一錠薬を口に含むと手を器のようにして、その中に魔法で水を作り上げた。薬を喉の奥に押し流すように勢いよく呷れば、ひんやりとした感覚が体の中心を通る感覚がして、気持ちが良かった。
ふらふらとベッドに戻って、羽織っていたブランケットを被り、横向きに丸くなる。
ジャミルが朝、この部屋に来るまで、まだ少し時間がある。もう一度眠れば、薬が効いてきて、回復するかもしれない。いや、そうであってほしい。
(ジャミルに、無理はさせたくないな)
やりたくないことは、当然断る。カリムとは違う考えを持つ彼が、ようやく言ってくれた遠慮のない言葉が友人の証ならば、その気持ちを尊重したい。自分の体調を理由に、その意思を崩すことがあってはならない。
確か、今日はジャミルが楽しみだと言っていた講義があったはずだ。そんな今日を、弱った自分を理由に、台無しにしてはいけないと心の底から思う。
自分で、できることをする。ジャミルの友人として、相応しい自分であらなくては。
カリムは未だ収らぬ吐き気に無理矢理蓋をするように、きつく目を閉じた。
◇◇◇
「カリム。入るぞ」
ノックの音と、ジャミルの声に、カリムの意識が急速に浮上した。目を開くと、外には見慣れた青空が広がっており、すっかりいつもの起床時刻になったようだ。
カリムは慌てて起き上がったが、寝る前と体のだるさは変わらない。少しだけ、胃の不快感がマシになった程度だろうか。
がちゃ、と扉が開く。完璧に準備を整えたジャミルの姿を見て、カリムは口を開く。
「おはよう、ジャミル!」
カリムはできるだけ、元気よくジャミルに声をかけた。体調が悪い以上、完全に誤魔化すことは無理かもしれないが、少しでも大したことないと思ってもらえるように。
ジャミルもまた、おはよう、と挨拶を返そうとしてくれたのだろう。一瞬、口を開きかけたが、険しい表情になって口を結んでしまう。それから、ジャミルは大股でカリムの方へ寄ってきた。
「熱、あるな」
カリムは、体をびくりと揺らして目を丸くした。
「……何で分かったんだ?」
いずれバレてしまうにしても、一瞬で悟られてしまうとは思わなかった。ジャミルは、カリムの額に自分の額をこつりと当てながら、カリムの疑問に答える。
「昔も、似たようなことがあった。俺と遊びたいからって、高い熱だっていうのに、大したことないって振る舞ってたことあっただろ」
ジャミルに言われて、カリムはそんなこともあっただろうか、と首を傾げた。覚えていないけれど、昔からジャミルのことが大好きだったカリムなら、やっていてもおかしくないかもしれない。
昔の記憶を辿ろうとしていると、ジャミルの額が離れた。それから、汗で張り付いた前髪ごと、後ろに流すように一度頭を撫でられる。
「今日は、授業は休め。シルバーにでも連絡して、今日進んだ内容は後で教えてもらえばいいから」
「うん……」
「少し、何か食べた方がいい。スープか、果物くらいならいけそうか?」
ジャミルは一度部屋から離れて、わざわざ料理を準備しに行こうとしてくれた。きっと、別に用意していた朝食だってあるはずなのに。
カリムは慌てて、ジャミルの背中を引き留めるように声をかけた。
「あ、あのさ! ジャミルは授業、出てくれよな」
「はあ? 俺が出たら、誰がお前の看病を」
「熱はそこまで高くないし、薬も飲んだ。だからへーき」
カリムはへらり、と笑う。勢いよく振り返ったジャミルは、切れ長の瞳を丸くして驚いた様子だったが、今度は不機嫌そうに眉を顰めたかと思えば、すぐにカリムから背を向けてしまった。
「……スープと果物は持ってくる。どちらにせ、朝食に入れる予定だったから、手間があるわけじゃないから」
「そっか。だったら、よかった。ありがとな、ジャミル。ちゃんと、無理してないで寝てるよ」
ジャミルはそのまま、部屋から出ていった。少しすると、銀の食器に温かなスープと、食べやすいようなサイズにカットされた果物を数種類用意して、部屋に戻ってきてくれた。
全てを食べ切ることはできなかったが、ジャミルの仕事に感謝して、彼を見送る。
そしてジャミルに約束をした通り、カリムはベッドの上に横になった。寮の生徒も皆、学園に向かったのだろう。夜のように静かなのに外は明るくて、熱のせいか地平線が滲んで見えた。そう見えたことは、決して初めてのことではなかったなと、カリムは不意に思い出す。
(だからオレは、あの時ジャミルと一緒にいたかったんだ)
カリムは、幼い頃に熱があってもジャミルと一緒にいようとした。今日まで忘れていたけれど、カリムの記憶の糸が結び直されていく。
一人で見る青空は、どれだけ青く美しくても、カリムの心に沁み渡り、溌剌とした気持ちをもたらすことはなかった。青が沁みるたびに、胸の奥がぎゅうと狭くなって、瞳が潤んだ。体はとっくに熱で火照るはずなのに、他人の熱を求めていた。
寂しかった。だから、側にいてほしかったのだ。
幼い頃と比べて、カリムの感覚は変わってなどいないらしい。寂寞とした青空を目に焼き付け、カリムはそっと目を閉じた。
◇◇◇
凍えるような砂漠の寒さを、この世界の人間のうちどのくらいの人間が、知っているだろうか。
昼間、肌を焼くほど強い陽の光を吸いこんだ砂粒たちは、夜になれば急激にその温度を失う。凍えるような世界の中で、人の体温というのは、本物の光よりも強く眩しく、人に希望を与えるものだと、カリムは知っていた。
誘拐された先で、すっかり冷え切ってしまった小さな手に、同じぐらい小さく、しかし温かな手が重なる。ぽたりと、手に落ちた涙もまた温かく、その温度がどれだけカリムに生きる力をくれたか、言葉で表現することすら難しい。
怖い、寒い、寂しい。悲しくなる感情が溶け出して、カリムも泣いた。そうしたら、もっと彼も泣くものだから、カリムの周りだけ、まるで雨が降ったかのように思えた。
きっと、もう得られない特別な瞬間だった。あの温度だけは、カリムの勘違いではない、対等な涙だったと、信じていたい。今だからこそ、カリムは強くそう思った。
喉の渇きに誘われて、目が覚めた。見慣れた臙脂色の天蓋と、変わらぬ青空が目に映る。眠る前よりも、どこかすっきりと感じられるのは、体調が少し回復したからだろうか。依然として頭は重く、熱でぼんやりとした感覚は残るが、少しでも良くなっているなら嬉しい。
何か飲まなくては、と体を起こそうとして、カリムは気付く。ここにいないはずのジャミルの手が、カリムの右手に重なっていたことに。
「じゃみ、る」
丸椅子を用意して座っているジャミルは、目を閉じて眠っているようだった。膝には、しおりが挟まれた本が置いてあり、その表紙にはジャミルが楽しみにしていた講義の科目と、同じ科目が書かれている。
もう陽は高く昇っており、もしかすると午前の授業は終わってしまっているかもしれない。
いつからここにいてくれたんだろう。友達なら、嫌なことは断るって、ちゃんと言っていたのに、またカリムの知らないところで強要させてしまったのだろうか。
申し訳ないと感じながらも、カリムの繋がれた手に安堵する自分も確かにて、目頭が熱くなる。かと思えば、あっという間に決壊して、ぽつりぽつりと雫が落ちた。
その時、思わず力んでしまったようで、ジャミルの手を強く握ってしまった。そのせいか、ジャミルの目が開いてしまう。目を覚ましたジャミルは、すぐにぎょっとしてカリムの肩を掴んだ。
「……っどうした⁉︎ そんなに辛いのか、今すぐ故郷のお抱えの医師を……」
「ちが、ちがう、そうじゃないんだ」
カリムは、弱々しく首を振る。
「オレが寂しいって思ったから、バチが当たったんだなって」
カリムは、手の甲で流れる涙を止めようとしながら、正直に話をした。
「弱ってることを理由にして、ジャミルを都合の良い存在にしたいわけじゃないのに、ジャミルに無理させちまったって、おもって」
ジャミルは悪いやつだ。でも、同じくらい、カリムに優しさをくれた。その理由が、ジャミルにとっては好ましいものでなかったとしても、カリムはジャミルが弱った自分を放っておけない人間だと知っていたはずなのに。
「こ、こういう時こそ、命令、すればよかったのかもって思って、でも、そういうの、やっぱり、したくなくて……」
カリムが気付いてないだけで、心の底では期待していたのかもしれない。だから、絶対に授業を受けてくれ、と言えなかったのかもしれない。
せっかく、ジャミルが自分のやりたいことや、やりたくないことを伝えてくれるようになったのに。
カリムの熱は下がっていないらしい。熱でぽやぽやとした頭に、様々な感情が浮かび上がって、飽和してしまいそうだった。
「病人が小難しいこと考えてる場合じゃないだろ」
ぽろぽろと溢れる涙を止めたのは、ジャミルの言葉と、カリムの頬を包む大きな両手だった。
大きくて少し冷たい手は、カリムの頬を包んだまま親指で器用に目元の涙を拭う。
「そこまで、俺のことを理解しようと頑張るのはいい、が、突っ走りすぎだ」
「え?」
「ほんっとうに、鈍感野郎だよ、本当に」
ジャミルの目元が、柔らかく弛んだ。
「特別なことなんてしてない。俺が嫌だと思うことなんて、何一つしてない」
都合のいい言葉が、カリムの目の前に並んでいく。どこまでが、本当か偽りか、カリムには分からない。そのまま、受け取ってしまってはいけないのかもしれない。だけれど。
「お前の手を握る時は、いつだって、お前に無事であってほしい。そう思ってたよ」
そう語るジャミルの瞳が、生まれたばかりの太陽のように優しくて、温かった。ジャミルは、確かにカリムに何度もこの瞳を向けてくれている。カリムを確かに案じてくれている瞳は、昔からその光を変えていない。その光の意味に、自惚れてもいいのだろうか。
カリムの胸がいっぱいになって、せっかく収まった涙が、ジャミルの手を濡らす。
「ジャミルのバカ、バカバカ」
「バカはお前だよ。ばーか」
涙の止まらないカリムを見ても、ジャミルはカリムの頬から手を離さずに、少し頬を赤くして笑っていた。
ジャミルは、きっと今でも完全に分かっていないだろう。ジャミルがくれた言葉や温度が、どれだけカリムを救ってくれていたか、なんて。しかし、同じくらいジャミルの本当の気持ちを見過ごしてきた。
今だって、ジャミルを考えると難しい壁にぶつかってばかりだ。だけれど、ジャミルがくれたものは、全てがカリムの都合の良い夢じゃなかったしたならば、カリムはどこまでも頑張れる気がする。
何度目の青空か分からないを見ても、もう、寂しい気持ちはどこにもなかった。