香りの行先渓谷に落ちる月光が樹冠の杉葉を鋭利に映し出し、木々の隙間を静寂が満たす。暗い林の内は虫の声さえ飲み込み、立ち込める深い霧は闇を広げんと揺蕩う。青々とした緑葉と土。樹林に漂う濃霧と共に辺りを支配する主の香。
荘厳を讃える伏した無音の闇に一つ、金属の擦れる音が立った。
音ともに現れた淡く朧げな霧は、月光をも飲み込む暗闇の上で柔らかな白を踊らせる。散乱する色は甘やかで神秘的な香りで挨拶を告げた。境界の来訪者に杉は葉を揺らし虫は涼やかに歌い出す。
蝶番の軋む音に白の内より鍵を開けた旅人は土へ足を降ろした。穢れを知らない純白と華やかで涼やかな淡色。背後の藤色を手元のランタンへ焚べれば、周囲の闇は奥へと下がる。
「?、あー鍵間違えたかも。……まぁいっか。」
揺れるタッセルに紅茶の芳香。過ぎ行く道に花開くアイリスは旅人の足跡。主のいない杉の庭を闊歩する者を咎める存在はなく、鍵のぶつかる音が生き物の囀りを先導する。そよぐ風の如く気ままに進む歩は、それでいて何かを目指している。そうして随分と闇を色付かせ、寄せられた蝶と戯れるのも飽きた頃。何処までも変わらぬ景色に、細く吐かれた息へ音を乗せる。
「――レン。」
光が消え、樹林は再び闇に染まる。鼻先を掠めるベルガモットの香り。包み込まれた外套の中で、ランタンは仄かに主を照らす。
「あはは!不貞腐れてる。」
「…なんですぐ呼ばないの。」
「散歩したい気分だったから。」
「普段は俺が誘っても全然外に出ないのに?」
「ん〜?言ったでしょ、気分だよ。」
「…。迷ってたじゃん。ここから出られなくなったらどうするの。」
「んは、閉じ込めてた張本人がそれを言うんだ。なんならもっと狭くなっちゃったな。」
服が擦れ合う距離。緩く振られた手で外套は揺れ、混ざりあったベルガモットが漏れ出る。白を囲う腕の輪は縮小し更に光を独占する。
「わっ!狭い狭い!どれだけ臍を曲げてるのさ。」
「だってわざと焦らす様なことしたから。」
「でも結局は呼んであげたでしょ?」
「……。」
「あーぁ、せっかく来たのに拗ねちゃうんだ!僕、帰っちゃおっかな。」
「シュウ!」
「んふふ!ようやく名前呼んでくれたね。お互い様だよ。」
「も〜…次からは素直に来てよ。ほら、その鍵から手を離して!」
「入口を間違えたのはわざとじゃないよ?レンの森をお散歩できたから良かったけど。それで僕はいつまでここに閉じ込められるのかな?」
「帰りたいの?」
「帰りたかったらそもそも来てないよ。」
「じゃあずっと居よう。」
「いや、ずっとはちょっと…。」
ふわり。現れた時と同じように、流れるように樹林へと抜け出す。再び照らされた針葉は喜びさざめく。
「そういえばこの森に入ったの初めだ。外から見た時よりも広いんだね。」
「見せたことあるのは、ほんの一端だから。」
「ふーん。正直さ、間違えて来た時にすぐ連れ出されると思ってたんだよね。前に入りたいって言ったら断られたし。」
「こんな暗くてじめついた場所でデートしたくないからだよ。あとその服汚しちゃいそうだし。」
「僕ここ好きだけど。静かだし、どこに行っても君の香りがするから安心する。」
「シュウだめだよ、そんなこと言っても俺は絆されないから。谷とかあるし危ないの!」
「そっかー…分かった。次からはすぐ呼ぶから、ね?案内してよ。」
「シュウ?」
「君と一緒なら危なくないでしょ。」
「今日は素直だね。」
「なにそれ。いつも捻くれてるみたいな。」
軽く曲げられた肘、空いた小脇に躊躇いなく手が添わる。常習的な動作に半歩ズレた足並みはまた一つ同じ時間を踏みしめる。二人だけの柔い暗闇で時折声を交わす穏やかで緩やかな暮夜。軌跡に花と蔦を残す。
「そういえば、シュウ最近お菓子みたいな香りしないね。」
「そうなの?自分じゃ分かんないからなぁ。」
「前はもっと美味しい感じだった!もちろん今のも好きだよ。」
「あれかな、お菓子作った時に匂いが付いてたのかも。」
「お菓子作れるの!?」
「あ、いや作ったと言うより冷凍のものを焼いただけ。」
「それでも作ったことには変わりないよ。俺も食べたいな。」
「人にあげるのは流石に…。」
「俺と君の仲でも?」
「むしろだよ。」
竦められた肩に木の上のフクロウが首を傾げる。木々の隙間から差し込む月明かりを黒々とした眼が反射した。チラつく星に天を仰げば月が瞰視している。月光の降り注ぐ開けた景色のその先、彼方の空は赤に輝く。
「レン、ここでは夜に太陽が登るの?」
「何言ってるの。もしかして眠たい?」
「…森の中だから方角が分からないんだけど、あっちは東じゃないんだね。なんで明るいんだろ。」
「ん〜?あぁ!あれドッピオのとこだよ。今日舞踏会するって連絡きてたでしょ。それの明かりじゃないかな。」
「あ〜そうだっけ?」
「シュウ…。」
「いや、だって!参加しないもん、いちいち覚えてないよ。」
「来て欲しそうだったよ。というか頼まれたんだよね。今日連れて来いって。」
「えっ、僕行かないからね。作法とか分からないし。」
「作法って。ドッピオが主催なのに。」
「まあそうなんだけど。でも社交ダンスとか踊れないとダメでしょ。そもそもなんで僕なのさ。」
「踊るの上手いからじゃない?体力無さそうに見えてそんな事ないし、振り付け綺麗にこなすよね。」
「運動音痴なわけじゃないから。」
「ダンスは運動神経とは別だと思うけど。シュウの動きはさ、リズムに乗ってるんじゃなくて、リズムが乗ってきてるって感じがする。だから見ていて飽きないんだよ。」
「…。」
「照れてる?」
「いや……。」
「まあでも舞踏会には行かないから。」
「え、あれ、僕このまま連れてかれるのかと覚悟したのに。」
「ははっ!ダメ、まずは俺と踊ってから!」
「わっ、ちょっ!」
組まれた腕が解かれ素肌が白の布地の上を這い、腕と腰を捉えると勢いのまま回転をする。360度の世界で、通り過ぎたはずの樫の木に止まるフクロウが何度も視界を通り過ぎる。
混じり合う黒と白の渦がギャップに降り注ぐ月光を弾く。反射で輝きを増し煌めき、一方は光を滑らせ厳かな光沢をみせる。遠心力に身を任せ布を風に乗せ舞い踊るそれはワルツには程遠く。それでいて、つがいの蝶を彷彿とさせる神秘さがあり。揺蕩う二色の布地は、引き寄せられた白が再び黒に包まれることで重力に落ちた。
「ふっ、あははは!俺たちには向かないね。」
「っは、はぁ、なん…。」
「大丈夫?目回った?」
「回るに、決まってるでしょ。な、んで平気、…というかいきなり何?」
「シュウをリードするのは俺だけがいい。それが無理でも初めての舞台は他の奴には譲れないから、だから練習。」
月を背後に携えるその姿は辺りに満ちる荘厳さそのもので。柔らかく瑞々しい翠緑は穏やかな様相を表面に張る。その瞳の奥に沈殿した欲望が逆光に滲み出す。
変わらず腕を掴む素手は、フリルを通り越し唯一肌を見せるその手首に触れ、指先は掌を這いハーフグローブに侵入を果たした。互いの体温を掻き混ぜながら、遅々とした動きで纏う衣をずり上げる。
「グローブが伸びちゃうよ。」
「……。」
「ねぇ僕にムードとか期待してるの?」
「前はこういうのが良いムードだって気づいてなかったよね。俺嬉しいな。」
「ずっと一緒にいればそのくらい察せるようになるよ。」
「じゃあ次はこういう雰囲気の時はどうするかを覚えないとね。」
「…、分かったから手を離してくれる?肌に触りたいなら脱ぐから。」
「分かってないじゃん。」
「え?」
「はは、脱ぐ必要は無いの。」
発されるはずだった声はリップ音に出口を塞がれる。開けた明るい場所に居ながら、月でさえその内を窺い知ることは大柄な体躯に阻まれ叶わない。生き物が様々な歌声を響かせるその合間に乱れた呼吸音が忍び込む。揺らぐ外套は二人の重なる影に溶け、時間をかけ藤色の灯を呑み込んだ。残った花は花弁を開き甘い香りを漂わせる。蠱惑な薫香を求める蝶は花に取り巻く蔦を前に、ただ飛翔するに終わった。
夜露が葉脈の窪みに降りる。重みに項垂れる葉が、根元の生した緑に露を落とすまであと――。