朝寒息が白む。朝焼け前の冷涼な空気は火照る身体の熱を奪い、頭から眠気が払われ思考が冴えていく。秋の内、青々と茂った木々か紅葉を始め、葉を落とすこの頃がなによりも好きだ。雪が降るほど冷えきっていな気温は喘息の症状を大人しくさせ、運動に最適となる。
運動のついでに朝食を買うようにと、兄弟より下った図々しい命令も素直に受け入れられる程、今日という休日の気候は心地の良い。それに良い事が起きる予感がする。元々運はいい方だし、不思議とそういう勘は昔から当たってきた。幸先のいい朝はその一つだろう。いつもより好調なペースで進むジョギングに、脚をいつもと違うルートへと進ませる。迷子になることは無いし、時間分配を誤らない限り家族が活動を始める時間には帰ることが出来るだろう。
暫く進めば河川敷に差し掛かり空気の変化を感じた。この辺りは利用する人が多いからと避けていたが成程悪くない。早朝でも今の時間帯であれば人気がなく、いつものジョギングルートよりも幾分か気温が低いのなら、今後はこちらを利用する方が得策だろう。
今日も自分の勘に間違いはなかった。心を浮き出たせていれば、ふと音が耳を掠める。――楽器? 生憎と音楽の知識は無いため何の楽器の音色なのか検討もつかない。進む歩に音は明瞭さを増し、漸く曲がクラシックである事に気がつくも、これまた曲名も分からない。最近音楽の授業で聴いた記憶はあるが、録に授業に集中していなかったため、絶妙に思い出せないモヤモヤが募る。そもそも奏者は何処だ。大きくなる音に反し、周囲を見渡しても見当たらない人影を走りながら探り続ければ、近づく橋梁下に見た僅かな反射に速度を落とし高水敷へ降りた。
朧気な人影が明瞭に浮び上がる。暗がりで際立つ白い肌に艶のある派手な色味のセミロング。アメジストが鎮座する綺麗なEラインから視線を落とせば、随分と薄い胴まわりに動揺した。音に惹かれて近づいたは良いものの、特段の目的もなければ、初対面の女性と話す話術なぞ以ての外。足音で気づいた相手がこちらを訝しげに見ている。
「…何か御用ですか?」
「……。」
愕然とした。男の声だ。
「あの?」
バイオリンを持つ手に力が入るのを視界の端に見たことで、漸く音の正体に気づく。
「ぁ…あーっと、音が聞こえたから気になって……。」
「えっごめんなさい!住宅街から離れてるし、煩くないかと思ってたのですが、ご迷惑でしたか。」
「あ、いや!違う違う!!ただの通りすがりだから頭上げて!ほら見て、俺ジョギングしてただけだし、そんなに音響いてなかったから大丈夫。」
見た目の派手さに反する礼儀正しい姿勢といい、先程から第一印象が直ぐに覆され落ち着かない。そろりとこちらを窺う大きな瞳に無害さをアピールすべく広げた腕を揺らす。
「演奏聞けたらなって立ち寄っただけだから。むしろ今迷惑掛けてるのは俺の方だし、ね?」
必死な姿を見せれば、そっと細まる瞳に柔らかい含み笑いが漏れる。口元を覆う白く細い指に鮮やかなピンクのグラデーションを纏う爪。
「迷惑ではないですよ。…まだ練習始めたばかりですし、そもそも上手くないので大した演奏は出来ないですけど、それでも良ければどうぞ。」
そっと近くに寄る。まだ東の空は薄く色づく程度で橋下は随分と暗いが、楽譜が何処にも無いので覚えているのだろう。緩やかに始まった演奏会は先程の発言通りまだ弾き慣れていないのか、所々で詰まったり音が外れるものの、不思議と授業の時より惹き込まれた。穏やかな旋律に、少しの物悲しさを含んだ豊かな感情が鮮やかに染まる。
バイオリンを添えるまろやかな肌に伏せた瞼を縁取る睫毛の長い影。次第に上がる輝度に人々が動き出す時間が近づくのをただひたすらに勿体ないと、そう思った。
「(すごい見てくるなぁ…)」
声をかける前からずっと見られている。目を閉じて演奏に集中していても刺さる視線の強さに何度指をしくじらせたことか。
同じ学校の同じ学年の有名人。彼はきっと気づいてないがこちらは彼を知っている。関わることも無く学生生活を終えるだろうと思っていたが、意外なこともあるものだ。騒がしい印象しかなかったが、案外クラシックを嗜む趣味でもあるのだろうか。これも意外なことだ。
瞼の血管が浮かびだした暗闇を開け、網膜を刺激する水面の反射から視線を逸らせば再び目が合う。最後に見た姿は随分と息が上がっていたが、今は穏やかに呼吸をしている。静かにしていれば精悍な顔立ちから感じる大人びた雰囲気と、初めて近くで見た柔和な薄紫に彼の本質を見た気がした。
「……。拙かったでしょ?」
「全然…って言ったら嘘になるけど、でも初めて聴き惚れた。俺、君の演奏ならずっと聴けるかも。」
「わお…。」
女の子たちがよく騒いでるのはこの言動が原因か。口説くようなのニュアンスに気づいたのか、僅かに火照らせ、出会ってからついに逸らされた視線に弄らしさが垣間見える。
「朝の運動の暇つぶし程度にはなれたようで?でも、やっぱりもっと弾けたら格好がつきましたね。」
「いつもここで演奏してるの?」
「いえ、片手で数えられる程度ですね。暗く人目につかないので、家族に心配させちゃいますし。」
「俺が悪い人なら終わってたね。」
「近づいてきた時の動きはだいぶ不審者寄りでしたよ。」
「……怖がらせてごめんなさい。」
垂れた頭に思わず息が零れた。パワフルさとは裏腹に人見知りな一面があるようだ。許しを乞うような瞳に丁寧に笑みを返す。
「もしかして、おちょくってる?」
「さぁ?」
すこし眉間に皺がよる。感情が全て表情に出ているのはパフォーマンスだろうか。
「でもまぁ、驚かせたのは本当に悪かったと思うよ。」
「話しかけられたのもそうですけど、聴きたいって言われたことの方が驚きましたけどね。」
「そうなの?」
「ほらこんな派手な見た目してるでしょ。大体の人はまずこれに怖気付くので。あとバイオリンとかって少しお高くとまってるイメージないです?」
自慢のバナナヘアを摘めば視線がそちらに寄り、弦を振れば顔ごと僅かに動く。おもちゃを目の前にした犬の如き反応だ。
「確かに。周りもギターばっかで、バイオリンは初めてだ。」
「じゃあこれが初めて聴く生演奏?」
「!!そうだね!やっぱり今日は運がいい!」
「やっぱり?」
「何となく運がいい日って分かるじゃん。朝から今日がその日だなって。」
「いやそんな感覚ないけど。僕どちらかと言えば運悪い方ですし。」
「ふーん。今までの不幸は俺と出会うためだったんじゃない?」
「……それって素でやってるんですか?」
「ノッてきてよ!!恥ずかしくなるじゃん!!!」
恥ずかしいならやらなければいいのに。穏やかな一面も騒がしい一面もきっと全て素なのだろう。素直な感情表現に悪い気はしない。
「そうだ!ずっと気になってたんだけど歳近いよね…?敬語じゃなk、」
鳴り響く音が言葉を切らせる。こんなに朝早くだというのに掛かってくる通話は友人のものだろうか。交友関係の広さまでは知らないが、あれだけ学校で目立っていれば、ない話でもないだろう。きっとこの場限りの関係だろうが、会話を遮られたのを意外にも残念だと思った。
ウンザリした声音の通話を聞かないようにし、土手を見つめていれば犬と飼い主が走り去る。もう随分と太陽が登っているようだ。
「『忘れてないよ、朝食でしょ!すぐ帰るから!』…はぁ。ごめんいきなり、俺行かなきゃ。」
「大変そうですね、ではお気をつけて。」
「あ!待って、いつもどこで演奏してるの?迷惑じゃなきゃまた聴きたいなって…。」
「うーん。」
渋った答えに勘違いした目の前の彼は悲しげな表情を浮かべる。
オーケストラを退団し暫く経った今、久々に楽器を触ったのは本当に気まぐれだ。授業で久々に聞いた曲を弾きたくなった、ただそれだけ。満足感からしても次があるか定かではない。ただ次の機会を望んでくれたその好意は嬉しかった。
「……。ルカカネシロ。」
「ぇ、…え!!?」
「んふふ、先週の全体朝礼で表彰されてましたね。」
「わっ…は?もしかして同じ高校なの!?」
混乱の中に再び彼のスマホが騒ぎ立てる。驚き慌てふためく彼を後目に後片付けを始める。
「ほら、急いでるんでしょ。…運が良ければ会えると思いますよ。」
「〜、あーもう!絶対探すから!!今日はありがとう!!!」
実際探し出せるだろうか。忙しなく駆け出した姿を見送りながら、少し意地悪をした事を申し訳なく思った。名前も学年も伝えていない以上、見た目を頼りにするしかない。ただ学校では呪術で髪を短くし顔を隠すようにスタイリングして、大多数へ溶け込んでいる。この一時の交流で抱いた印象は好ましいが、運動を主としている者への苦手意識が消えた訳では無い。ましてや彼はそこそこ有名人だ。平穏な学生生活を失う可能性に怖気付いた。本当に見つけ出すほど興味を持ってくれていたら、その時はその気持ちに向き合おう。
「ルカ、お前の言っている人物は妄想ではないか?」
「違うよ!!妄想なわけないじゃん。」
「もう1回確認するよ?名前と学年不明の男子生徒。黒のセミロングウルフに赤メッシュと黄色のバナナヘア、インナーカラーは紫。ネイルはピンクのグラデーション。身長は僕くらいで、アニメみたいでかっこいい声。…合ってる?」
「そう!そうなんだけど、なんで居ないんだろ…。」
「マンモス校だからね。まだこの一週間で同学年すら全クラス見れてないし。とはいえこんな目立つ特徴の人物いないなんてある?」
「授業で聴いたこの曲を演奏してたし同学年と思うんだけどなぁ。」
「G線上のアリアはメジャーだ。あまり参考にはならんだろう。管弦楽部はないし、吹奏楽部に該当の人物がいなかったのは痛いな。」
スマホから件の曲を流しながら校内を散策する。アイクとヴォックスに休日の話をし、放課を費やして5日間探し続けているが成果は振るわない。
「名前くらいは聞いておくべきだったね。」
「だって呼び戻されて急いでたから…。それにすっごい美人だから、すぐ見つけられると思ったんだよ。。…また会いたいのに。」
淀みのないスムーズな演奏を続ける動画が恨みがましい。聴きたいのはこれではない。
「惚れたか。」
「違うよ!」
「本当か?音楽の授業はいつも寝て、美人で有名な先輩からの告白を断った男の発言としては疑わしいな。」
「だっ、だってよく知らない人だったから。」
「もうそこまでにしてあげなよ。昼放課終わるし今週はダメかもね。」
「うん…。」
「そう気落ちするな。購買で菓子を奢ってやろう。」
「プリングルス。」
「ないわ。」
くだらない会話をしながらも落ちた気分は早々には上がらない。音楽をしているならアイクに、そうでなくとも顔の広いヴォックスに聞けばすぐ見つかると思っていた。やはり迷惑だったのだろうか。あの日彼は最後まで掴みどころが無く、次の機会を望んだ時に言い淀んだ。こちらの素性を知っている事を最後まで開示しなかったのが、その証拠なのでは。あと数十分もすれば授業が始まるというのに人の多い購買を見渡すも、あの目立つ黄色はどこにもいない。諦めるべきだろうか。
「あの土壇場でヘッドショット決めるとは流石だな。」
「シュウの集中力舐めてもらっちゃ困るぜ。」
「お前が誇らしげにするのか…。それで、シュウは何がご所望だ?」
「んへへ。ん〜なんでもいいなぁ。あっ!えっと、あの新作のプリンでもいい?」
足を止めた。その特徴的な声はしっかり覚えている。プリンのある自動販売機の人だかりに、カラフルな髪が見当たらなくとも居るはずだ。
「ルカ?どうしたの。」
アイクくらいの背丈。その中に商品を指さすピンクのグラデーション。
「みつけた」
きっと間違いない。勘は当たる方なのだ。それに彼は運が悪いと言っていた。会いたくないと思っているならそれは叶わないだろう。誰かが反応する前に素早く背後に寄り、上げたその手を掴む。驚きに振り向いたアメジスト1粒と目が合う。綺麗な長髪が失われた事も、片目が隠し気味なのも勿体ないが、このスタイルも随分似合っている。
目立つ見た目を変えるなんて意地が悪い。あの日のわずかな会話でも感じたが、少し人を揶揄うのが好きなようだ。見開いた瞳に反射する自分の顔が勝ち誇った笑みを浮かべている。
「俺が奢るよ。お礼も兼ねて色々話そうか、シュウ?」