目潰し事変後の密会雲一つない明るい夜だった。満月がデカくて落ちてきそうだと思ったくらいだ。
件の鬼城を調べていたせいで用事を済ませにくるのが遅くなってしまった。
岩柱邸はほとんどの者が寝入っているのかしんと静まり返っている。
俺もさっさと自分の家に帰らねえと。
息を殺し、気配を隠しながら廊下を歩いていく。何故俺がこんな面倒なことをしなくちゃならねえ、と思いはするが、背に腹は変えられない。ここには俺が会っちゃいけない人間がいる。
愚図だし、大して勘も鋭くない男だ。俺がここにいることさえきっと知らずに今頃スヤスヤと寝ているだろう。
そう思いはするのに、前へと進む力が強くなる。
歩くたび歩くたび、奴の顔が浮かんだ。はっきりとこちらに顔を向けた姿を見るのはいつぶりだったろう。
大きな瞳を揺らして戸惑うような表情に、苛立ちが込み上げた。
どうしてそこにいるんだと声を張り上げたかった。
どれだけ突き放しても後ろを追いかけてこようとする。昔のような、覚束なさで。
「あ、あに…き……?」
「……!!? テメェ……」
いつのまに居たのか。もう縁側を降りて後は塀を飛び越えて出ていくだけだったから油断した? まさか、この俺がーー?
やはり寝ていたのか半襦袢姿で障子から顔だけを出してこちらを伺っている。
まるでおばけを怖がる子供のような仕草だが、俺が振り向いた途端顔を明るくさせて飛び出してきた。
「やっぱり兄貴だ! どうしたの? 悲鳴嶼さんに用事ーー?」
「だァからァ、俺に弟なんていねえっつってんだろうがよォ!」
あからさまに鬱陶しげな声を出して吠えた。
玄弥はわかりやすい。あれほど嬉しそうだったのに、俺が声を荒げるとすぐに悲しげな表情をして一度立ち止まる。
萎縮、とはまさにこの事だ。可哀想などとは微塵も思わなかった。
接近禁止命令が出ていて、しかもここは悲鳴嶼さんのシマだ。下手に関わってまた騒ぎになれば面倒くせぇ。
俺はこいつに何か声を掛けるでもなく、さっさと踵を返すと塀を登るため脚に力を入れ飛び上がった。
飛び上がったーーつもりだった。
何かに引っ張られると思えば、後ろから強い力で俺の裾を握っている手がある。
「んなにしてんだテメェコラ!!」
「い、行かないで! まだ話したいことがッ」
「俺はテメェと話すことなんかこれっぽっちもねぇんだよ! オラッ、退けッ」
少しも力を緩めることなく振り払ったつもりだった。しかししぶとい手はギュゥと裾を握ったまま離さない。
それどころか玄弥は振り解かれないようにと更に俺に身を寄せた。小さな口が「お願い」と言う。
「お願い、あに……じゃない、風柱様! 兄貴って言わないからもうちょっと居てください!」
「アァ?! なんで俺がテメェのお願い聞いてやらなきゃならねェんだよ! ふざけんな」
そうだ、ふざけんじゃねェ。テメェ、どうしてそんな眉を下げて今にも泣きそうな顔すんだ?! 男がして良い顔じゃァねェだろうが?! 子犬なんか、コラァ!
いつもキッチリと着込んだ隊服ではなく寝衣というのがまたよく効いた。
まだ子どもだ。そうと思っていたのに、揉めてはだけた成長過程の胸元が非常に目に毒で思わず目線を逸らす。
「風柱様……?」
「ァんだよ……」
「風柱様が怒るようなこと言わないんでちょっとだけ、世間話でも……ね? おはぎもありますから」
「グゥ……」
そういう発言が俺をイライライライラさせることに、こいつは一切気付かないんだろうか??
脳と下半身が同じ熱量でイラついてくるが、玄弥はそれに一つも気づく様子がなかった。どう見ても怖い顔になっている俺の腕を引っ張って縁側に座らせる。
そして内緒話でもするかのように耳許に口を寄せた。空気を微かに揺らすような小声が俺の鼓膜を撫でる。
「おはぎ、この時間に食べたら怒られるんです。こっそり取ってきますから、絶対に帰らないでくださいね。ほんとに帰ったらダメですよ!」
それだけ言うと玄弥はとたとたと廊下を走っていってしまった。
……アイツァ、あんなこと言って俺がホイホイ言うことを聞くとでも思ってんだろうか。
お気楽な頭だ。アイツの中では俺はいつまでも優しいオニイチャンなんだろうなぁ……。
廊下を走る後ろ姿を見送る。長くなった髪が走るたびぴょこぴょこと揺れて、まるで兎みてえだなァとどうでも良いことが頭をよぎった。
「風柱様、お待たせしました」
花でも舞ってんのかというくらい嬉しそうな声が頭上から降ってきた。
俺ェは……なァんだってオレェはよォ……!!!
なにを馬鹿みてぇに律儀に待ってしまったのか。自分の阿呆さに呆れて思わず片手で顔を覆ってしまう。
深いため息を吐く中、玄弥はいそいそと俺の隣に座り小さな皿にのせたおはぎをこちらに寄越した。
「にいさ、じゃない風柱様、箸や楊枝は入りますか?」
「……いや、いい……」
促されるままに皿を受け取ったが、よく見れば皿は一人前しかなかった。
「……テメェのは?」
「あ……いや、俺は……晩飯しっかり食ったので腹減ってないんです!」
「アァ? 晩飯くれェで腹一杯になるわけねェだろうが、育ち盛りが」
つっ返そうとしたが玄弥は困ったように首を振るだけで受け取る素振りは一向に見せない。
日中散々しごかれている体力を消耗している隊士がこれほどに少食ということがあるのか。
脳裏に「鬼を食った」という人生で1番耳に入れたくない言葉が過った。
鋭くチィッと舌打ちが出る。
やはりもう行ってしまおうかとすら思ったが、隣でいまだに眉をハの字に下げる男が「風柱様に食べてほしくて持ってきたので……」と殊勝なことをいうので、気が付いたら皿にちょこんと鎮座したおはぎを丸々口の中に放り込んでいた。
……玄弥は何が嬉しいのか、頬を綻ばせて笑っている。
「なに笑ってんだテメェ」
「い、いえ、風柱様はやっぱりおはぎがお好きなんだなと思って」
「別に特段好きじゃねェよ」
「またそんな」
隣でそんなににこにこして顔を見られりゃ居心地ご悪くて仕方がねぇ。
軽く額にデコピンすると「アデッ!」と玄弥は顔をしかめて両手で額を守った。
「な、なにするんですか!」
うっすらと目尻に涙が浮かんでいる。いい気味だ。
「テメェこそそんな穏やかに笑ってやがるけど、この間のこと忘れたわけじゃァねぇだろ?」
「こないだ?」
「お前の隣にいんのは本気で目を潰そうとしてきた男だぞ。それともお前にはアレが冗談に見えてたか?」
「あ……あれは」
冗談なんかにはとても……と消え入りそうな声を出す。俺はそれを見て笑った。笑えていたはずだ。
「そんな男に菓子を出したり、側でコロコロ笑ったりどういう神経してんだァ? マゾなんか?」
「ちっちが!!」
困った顔は盛大に赤くなった。見開いた目が信じられないと言わんばかりに俺を見る。
「あの時はッ、そりゃ確かに驚いたけど……。でも炭治郎が助けてくれたから」
「アァ?!! テメェなに他の男の名前出してやがんだコラァ」
「ヒェッ、な、なんで……」
身体を竦める玄弥にまたしても舌打ちを出た。なんでもクソもねえだろうが。
玄弥は俺の舌打ちをどう捉えたのか、悩むように手を頬に添えた。
「確かに俺がもっと強くなれば風柱様を怒らせたり、炭治郎や悲鳴嶼さん、他の奴らに心配をかけずに済むのかもしれねえ」
「アァ?」
「俺も兄……風柱様くらい力があれば……。体つきもどうしてこんなに違うんだろう。風柱様はこんなに筋肉もすごいのに」
玄弥は不思議そうに俺の腕を見ながらおもむろに触れてきた。こいつ、絶対いま兄貴と一緒にいるような気になってるだろ。
甘えやがって……振り払ってしまおうか。
玄弥の指が恐る恐る俺の腕を確かめるように触れていく。こんな風に触れ合うのもいつぶりか。
……いや。
俺は振り払って威嚇するのを思いとどまった。
違いを知れば鬼殺隊を諦めるかもしれねえしな。
「テメェと俺を比べんなよ。ほっせえ腕しやがって」
「は?!え!俺は確かに風柱様には遠く及ばないかもしれませんが細くありません!むしろ隊士の中ではガタイも良くて」
「いやお前は華奢だ」
「きゃっ華奢?!! ……ありえねえ!」
玄弥は口を尖らせて不服然りの顔をする。
「俺は悲鳴嶼さんの弟子なんすよ! こう見えてめちゃくちゃ鍛えてるんですから」
そう言って腕を出し、筋肉を見せるようにムキッとポーズをとった。
無垢な瞳が俺を見上げる。どうだ、と言わんばかりだ。
その行動の一部始終が本当に可愛らしいと思う。一切合切、出してはやらないが。
なあ玄弥。俺はお前が俺ほどに強くても、呼吸が使えても、鬼狩りに才があってお館様から認められた存在だったとしても、お前をここに来させねえつもりだったよ。
どうして死に急ぐ? そんな弱い力で。どうして幸せな世界に目を向けない。
俺がお前から不幸を全て取っ払ってるやるっていうのに。
「テメェはよ、早く鬼殺隊やめろォ」
「へ?」
きょとんとこちらを見上げる玄弥の二の腕を掴む。その行動が何故だか分からない、と不思議そうに目が揺れていた。
少しずつ、掴んでいる手に力を込める。
「い、いた……」
「テメェはよォ、脳みそがお花畑なんだ。いま、俺とお前以外誰も居ないんだぜ? 俺が何したって誰にもバレるわけがねェ。今度はテメェの目だけじゃなくて、腕も脚も引きちぎって無理やり鬼殺隊から除名させてやろうか?」
「あに……っなに言って……!!」
必死に腕を引いて逃げようとしているようだったが、どう足掻いても俺に叶うはずがねえ。次第に玄弥の瞳には涙が滲んできていた。
「ひどい、ひどいよ。なんでこんなことするんだよ……!」
「オラ、どうすんだよ。今はお前を助けてくれるオトモダチもいないぜ?」
泣け、泣け。泣いてしまえ。そうしてこんなことで泣く男が鬼狩りなんてできるはずがねえと現実を突きつけてやる。
目的のためなら手段を選ばねえ。そうしねえと大事なものを守れねえじゃねえか。
しかし俺の意図とはまるで違い、玄弥は涙こそ見せつつもキッと睨みつけるように俺を見た。
「風柱様がなんと言おうと、腕や脚を捥がれようとも俺は鬼殺隊を辞めるつもりはありません!」
「アァ?」
「這ってでも俺は戦いに参加します。俺だって守りてえものがあるんだ」
「テメエ……」
その守りてえもんっていうのは何なんだ。そんなもんのために自分の命を犠牲にする必要があるってのか。
自分の中の怒りがボワっと膨れた気がした。それをこいつも感じたのか、腕を取られるのを覚悟したのかもしれない。
先ほどの威勢はどこにやら今度はさめざめと下を向いた。縁側にぽたりぽたりと涙の跡が付いては消える。
「でも……目だけはやめてください。兄貴の……兄ちゃんの、顔が見れなくなるのは……嫌だ」
気がつけば俺は玄弥の腕から手を離していた。
不審げに顔を上げる玄弥の顔は涙と鼻水で綺麗なんてもんじゃなかったが、俺の中の熱を
下げるには十分だった。
ーーああ、負けは俺だったか。
俺は縁側から砂利に降り立った。
玄弥に背を向け、ザクザクと音を立てながら先へと進む。
「に、にいちゃ……?」
「興醒めだ。帰る」
「え、あ、えっと、ま、また会ってくれるよな?!」
俺の背を追いかけてくる声に、俺は一つも返すことができなかった。