若狭の佐伯物語 義鑑公と五十鈴姫 その③吉日に、佐伯惟治三女五十鈴姫が大友義鑑のもとへと嫁ぐ。
過不足なく揃えられた嫁入り道具のなかには椿の苗木が収められていて、これは五十鈴姫たっての望みだった。
佐伯で椿はよく咲いた。
「府内でも、きっと健気に咲きましょう」と、見慣れた生家の庭に目を細める五十鈴に、惟治が「無理だと思えばすぐに離縁してもらえ。始末は惟代がつけるでの」と声をかけた。
「なんでやる気を削ぐの! 父上は!」と五十鈴が目を吊り上げる。
「オマエは義鑑殿を知らんから、いっとくが儂も惟代も止めたからな!」
「そんなに酷い方とは思いません!」
「鈴、落ち着きなさい。嫁入りも戦と同じで、状況により時に損切りも必要なのだ」と惟代が諫めた。
「ふたりとも、離縁前提で送り出さないでください!」
「まぁ、鈴にその気がなくとも義鑑殿も飽きっぽいからのぅ」と惟治は首を傾けゴキリと鳴らした。
その夜。
惟治は惟代を相手に酒を飲んだ。
「いくらでも断りようのあった縁じゃ」と、珍しく湿っぽい。
「どうせ佐伯は娘を人質に取られたとでも言われるのだろう。佐伯と大友の歴史を思えば、大友が人質を取ろうとするのも無理はない。とはいえ、ここ数年は関係も落ち着き、鈴を差し出す必要などないというのに――」
長く続く惟治のぼやきを黙って聞いていた惟代は、惟治が話し終えるとぽつりと「こんな世の中ですから、なにが吉と出て凶とでるのかなど計り知れません」と言った。
「うん?」と惟治。
「平穏に見える一日が嵐の前夜ということもありましょう。案外、大友へ行くことが吉と出るやもしれません」
「だと良いが。なにせなぁ、相手が」
「義鑑殿とて鬼ではございますまい」
惟治はふぅとため息をつくと「酔うたわ」と言い残し、寝所へと引き上げた。父の足音が遠ざかるのを聞きながら(八重殿がいてよかった)と惟代は思った。惟治の愚痴を聞くのは惟代の役目だが、慰めるのは五十鈴の母、八重の役目であった。
(そういえば、八重殿が嫁いで来られたのも十五の御年だったか)
当時、惟代は六歳。宇目から嫁いで来た父の側室は生粋の山育ち。立花、茶の湯も裁縫も不得手ながら、身のこなしは滅法軽く、足も速ければ乗馬も得意と型破りで、いつしか惟代の武道の稽古に付き合うようになり、姉のような兄のような頼もしい存在であった。
「八重殿と父上の娘であれば、どこであろうと達者に生き延びられよう」と惟代は昔を懐かしみながら呟いた。
五十鈴は輿に乗り、佐伯から二日をかけて府内へと着いた。
大友館は10代当主大友親世の頃に築かれ、南北一町東西一町を謳うが、幾度の改修と増設を経て、実際にはそれよりも広やかである。
大門をくぐると南には庭園、北には館の警備を担う遠侍が控える大庭があり、先にある鎧門をくぐるとその先に主殿がある。主殿の南側にも庭が作られていた。
五十鈴は輿に乗ったまま大門をくぐった。事前に父より「館の大門から輿、馬に乗ったまま入れるのは、家臣では佐伯、志賀、田村、臼杵だけ」と聞いていた。
館の広さや、そこに働く人の多さ。輿から外を伺う五十鈴の目には何もかもが新鮮に映った。この館の主が、長らく文でしか知らぬ大友義鑑公だと思うと、不思議な気持ちになる。あの文字の美しさに、飾り気のない文面にどれほど惹かれてきたことか。
「かように広く、美しいところにお住まいなのですね」
義鑑公からの再度の申し入れに、父と兄はまたも難色を示した。
「佐伯から大友へ室になど入れば、世に人質と噂されよう」と父は言い、断るの断らないのと決断は長くかかり――。
五十鈴はずいぶんとヤキモキさせられた。
正直なところ、家のことなどそれほど考えてはいなかった。二年交わした文の相手である義鑑公に、一目会いたいと焦がれていた。
義鑑と惟代の間で幾度かやり取りがあり、ようやく五十鈴の府内行きが決まった。
渋面の父の横では常と変わらず朗らかな母八重が「府内でも、夜になったらお月様を見てね。同じお月様を母たちも見ていますから」とほほ笑んだ。
父の正室であり、五十鈴を躾けてくれた静寂はあれこれと心構えを説いた後に、忘れずに母八重から仏像を受け取るようにと念を押した。
「霊験あらたかな仏像じゃ。なかなか男子に恵まれなかったところ、あの仏像のご利益で惟代を授かることができた。八重殿もあの仏像に祈願し、五百亀が生まれた」と静寂から聞いて母に――、言ってない。
「あっ」と輿のなかから五十鈴が声をあげた時。
「五十鈴殿、着きましてございます」と声をかけられた。鎧門前に着いたようだ。輿を降りた五十鈴の口から最初に出た言葉は「しまった」である。
「いかがされました?」と従者が怪訝そうに五十鈴を見た。
(あー、静寂様の仏像! 絶対に持っていくように言われてたのに、母上からもらうの忘れてた)
まぁいいか。これで子宝に恵まれなかったら、すみません五十鈴のせいです。静寂様。
大友館に着いて最初に思い出すのが忘れ物だなんて、縁起悪うー。何事もなければ良いけれど、と五十鈴は鎧門をくぐりながら頭を振って髪を払った。
主殿からその様子を見ていた義鑑は、近づく五十鈴を見て息をのんだ。
夢の女が生きて、歩いていた。幼い日の記憶がまざまざと蘇り、目の前の現実と交差する。幼い義鑑に優しく微笑みかけ、柔らかな手を差し伸べたあの女が、あの時と変わらぬ姿かたちのまま義鑑のもとへと歩み寄る。
「名は」と思わず呟くと、傍に控えていた重臣が「佐伯惟治公が娘、五十鈴姫にございます」とバカ丁寧に答えた。
己の側室の名くらい覚えておるわ! と嚙みつく暇もなく、五十鈴が従者に伴われ館へと入って来るのが見えた。顔合わせの前に、義鑑も自室へ戻らねばならぬ。惚けてはおられぬ。
挨拶に来た五十鈴は、見れば見るほど記憶の女によく似ていた。
あの女は五十鈴の祖母にあたるのだから、それも道理なのだが、それにしても。まるで生き写しではないか。亡霊を見る思いだ。義鑑はまじまじと五十鈴を見つめた。
「義鑑様?」
挨拶を述べても言葉を返そうとしないのを不思議に思ったのか、五十鈴が呼びかけた。
義鑑は首を振った。逝ったはずのあの女が戻ってきたというのなら、それも良い。何としてでも、この騒がしい俗界に縛り付けてやる。
「疲れたであろう。少し休むとよい。あとで行く」
そう声をかけると五十鈴は深く頭を下げ、すっと立ち上がると微かな衣擦れの音とともに部屋を出て行った。
五十鈴は側室ゆえ、改まっての祝言などはない。義鑑との顔合わせの後は簾中(継室)への挨拶を済ませ、侍女の案内で屋敷の中を案内されて軽く食事をとると、旅の疲れを癒す暇もないままに、日は落ちて義鑑との初夜である。
今、五十鈴は自室で、義鑑の前に肌小袖姿で座っていた。
五十鈴に与えられた部屋は十分な広さがあり小奇麗で、何より畳が敷かれているのが有難かった。だが、居心地の悪さといったらない。
五十鈴は不安であった。
初めて顔を合わせた時から義鑑に愛想はなかった。
五十鈴にしてみればようやく会えた意中の相手だが、その表情から感情らしきものは読み取れなかった。顔色は青白く、機嫌が悪いのか眉間には深く皺が刻まれていた。挨拶をのべても言葉を返そうとはせず、脇息に肘をついたまま、じっと五十鈴を見つめていた。
義鑑は夜が更けて早々に五十鈴の部屋を訪れた。部屋の中ほどに寝具が整えられており、入ってくるなり義鑑はその上にどっかと腰を下ろした。
相変わらず不機嫌そうで、五十鈴はどうして良いのかわからない。寝具を前に、ただ膝を揃えて座り、俯いた。
チッと、舌打ちが聞こえ、五十鈴は驚いて顔を上げて義鑑を見た。
「なんじゃ」と義鑑。
「い、いえあの……、今、舌打ち……」
「あぁ、もう!」と義鑑は声を荒げ、五十鈴の腕を取ると自らの胸に抱き寄せた。その勢いに五十鈴は驚き、思わず身を固くした。
「なんじゃ、抱かれるのは嫌か?」
「い、いえ」と答える声が震える。
「なぜそう身構える? 声も震えておる」
「も、申し訳ございません」
「あぁ? 寝床で詫びの言葉なぞ聞きたくもないわ!」
その声の大きさに五十鈴は息をのんだ。これほど間近で怒鳴られたことなどない。抱き寄せられるままに義鑑の胸に頬を押し付けていたが、身がすくんでしまい動けない。
義鑑は、顔をひきつらせている五十鈴の顎をグイと指で持ち上げると、乾いた唇をその口に押しあて吸い上げた。
五十鈴は思わず顔を反らし、ケホッと咳をした。義鑑の眉間の皺がますます深くなる。
「少しはやる気を出さぬか」と言うなり、五十鈴の帯を解くと袂に手を差し入れて胸を撫でた。
「まったく、着物のひとつも自分で脱げんのか」
(あぁ、これ、自分で脱ぐの?)と五十鈴は目を閉じた。勝手がわからないままに怒られ続けるのが苦痛で、目を開けたらすべてが終わっていないものかと願う。乱暴に胸を弄る義鑑の掌は大きく、唇と同じように乾いており、そうして冷たかった。その手になされるがままに身を預けようとするのだが、疲労と緊張から気づけば体が震えていた。胸も、せめてもう少し優しく触られたい。これじゃあ、馬が土を蹴ってるみたいな触り方だもの。五十鈴は地べたではありませんって言えたらいいのに。
その心の声が聞こえたのか、義鑑は胸から手を放した。あ、終わったと五十鈴が気を抜いた瞬間、義鑑は五十鈴を寝具のうえに倒してその両足を掴んで開かせ、自分はその間に両膝をついて半身を起こした。
そうして左手を寝床につき、右手の指先で五十鈴の襞に触れてしばらく探っていたが、やがて深い溜息をついた。
「濡れぬ」
その言葉に、何と返せばよいのかわからない。
――静寂様。五十鈴は仰向けにされた蛙のような姿勢で、殿に溜息をつかれています。それも盛大に。武家の娘として、なんと答えれば良いのでしょう。
思わず鼻を啜る。
「なんじゃ、泣いておるのか。抱かれとうないのか」
「そんなことは!」と慌てて否定したが、初めてのこととはいえ、抱かれるのは思っていたよりも大変で今日でなくともよい。このまま無理に続けて濡れるとも思えない。
「そういえば、破瓜じゃのぅ」と義鑑。今、初めて気づいたようだ。
「はい。こればかりはお稽古するわけにもいかず、不慣れゆえ」
義鑑は黙り込んだ。
彼は今、かつて抱いた女たちを思い返していた。
まぐわいなど、どんな女でも出来るはずだと思い込んでいた。だが、こんなことになるとは。五十鈴は男を知らないのだろうが、それだけでこんな様になるものか?
今まで幾人も女を抱いたし、子も多く成した。
もっとも、側室であれ妾であれ、男を知る女ばかりを相手にしてきた。なぜか。男を知らぬ女の相手が面倒で、女の体を男に馴染ませるなど、どこかの暇な男たちの仕事だと思ったからだ。
正室と継室が男を知らずに嫁いできて、その相手をするのに面倒な思いをした経験からだ。だが、あれらを相手にした時、これほどまでに梃子摺っただろうか。覚えてはおらぬが、この義鑑を相手身を固くして拒んだのは、五十鈴くらいのものだろう。夢から抜け出たかのような、記憶の女と瓜二つの顔で拒むとは。何と残酷な。
「稽古、稽古か」と義鑑は低く笑った。
「あの」と、その様子に五十鈴は身を起こし、開けた肌小袖の前を合わせた。
「誰が終わりだと言った!」と義鑑が怒鳴る。
「いえ、あの」
「まるで終い支度だな。佐伯のお姫様は、義鑑ごときに抱かれる気にはならんと見える」
「そんなことは!」と慌てて否定する五十鈴の口を、義鑑は片手で塞いだ。
「うるさい。控えの者が何事かと思うであろう」
目を見開いた五十鈴の表情には怯えが浮かび、それは記憶の女の微笑からほど遠い。優しい手で義鑑を慰めるはずの女は、まるで逃げ出そうとでもしているかのようだ。
「稽古が必要なのか? ならば鑑連にでも抱かれるか?」
鑑連。戸次伯耆守鑑連(べっきほうきのかみあきつら)。義鑑の重臣で五十鈴の兄、惟代の朋友でもある。
『鑑連殿が力になろうと申し出てくれてな、ありがたい』と惟代が笑っていたことを五十鈴は思い出した。あぁ、兄さん。ここに兄さんがいてくれれば良いのに、そう思った途端、目に涙が浮かんだ。
「ほぅ? 鑑連のことを知っておるのか? おまえの目は実によく語るのぅ」
五十鈴は首を振ったが、義鑑は収まらない。五十鈴の襟を掴んで立ち上がらせると、部屋の襖を開けて五十鈴を追い出した。
夜気が冷たいなか、肌小袖姿のまま追い出された五十鈴は廊下で立ちすくんだ。
義鑑は入って来た時と同じように、寝具の上にどっかと腰を下ろした。
廊下に出されおろおろと立ち往生する五十鈴の気配が襖越しに伝わってくる。声をかけるでもなく、胡坐をかいたままひとり目を閉じた。
夢の女は現れたかと思えば義鑑を拒む。残酷、残酷。先ほど指で弄った五十鈴の股の襞、あれほど乾いた体など知らぬ。義鑑を受け入れ抱きとめるはずの穴も、あの様では小指すら拒むであろう。
(儂を受け入れぬのなら、なぜ現れた?)
惨い女だ。一人目は逝き、二人目は惟治に嫁ぎ、三人目はこの大友館に現れたかと思えば差し出した手を拒む。やっと巡りあえたのだから、この義鑑を優しく胸に抱き、その滑らかな唇で口づけて舌を絡めて昂らせ、この男根をその身に受け入れ、柔らかな襞で包み込むのではないのか。
あれほど身を固くされては取り付く島などない。胸も、それほど柔らかくはなかった。匂いはどうだったか。悪くはなかった。夢の女のように、良い匂いがした。そうだ、五十鈴は良い匂いがした。まだ微かにこの部屋に香る。義鑑は先ほどまで五十鈴の襞を探っていた指先を鼻に押し当てた。
どれほどそうしていただろう。開けた胸に冷えを感じて我に返った。
さきほどまで廊下にあったはずの五十鈴の気配が消えていた。
「まずい」
どれほど時間が経った? 五十鈴はどこへ行った?
まさか、本当に鑑連のところに行ってはいまいな。鑑連の役宅は館からほど近いが、だからといって夜分に女の足でなど行けるものではない。
だが、これまでに交わした文から知れるのは、五十鈴の、義鑑の言葉を疑いもしない素直な性分だ。鑑は立ち上がり、着ているものもろくに直さずに部屋を出た。
広い屋敷を、五十鈴を探して歩く。佐伯に帰ろうとしたか。それであれば大門を出ようとしたところで門番に止められるだろう。他に立ち寄りそうな場所は、あぁ、侍女たちが使う部屋があった。
そちらに足を運ぶと、案の定、灯りが零れていた。
勢いよく襖を開けると、義鑑を見た侍女たちが慌てて礼をした。
そのなかに、ぽつんと鈴が居た。肌小袖のまま追い出していたが、そのうえに布を羽織っていた。侍女の誰かが貸してやったようだ。
手の中には茶碗があった。
「す、すみません」と鈴が消え入るような声で詫びた。
「何を詫びている!」
「あ、あの。稽古」
「知るか! 戻るぞ!」
義鑑は五十鈴の手から茶碗を取り上げると侍女に渡し、そのまま五十鈴を連れその部屋を出た。
五十鈴の部屋へと戻りながら「なぜ、あそこにいた?」と聞く。
五十鈴は、途中つっかえながらも事の次第を話した。
与えられた室から追い出された後、最初は鑑連のもとへ行こうとしたが、廊下に控えていた侍女に引き留められた。
鈴の憔悴した表情から、おおよそのところを察したのであろう。
自分たちが控えに使っている部屋へ五十鈴を連れて行き、羽織るものを貸して白湯を飲ませてくれたのだという。
「できなくてすみません」と五十鈴は鼻を啜った。
「よい。稽古は儂がつける」と義鑑は答えた。