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    かみすき

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    かみすき

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    綾人千
    『私を思って』からほんのり続いている

    別名義で書いていたもの

    #綾人千
    ##綾人千

    私のものになって 以前のように「綾人くん」と呼んでほしい。そんな一世一代と称しても過言ではない願いは見事に躱され、満ちた沈黙には巡回するマシナリーの金属が擦れる音だけが響く。
     それに項垂れることすらできずに曖昧に笑って誤魔化すしかできない自分にほとほと呆れてしまう。泣いて縋りでもすれば彼女は仕方ない子ねと笑って頷いてくれたかもしれないが、綾人にはそれができなかった。
     プライドの問題ではない。もう甘え方など忘れてしまったのだ、千織がいなくなってしまったせいで。あの混沌から彼女を逃がしたのは自分自身であることは理解していても、綾人をただの人に戻して心を柔らかくしてくれる温もりが離れていってしまったことはどれだけ時間をかけても受け入れられなくて。誰にも何も言えぬまま、結局繕って装うことだけが得意になってしまった。
     綾人を呼んだあの声は、荒んだ気持ちを天からの祝福のように癒やし、代わりに空虚な心を呪うように蝕む。ずっとずっとその響きに縛られたまま、今日まで生きてきたのだ。
     綾人が黙り込んでから、街灯を二つ通り過ぎた頃。隣を歩いていた千織は、顔を歪めて「馬鹿ね」とだけ呟いた。懐かしい音だった。

    「せっかくなんだから『神里様』も『お兄様』もやめたら? 辛気臭いのよ、お祭りだっていうのに」

     千織の踵が強く地面を鳴らす。目の前に立ち塞がった姿に驚き、その拍子に綾人はようやく呼吸を取り戻せた気がした。深く吸い込んだ空気は水の気配に満ちて、水に慣れ親しんだ綾人の体に染み渡るような重たい匂いに意識が揺り戻される。
     どこまでもまっすぐ、見透かすような強い瞳。それに見つめられただけで、いらない構えがほろりと崩れて素直な自分が顔を出した。そう、そういう不思議な魅力を持つ人だった、千織は。
     たった今、綾人は情けない表情をしている自信がある。その証拠に千織は困ったように眉を下げていた。

    「……私の愚痴ならば、聞いていただけますか」
    「好きにしなさい」

     綾人をただの人に戻して甘やかすのは、この人しかいない。やはり「綾人くん」とは呼んでくれないことに胸が痛む感覚を覚えながら、それでもあの時に戻ったような気分で、並んで歩く温もりに必死に語った。昔も今も、それ以外に打ち明ける気にはなれなかった。
     行き詰まった書類の話に、社奉行の負担が大きすぎる任務、それから取るに足らない小さな悩みまで。守秘にほんのり踏み込んだ話にも何も言わずただ穏やかな相槌を差し込むだけだった千織も、つい先日綾人が頬を引き攣らせながら追い返した老いぼれの話題には眉を顰めて首を振った。

    「ああ……そういうの、どこの国にもいるのよね」

     そういうの。下衆た話題ばかりを繰り広げ、歪んだ笑顔を浮かべるそういうの。頭に行くはずの栄養が下半身に集まってしまった可哀想な生き物。
     千織も、対峙したことがあるのだろうか。あるだろう、今の立場まで上り詰めるうち、いろいろな人間との関わりは避けられるはずがない。どれだけの苦労があったかは計り知れないが、種類は別として、綾人はその重責には十分に心当たりがあった。
     その身に向けられたであろう汚い視線。綾人の知らないところで。どんな人に、どんなことを。どれだけ傷つけられたのか。

    「怖い顔しないで。昔のことだから」
    「昔。今はもうないのですね?」
    「そもそも君に怒る権利なんてないんじゃない」
    「……心配くらいさせてください」

     そう言われてしまうと、ただの他人だと線引されてしまうと弱かった。綾人はずっと千織しか見ていなかったというのに、彼女の方は違うのだろうか。ぴたりと足を止めた千織は、か細い反論を柔らかな笑みで受け止めた。

    「ここよ、私の家。送ってくれてありがとう」

     フォンテーヌらしい意匠を贅沢にあしらった建築。その片隅の控えめなドアを指した千織が取り出した鍵には、小さな花飾りが付いていた。青い大きな花弁に、寄り添う分厚い葉は光沢のある深い緑。彼女のデザインだろうかとそれを盗み見る。
     解錠する音。それは別れの音。今度はまたすぐに会えるとは分かっていても離れがたくて。小さなその背に女々しく縋りついてしまいたい。こんな寂しい気持ちになるのなら、大人しくホテルで見送っておけばよかったとさえ思う。
     ドアから覗いた真っ暗な空間を背に振り返った千織に綾人が告げることができたのは「おやすみなさい」の一言だけだった。
     意気地なし。そんな言葉がよぎるが、千織が二人の間に引いた線を改めて思い知らされた直後なら仕方ないと無理に納得させて。

    「あら、お茶でも飲んでいくかと思ったのに」

     だから、綾人の気持ちを揺するのはやめてほしかった。どうして。綾人を遠ざけようとしたのは千織の方にも関わらず。
     いつもそうだ。綾人の心にするりと入り込んできたはずの千織は、ただの知人だと言い張りその好意を縛りたがる綾人の手をすり抜ける。ずるい人。いっそ突き放してくれたならずっとずっと楽だった。

    「……女性がそんなことを言うものではないですよ。ましてこんな夜中になんて」
    「君……真面目なの、馬鹿なの」

     今ならまだ引き返せるはずだったのに。しかしそれを繋ぎ止めるような言葉に、視線に、積年の想いが苦しいほどに軋む。
     ずっと、千織の気持ちがわからなかったわけじゃない。どうしても綾人の立場を尊重したいらしい千織を想って気付かないふりをした。置かれた距離を黙って受け入れたのも、何年も恋心を忘れられずにいるのも、全部、変わらずその瞳の奥にある愛のせいだ。
     伸ばした手は、指先がかすかに震えている。応えるようにそっと細いそれが絡まった。触れたところが心臓にでもなってしまったかのようにどくどくと脈打つ。

    「あの子に先に一人で寝るように言い付けたの、知ってるわよ」

     挑発するように繋いだ手を引かれて、まだ迷いを見せる綾人の足元はぐらぐらと歪んでいくようだった。許されるのだろうか。今の自分は、ただの人なのだろうか。千織の隣に並んで無邪気に笑っていた、あの頃の。

    「ねえ」

     音もなく動いた唇。その形が、「綾人くん」と呼んだような気がして。綾人が遮った影の中でゆっくり瞬きをしたその身体を、きつく抱き締めるように暗闇に押し込んだ。
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