猫? ショートケーキ? 眩しい太陽が天辺を過ぎる頃。夕時に向けて活気を増す城下、表通りとは対照に、細道は落ちた影で静けさに包まれる。
地面を打つ水のびちびちとした音を辿るように角を曲がれば、綾人の求めていた姿はいつも通りそこにあった。
「また来たの」
石畳の目に入り込んだ砂利を蹴飛ばす音だけで、千織は手元から目を逸らさずにそう言う。綾人が名乗るよりずっと早く、顔を確認したわけでもないのに。
「こんにちは千織さん」
「本当、よく飽きないわね。奉行様って暇なのかしら」
濡れた布を巻き付けた重たい棒。それに揺らいだたすき掛けの背中を支え、ついでに千織の手にあったそれを竿掛けまで持ち上げる。
水通しした反物の陰干しは本来なら見習いの仕事で、すっかり技術を身に着けた今の千織が手を煩わす必要はないのだけれど、それでも彼女が引き受けている。
なぜなら毎日これくらいの時間には必ず綾人がやって来ると、それも千織を目当てにしていることを知っているから。呆れた、とため息をつきながらも、綾人を追い返すこともしなければ嫌だと言うこともしないし、こうして理由をつけて綾人を待っていてくれる。むしろ裏口に置かれた長椅子の半分を指し示し、自分もその反対側に静かに腰掛けるのだった。
「今日はお客さんを連れてきてくれたのね」
まだ着席する前だった綾人の足元に視線を寄越した千織が柔らかく微笑む。さらに細い指先は綾人の後ろを指した。当然そこには誰もいない、追いかけてきているかもしれない綾人の付き人だって大っぴらに姿を現すことはないはずで。
心当たりがないために浮かべた疑問符は、なぁん、と控えめな鳴き声に呼ばれてようやく散ることになる。
「おや、猫さんでしたか」
「君からいい匂いでもするのかしらね」
足元に擦り寄る小さな灰色。ゆらりと動く尻尾で綾人を叩きながら宝石のような瞳で見上げてくる。いつから綾人を追いかけてきたのか、少なくとも路地に入るまではいなかったように思うのだけれど。
「今日は『にゃんにゃんにゃんの日』だものね。ほら君、こっちに来なさい」
たった今まで綾人に媚びていたはずの猫は、地面の高さで手を振る千織に一瞬で鞍替えしたようだった。さらに甘ったるい、文字通りの猫なで声でその手に鼻先を埋める。目を細めた千織が「可愛いわね、君」と尖った猫耳を弾くと、灰色の毛玉は尻尾をしならせて反応した。
しかし綾人は猫の可愛さに和むどころか、今にも目を吊り上げて追い返してやりたい気分だ。
千織に〝君〟と呼ばれて甘やかされるのは綾人の特権だ(本当のところは以前のように〝綾人くん〟と呼んでほしいが)。なにより綾人が不満なのは、しなやかな尻尾のすぐ下になんともご立派なふぐりが鎮座していることだった。つまりこの猫は雄だ。
千織に甘え縋る背中に鋭い視線を投げかける。それは不意に綾人を一瞥したかと思えば、一瞬で興味を失ったようにまた千織に向き直る。
この。煽るような態度についに張り合うことを選んだ綾人は、身をかがめる千織の隣にわざとどかりと座り込んだ。長椅子を揺らし、雄猫を驚かせるように。思惑通り一歩飛び退いたそれはすぐに元通り千織の手に収まろうとしたが、綾人の睨みに気づくとついに逃げていった。
「あら、逃げちゃったじゃない」
「くれてやるものですか」
「なに、ケーキを? どうせ食べられないわよあの子は」
ようやく綾人に向いた千織の視線。これは綾人だけのものだ。知らぬ雄に譲る気などさらさらない。
そんな嫉妬に気づかない千織は、綾人の手に握られた袋を見て小さく笑う。醜い感情をわざわざ知らせる意味もないので勘違いは訂正しないことにした。
袋に印字された屋号のおかげで中身はお見通しらしい千織にそれを渡す。『ショートケーキの日』と銘打ったのぼり旗と、店員に促されて暦を見れば確かに〝いちご〟が上にのっている日だったことに気づいた話と共に。
「最近できたお店よね。結構並ぶはずだけど、君が買ったの?」
「ええ、お好きかと思いまして」
「まあ好きだけど……これ、君の分は?」
仰々しい箱にたったひとつだけ収められたショートケーキを見た千織が眉を顰める。
綾人は指摘されて初めて気付いたのだが、千織のことばかりを考えて自分の分はすっかり忘れていたらしい。しかし素直にそう言うのは格好がつかない気がして、今食べては夕飯が入らなくなるだとか適当に繕っておいた。
甘いものを前に緩んだ表情を盗み見る。綾人にはつんとした態度を見せる千織の柔らかい笑顔はそう見られるものではなくて、もちろん澄ました顔も好きなのだけれど、やはり笑った顔が一番に決まっているのだ。
可愛い。千織に対して抱いた感想は何とも薄っぺらく感じるが、綾人の心の底からの感情に違いなかった。自らの頬も緩んでいくのを感じる。
「はい、口開けて」
だからこそ、だらしない顔をしている自覚があったからこそ、突然こちらを振り向いた千織にこれ以上ないほどに動揺してしまうのだった。
好きな女性の表情に心奪われていた綾人と、そんな綾人の表情を確実に目撃しただろうに何も言わない千織、その間に差し出されるケーキの頂点を飾っていたクリームまみれのいちご。唇に押し付けられて半ば反射的に受け入れると、クリームの甘みで際立った強烈な酸っぱさが口の中に広がった。
軽くなったフォークを抜き去った千織は、そのままケーキをつつき、自らの口に運ぶ。綾人が口をつけたはずのそれが小さな唇にしっかり覆い隠されたところで、綾人はついに情けない悲鳴を漏らすのだった。
「なに」
「い、いえ……なんでも……」
千織の手で与えられたいちご、何の抵抗もなく当たり前に許された間接的な口づけ。目の前で起こった自体に理解が追いつくと、今度は嬉しさが爆発しそうだった。やはり緩み始める頬をそのままにケーキを食べる千織の横顔を眺める。
好きだ。そんな薄っぺらい言葉以外に今の綾人の気持ちを言い表す方法がない。だからそのままそっくり伝えるのだけれど、当の本人はなんでもないように受け流す。それもそのはず、綾人からの愛の言葉など千織は今さら聞き飽きているに違いなかった。
「うん、おいしいわね。また買ってきてくれる?」
「ええ! もちろんです」
「君の分もちゃんと用意するのよ」
「え……は、い」
「次は分けてあげないからね」
あわよくば二度目の〝半分こ〟への期待は打ち砕かれてしまったが、さりげなく約束された次回に綾人は舞い上がり、千織に近寄った雄猫への嫉妬などすっかり忘れていた。
綾人に釘を刺す可愛らしい唇の端にはクリームがついている。やんわりと指摘すればなぜかじっと睨まれて、恥ずかしくないようにと言い方には気を遣ったはずが、最後には拗ねたような千織に「……君って本当に馬鹿」と突然罵られてしまうのだった。