祈らないものたち 七月六日、もうじき日を跨ごうとする新月の夜。
きぃ、かたりと、ロッジの扉が静かに閉まる。他人と暮らす中でこんな小さな生活音は極めて些細なものだった。眠りを揺り起こすこともないこの音を、もうひとつの足音がひたひたと後を追った。
ロッジを出てじゃりじゃりとしばらく地面を踏み鳴らした後、こつこつとコンクリートを蹴る。しばらくするとしゃくしゃくと砂が足にまとわりつき、湿った風が焦燥感を撫でた。目的の相手はというと砂浜にひざ掛けを敷いて座り込み、ぼうっと遠く海原に視線を向けていた。紫色の髪は夜半の海に同化し、膝を折る姿は怪人というよりもむしろ波打ち際で黄昏る人魚のように思われた。
「マヨイさん! 」
突然の呼びかけ声とスマートフォンのライトにひっと悲鳴が上がる。声の主に振り返れば、新月の夜でもそのきらめきがわかる薄緑色の髪がゆらりと彼のそばに寄った。
「たたた、巽さん? 」
「こんな夜中にどうかされたのですか」
「い、いえ……起こしてしまいすみませぇん……」
巽はじいっとマヨイを見つめ、意識がはっきりしているのを確かめるとほっと息をつく。
「こちらこそ驚かせてしまいすみませんでした。眠れないのでしょうか? 」
「ええと そうですねぇ……少し、夜風に当たりたくて」
元よりひとりを好む彼が夜な夜な姿を消すこと自体何も珍しいことではなく、巽にもそれは理解できる。慣れない土地とはいえ、誰しも散歩ぐらいはするものだ。行動を制限する筋合いもないのだが、目の前にいる恋人を置いてはいけない事情があった。
この海辺の町で七夕まつりが行われるということで、観光プロモーションビデオの撮影をしにやってきた。リアス式海岸が織りなす内海の光景が美しく、仕事内容も四人で過ごしたプライベートな時間も極めて充実したものだった。しかし、町を訪れて数日経った今朝の出来事が巽の心に引っかかっていた。すっかり平静に戻ってはいるものの、うつろな表情で海に呼ばれるようなマヨイの様子は、巽の心を脅かすには十分すぎたのだ。
そうですか、と口を開くもののその場を動く気配がない巽を見て、その胸中を察したのだろうか。マヨイは視線をさまよわせたが、だからこそ一旦言葉を飲み声を震わせる。
「あのう、よろしければお隣、いかがでしょうか」
マヨイが身体を端に寄せると、巽はあからさまに安堵した様子で礼を言い隣に腰を下ろす。柔らかい布地と砂地のおかげか、座り心地は案外いいものだ。二人分の影がもぞりと動くと、しばらくは波音だけが暗がりを支配した。
狭いスペースで自然と互いの肩が触れ合う。それにしたってあたたかいのは、いつにも増して巽が身を寄せるからだ。七月の夜半、セミが鳴き始めるころ合いとはいえ時折吹いてくる深夜の風は冷たい。マヨイも巽に体重を預ける。隙間のなくなった二人は、互いの体温を、心音を、呼吸を分かち合う。
会話ひとつなく、波音に聴覚がもまれるとどこか現実味を失いそうになるというのに、巽はただじっと隣の存在を確かめながら波打ち際を見つめている。巽の様子を伺うように、マヨイはおずおずと口を開いた。
「今朝の記憶が曖昧で。私……よっぽどおかしかったでしょうか」
「…………そうですね、気が気ではありませんでした」
巽は一度視線を落とし、取り繕うように笑った。その声は極端に穏やかで、同時に感情をひた隠しているのだとわかる。マヨイは口をつぐみ足裏で砂地を擦る。
しばらく沈黙を保つも、か細い指を恐る恐る巽の膝に伸ばす。避けられることはなかったものの、びくりと膝が跳ねる様子からもその脚に何かがあったことは明らかで、それはマヨイを激しく動揺させた。記憶にないとはいえ、自分の犯した何かが彼にひどい心労を与えたことは火を見るよりも明らかで、今もひとり出歩く自分のせいで彼は睡眠時間を削ってこの場にいるのだ。心臓がぎゅっと掴まれるような心地に大きく首を振る。
私の愚かな行動のせいで、あなたは。
「た、巽さんに、無駄な心配をおかけして……っ脚まで痛めさせて…… すみませぇん……!! 」
声を詰まらせれば、ぼろぼろと大粒の涙があふれだす。歪んだ視界の向こうにいる巽の表情を直視できない。あぁ、そもそも迷惑をかけた自分が彼の身体に触れるなど烏滸がましいにもほどがある。真っ青になってすかさず手を離せば、その途端に巽の手が引き戻し意思を込めたように固く握られる。
「マヨイさんへの気持ちに無駄なものなどひとつもありませんよ」
衝動的に見えた行動とは裏腹に、言葉は勢いで飛び出たものではなく常に抱く本心だ。掴んだマヨイの手を取り直し自身の手のひらを重ねる。狼狽え、なおも涙が伝う薄青色の瞳を紫色の瞳が逃さまいと言わんばかりに捕えた。静かに並んでいた影が、離れようとびくつく隣の影へ傾くと、巽の憂いを帯びた表情が声にならない悲痛な叫びを訴えかける。こんな表情をさせているのは自分のせいだというのに。だが、その心を抱きしめることができるのも同時に自分だけなのだ。今すぐにでも海に飲まれて消え去りたいと思う一方で、自分を愛おしく思ってくれる彼を──己にとってもかけがえのない存在である彼を──癒やす最善の行動が「逃げ」ではないことをとうに知っていた。
夏だというのに冷えた指先を重ね合わせると、次第に体温を分け合ってぬくもりを帯びる。巽は重ねられた手を見て、何度もその体温を確かめたのちにゆっくりと顔を上げる。
「俺の守りたいものが、こんなにも大切で……これほどに重たいものなのだと、改めて気づかされました」
月が姿を隠し、星々が最大級の輝きを見せる宵の口。暗がりに慣れたマヨイの目には、脆さをはらんだ、しかし一筋の堅い芯が通ったような巽の表情が映った。選ばれたわけでも取り繕われたわけでもない真に彼自身から生まれる言葉は、世界を一瞬無音にした。聴覚に、心に言葉が届くと、再び波音が戻ってくる。ひいては寄せるそれのように、ぶわりと顔に熱を帯びると再びマヨイの目には涙の洪水が押し寄せる。くしゃくしゃの目元を何度ぬぐっても、とめどなく雫があふれ出す。どんなに身体が縮こまろうとも、重ねられた、結ばれた手がほどけることはなかった。
あなたの言葉に何度も守られ、そして救われた。こんなにも幸福なことがあるでしょうか。私のような存在ですら、いいえ、きっと礼瀬マヨイだからこそこうも向き合ってくださるのでしょう。私とあなたではあまりにチグハグで、だとしてもこうも憧れ、恋慕う。己の存在を汚らわしいと思おうと、果ては地獄行きだと覚悟をしようと、互いにありのままが良い。怪人であろうと聖人であろうと、本質的にはきっと関係ないのでしょうね。
波に紛れた嗚咽が落ち着きようやくマヨイの目が自発的に巽をとらえる。静かに伝う涙を巽の指がすくえば、マヨイらしく不器用で、しかしたまらなく慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「心配をかけてすみません。ですが……またあなたが救ってくださったこと、本当に嬉しいです」
「あなたを救えるのならば、海の底で泡になったって構いませんよ」
「そ、それは嫌ですぅ! ……風の精になんてならないでくださいね」
「ふふ 人魚姫、ですな。マヨイさんの方が人魚の美しさにはふさわしいですが、まぁ……今日のように、海の底に奪わせはしませんよ、絶対に」
風早巽の言葉は平熱だというのに、礼瀬マヨイの心を焦がす。
息を飲み、巽の想いを心に抱き締める。とぷりと魚が宙を跳ねる音にほんの少し心が和らぎ、目を伏せて開口する。
「熱烈なお言葉ですね……。私には勿体ないほどです」
「おや マヨイさんだけへの気持ちですよ。受け取ってくださるまで何度でも伝えましょう」
「ヒィ 受け取っています、受け取っていますぅ! 私のつい出てしまう口癖というか、語尾のようなものなので気にしないでくださいぃい! 」
ずいと眼前に迫る巽を押し戻すと、ふたつの影が離れたと同時に海原へ一筋の光が伸びていく。「あ」とふたりして声を上げその筋を目で追っていけば、大きな流れ星が水平線へと落ちていった。口を開けたまま顔を見合わせ、先に目を輝かせたのはマヨイの方だ。
「た、巽さぁん! 流れ星! 流れ星ですぅ!! すごい、あんなに大きなお星さまを見たの初めてですぅ」
海を、空を、そして巽を何度も見ては、先ほどまでの感情すべてをお星さまが連れ去っていったように溢れんばかりの笑顔を見せる。
もう一度流れてこないだろうかと期待混じりに呟くマヨイの横顔を巽は目を細めて眺める。はた、と視線がぶつかると、マヨイはどうしてこちらを見ているのだろうと不思議そうに首をかしげた。
「ええと……」
「美しいですな」
「そ、そうですね? ……流れ星、美しかったですね? 」
「ふふ そうですな」
巽の視線から逃れるように顔を逸らせば、影が近づきマヨイの視界が暗くなる。ぴくりと指先が動いたが、しんとした空間で柔らかな感触と温度は享受される。慈しむような行為は、数秒互いの呼吸を止めさせ、再び視界が開けるとその気がなかったマヨイの方が、目元に熱を帯びていた。
「ええと……今は……」
「俺もこれ以上求めるつもりはありません」
「あ、そ、そうですよねぇ」
「『今は』ね」
その言葉にマヨイは目を丸くし、あ、えっと、と口をぱくぱくさせる。見つめ合うのも束の間、再び光が横切り、その数はどんどんと増えていった。
「え? ま、また流れ星ですか? 」
「流星群……にしては時期が異なりますな。ふふ 不思議なご縁ですな♪ 」
「本当ですねぇ。あの、一彩さんと藍良さんもご覧になりたいのではないでしょうか」
「そうですね。声をかけて起きて来れそうでしたらぜひみんなで天体観測をしましょう」
「はぃい♪ これもALKALOIDの素敵な思い出になりそうですぅ」
ふたりは腰を上げ、星降る水平線を一度眺める。少しの間ののち、互いに手を繋ぎ直し大切な仲間のもとへと駆けて行った。
海原は、満天の星をたっぷりと吸い込んで深い紺に生まれ変わる。星が疾る先、天の川が溶け込んだ先で、きっと明日も朝日が生まれる。
(これから先の人生も、隣にいるあなたのことが大好きです)
流れ星へは祈らない。同じ想いで光の元へと駆けるから。