焼きたての味はあなたとの特別 風がカーテンを揺らし、かさりとアルバムを捲る。何度も開かれたであろうページは幾分か日に焼け、青春が遠く過ぎたものだと語るようだった。部屋に一人分の足音が響くと、厚い表紙がぱたりと閉じられる。ターコイズのレザークロスにあしらわれた四つのスートを細い指先がするりと踊る。
「マヨイさん……っと、すみません。窓を閉め忘れたようで」
エプロン姿の男は、甘い匂いを纏わせてマヨイの細腰を一度抱くと、悪戯げにカーテンを揺らす風を遮る。「巽さん」と名前を呼んだきり静まる部屋で、なおも慈愛に満ちた表情でアルバムに目を落とす彼の指をそっと絡めた。
「懐かしいですな。フランスへ行った時のものですね」
巽が優しく目を細めるとマヨイはこくりと頷く。せっかくですから復習しておこうかと思って、と控えめな言葉が返された。
「今度も四人で。ふふ 新婚旅行というよりも、家族旅行ですな」
嫌でしたか?
いいえ、ちっとも。
お二人は「二人きりで行っておいで」と言ってくれましたが、せっかくならまた四人で訪れたくて。
向こうで二人きりの時間も予定していますから、俺にとっては十分です。
甘い匂いと影が重なり合うと、再びくすくすと笑い声が織り合う。
「あぁ、パウンドケーキが焼けたので呼びに来たんです。せっかくですから、二人で焼き立てを頂きましょう」
マヨイの頬に左手が添えられる。カーテンの隙間から覗く日光が、視界の端で銀の煌めきを反射させた。
「ありがとうございます」
再び視界が暗くなり、味見をしたのだろうシトロンの香りが唇に移る。二、三度ついばむと、すでに大人になった彼らは引き際を弁えている。とはいえ名残惜しげに視線を交わすものだから、互いに罰が悪そうに眉を下げた。
「……」「……」沈黙が重なる。だがそれを楽しんでいる彼らがいる。最後にもう一度だけ唇を重ねると、何事もなかったかのように巽はマヨイの手を引いた。
「せっかくの二人だけの特権です。冷める前に頂きましょうね」
穏やかで無垢なその笑顔を真正面で見られる、自分だけの特別を受け止め、マヨイも巽にだけ向ける表情で再度言葉を返した。
「ええ 楽しみです」
白木の扉がぱたりと閉じられる。廊下に二人分の足音が響くと、始まったばかりのあまく穏やかな新生活をすりガラス越しの日光が優しく包んだ。