いつか見た君の隣で彼女はとても眩しかった。
何の躊躇もなくこのオレ様に手を伸ばす。
そこにはきっと、何故は存在しない。
優しく向けられた笑顔。
温かなその手に、
虫唾が走る。
カチャンと落としたフォークの音に我に帰る。
所謂ここは、小洒落たカフェのテラス席だ。
ゴーダッツ様の命により、レシピッピ捕獲の為に下見に来たこの異界。
選んだのはレシピッピが多く目撃されるおいしーなタウンだった。様々な食文化のメインストリートが出揃い、観光客も多く集まる華やかな街。
踏み出し見渡したその景色に不快感を隠す事なく、ナルシストルーは歩みを進める。いつものジャケットと仮面は目立つようなので一旦脱ぎ、髪はサイドに纏めて白のシャツに黒のズボン。足元には黒の靴。
どいつもこいつも楽しげに食事をするこの街。
会話を楽しみ、食材に舌鼓を打ち、活気に溢れたその街には、たくさんの妖精が見て取れた。
「…反吐が出る」
苛ついた感情にナルシストルーは目を伏せた。
食事は“栄養を補給する行為”でしかない。生きる為にただ必要なもの。そこに笑顔は不要の、ただの行為。
それでもぐぅと小さく鳴る腹に溜息を落とし、手近なカフェに入って適当に口に入るものを注文した。
足元にフォークが転がる。
ーー何もかもが面倒臭い。
このカフェでもあちこちを飛び回り、笑顔を見せる妖精たち。キラキラ輝くその姿に、雰囲気に。
全てを壊してしまいたくなる。
気怠い身体。
フォークを拾おうと座ったままナルシストルーは腕を伸ばす。
「落としましたよ」
凛とした声が聞こえて顔を上げると、膝を折りフォークを拾い上げる少女がいた。
カチューシャを付け緩いウェーブのかかった黒髪に、整った顔立ち、深い色をした青の瞳が真っ直ぐにナルシストルーを見ていた。
立ち上がり、そこに居た店員に声を掛ける彼女は、フォークを渡してから程なく新しいフォークに取り替えてもらう。
頭を下げて礼を伝える丁寧な所作が印象に残る。
コトン、とテーブルに置かれたのはナプキンに先を包まれた新しいフォーク。
「どうぞ」
言って笑顔を向ける。
一連の流れを自然な動線で動く彼女を、ぼんやり眺めているだけだったナルシストルーは、僅かに目を見開いた。
別に。
フォークがそれ程必要だった訳じゃない。
拾ってくれと。
交換してくれと。
オレ様が頼んだ訳じゃない。
何だか無性に苛ついた気分になった。
胸の中がモヤモヤする。
ナルシストルーが無言でフォークに目をやると、彼女は小さく会釈をしてそのまま去っていった。
ツカツカと小気味良い足音が遠ざかる。
何気なく彼女の背中を見れば、同世代の少女に手を振り、笑顔で椅子に座る。
何やら楽しそうに会話をして、食事をして。
胸の中に、何かがつかえたような。
ナルシストルーは立ち上がる。
「…馬鹿馬鹿しい」
ぐっと奥歯を噛んでその笑顔を睨む。
新品のフォークはナプキンに包まれたまま、ナルシストルーはカフェを出た。
一日中歩き回り、あちこちのレシピッピや街の様子を探る。歩き慣れない形状の街、自分たちの居る世界とは異なる文化。
技術開発者としてはまぁまぁ楽しめただろう。
ただこの街の食文化には苛立ちが隠せなかった。
単純に飲食店が多い事もあるだろう。
何が楽しいのか、皆が皆無意味にヘラヘラと笑っている。
ーー彼女も、笑っていた。
苛々する。
足取りも重く、立ち止まったナルシストルーの前を一匹のレシピッピが横切っていく。
パステルカラーの生クリームが何段か並び、アイスクリームを頭に乗せてバナナが2つ飾られていた。
ふわりふわりと浮いた妖精に目を向けて、立ち止まったのはフルーツパーラーKASAIと書かれた看板の前だった。
大きなガラス窓の入った2枚の扉から見えるのは、明るい店内。パフェや餡蜜などのフルーツの入った甘味を手に笑顔の溢れる空間だった。
ーー虫唾が走る。
食事は生きる為に必要な“栄養を補給する行為”。
こんな風に甘いだけのものをおやつとしての目的で食べたのはもういつの記憶だろう。
ナルシストルーはその手を伸ばす。
掌に触れれば握り潰してしまえそうな小さな妖精は、ふわりと浮いてナルシストルーの手から離れていった。
このレシピッピを一匹。
持ち帰るのも悪くないかもしれない。
今のオレ様の任務は、レシピッピ捕獲の為の異界の下見。
だが、どうせ捕獲して強奪するそれを、今一匹持ち帰った所で何の事はない。
むしろ生態を調べれば今後の役にも立つのでは?
ナルシストルーは一歩踏み出し、再び手を伸ばした。今度は、本気で捕まえにかかる。
ゆっくりと動くレシピッピに触れるのは簡単だった。
でも、触れたものには実態があるようでないのかもしれない、ほんのり温かい不思議な感覚がした。
ーー違う。
視覚では捉えられても、触れて握る事はおそらく出来ない。
「……へぇ」
知ってか知らずか、レシピッピはまたふわりとナルシストルーの手をすり抜けていった。
幻に触れようとしているような、そんな気分でレシピッピを見る。
「見えているのか…?その子が」
不意に背後から声が聞こえた。
聞き覚えのある、凛とした声。
「……………?!」
振り向くナルシストルーの目には、見覚えのある少女が映った。
カチューシャに、ウェーブのかかった黒髪。青の瞳が驚いた様子でナルシストルーを見ていた。
「……!あ、オマエさっきの……?!」
思わず声が出てしまった。
そんなナルシストルーを見て彼女も声を上げた。
「…あ!カフェで、お会いしましたね」
彼女はそんなナルシストルーに笑顔を向けた。
偶然ですね、と呟いて心底嬉しそうな顔をする。
ーー何がそんなに嬉しいのか。
「その子が、見えているんですか?」
言って彼女は視線を逸らしレシピッピを見て指差した。
ナルシストルーは息を呑む。
「お前も、見えているのか?」
彼女の視線を追ってナルシストルーもレシピッピを見た。彼女は静かに頷く。
「はい。見える人には初めて会いました」
彼女はそのレシピッピに手を伸ばした。
レシピッピも嬉しそうに微笑む様子が見て取れる。
「この子たちが何なのかはわかりませんが、見ているととても幸せな気分になる…」
彼女はレシピッピに優しく笑い掛けながら語る。
ナルシストルーはそんな彼女に目を細めた。小さく溜息を吐く。
幸せ?
こんなモノを見て?
ナルシストルーは彼女から目を逸らした。
奥歯をぎゅっと噛む。
ーー嗚呼、やっぱり苛々する。
そんなナルシストルーに気付く事もなく、彼女は腕を下ろし、青の瞳で彼を見た。
あ、と思い出したように声を上げる。
「ちょっと、待っててください」
レシピッピに向けた優しい笑顔のままで、ナルシストルーを追い越して行った。
オレ様を待たせるとは良い度胸だ…。
胸の中で毒付く。
小走りに掛けて行く小さな背中を見れば、彼女は真っ直ぐにフルーツパーラーの扉の中に入って行った。
レシピッピは彼女の後に着いていく。
しばらくしてすぐにまた扉が開き、ナルシストルーの元に掛けてきた。
「コレ。良かったらどうぞ」
ナルシストルーに向かって差し出されたその手には、ラッピングされた小さな袋が乗っていた。
「……コレは…?」
僅かに迷い、怪訝そうに眉間に皺を寄せる。けれど、ナルシストルーはその袋を何とはなしに受け取った。
「私は菓彩あまねです。そこの、フルーツパーラーKASAIは父の経営するお店で」
摘み上げて見れば、透明な袋の中には一口サイズのマカロンが2つ入っていた。ピンクと茶色のやや小ぶりな可愛らしい食べ物。
「来週発売の新商品です。今日試食で配ってる苺味のマカロン。おやつにおひとつどうぞ」
笑ってナルシストルーを見上げた彼女ーー菓彩あまねは、そのまま小さく会釈をした。その肩からはひょっこりとさっきのレシピッピが覗いている。
「良かったらまた、遊びに来て下さいね。この子も待ってると思います」
温かい笑顔で笑うあまね。
彼女の屈託の無いその笑顔は、とても眩しかった。
何の躊躇もなくこのオレ様に手を伸ばす。
ナルシストルーは受け取った袋を握りあまねを見た。
そこにはきっと、何故は存在しない。
優しく向けられた笑顔。
温かなその手に、
「 虫唾が走る 」
陽は傾き、まばらになって行くメインストリートをひとり歩く。
ポケットに入れたままの小さな袋。
よく見れば、苺味のマカロンにチョコクリームの挟まったものと、チョコ味のマカロンに苺のクリームが挟まったものが対になってワンセット袋に入っている。一口サイズの本当に小さなマカロンだった。
菓彩あまね
かさい あまね
この世界では苗字と名前が存在すると、調査で判明している。おそらく彼女の名前は、あまねの方。
「 あまね 」
口の中で小さく呟く彼女の名前。
だから何だと言うんだ。
オレ様には関係のない話。
糖分は、疲労回復に効果があると言われている。おやつと言う言葉は、それ以外もそれ以上も意味はない。
有り難く受け取っておいてやる。
ポケットに触れた手にカサッと袋の音が耳に届く。
行き交う人々の笑顔に腹立たしさを覚えながら、またふわりと横切っていく妖精。
ピンクのたらこを頭に乗せたパスタ、人参とブロッコリーが添えられたハンバーグ、色とりどりの具材を乗せた丼たち。
何が楽しくて笑うんだろう。
この世界もどの世界も結局、こんな奴らばかりだ。
本当に苛々する。
そしてコレを生み出している当の本人たちは、この妖精が見えていないようだった。
ーー菓彩あまね。
アイツ以外には。
「…さて」
見上げた空は夕焼けのオレンジを飲み込んでいく。薄暗くなった夕闇が綺麗に街を染めていた。
明かりが灯るショーウィンドウ。
ナルシストルーはひとり顔を上げた。
向かった先はあの店。
ここにもまた明かりが灯り、昼間とは少し雰囲気が違って見えた。
店の隣の車止めポールに座り体を預ける。
電灯は少なく、店々の明かりが頼りだった。この車止めポールの先は木々に囲まれた小道になっているのか、表通りよりは幾分か暗く見える。
ポケットに入れた袋を出して、手付かずのそれをまじまじと見つめる。
『おやつにおひとつどうぞ』
『良かったらまた、遊びに来て下さい』
凛とした真っ直ぐな声。
整った綺麗な顔立ち。
深い色をした青の瞳が、ナルシストルーだけを見ていた。
ーー菓彩あまね。
レシピッピが見える稀な人間。
自分にだけ向けられたその笑顔に、
嫌な気はしなかった。
自分にだけ向けられたその笑顔が、
無性に苛立たしく思えた。
オレ様に見せたその笑顔を、
奪い取ってしまいたくなった。
ドアが開く音が聞こえた。
建物の側面にある階段を駆け降りて来る軽快な足音が聞こえて。
振り向くと黒髪の少女が居た。
ナルシストルーを視界に捉えて、階段の途中で立ち止まる。
「…あ。さっきの……?」
青の瞳が大きく見開かれ驚き、僅かにふわりと微笑んだ。再び足音を鳴らして階段を降り、ナルシストルーの元まで駆け寄る。
そんな彼女に、今度はこちらから声を掛ける。
「こんばんは」
微かに口の端を持ち上げて告げれば、あまねも笑顔でそれに応えた。
「こんばんは」
あまねは小さく頭を下げる。
育ちの良さが伺えた。
「どうしたんですか?こんな時間に」
笑顔のままのあまねはナルシストルーを見た。
「あの子に会いに来て下さったんですか?今はお店にいると思いますよ」
あまねは少し身長差があるナルシストルーを見上げる形で首を傾げる。
「あ。何かご入用でしたか?」
お店はまだ空いてますよ、と笑う。
屈託なく、ナルシストルーに向けられる笑顔。
ナルシストルーに対して警戒心の全く無い笑顔だった。
きっと何も、疑っていないであろう純粋で綺麗な彼女の笑顔に。
思わず手を伸ばした。
柔らかな温かいその頬に触れて。
「 虫唾が走る 」
「…………?」
一瞬緊張して強張った彼女の身体。
大きく目を見開いて青の瞳を揺らしていた。
彼女は一歩後ろに下がり、眉根を顰める。
「 菓彩あまね 」
ナルシストルーは口元を歪めてあまねを見た。
仮面を付けて、ジャケットを羽織る。手には白の手袋。
「お前を迎えに来てやった」
間合いを詰めて一歩を踏み出せば、あまねはそんなナルシストルーを見て、一歩足を引き距離を保つ。
不安そうな顔をしている割には冷静に立ち振る舞う。
案外簡単には捕まえられないかもしれない。
だがそれもまた一興。
「何を言って…?」
「レシピッピの捕獲の為に、妖精を見る事が出来る、お前の力が欲しい」
片手を胸元へ置き、もう片手をあまねに向ける。
「ゴーダッツ様の元へ案内する」
ナルシストルーを見るその顔に、もう温かな笑顔はない。あまねは向けられたその手を叩く。
「……よく分からないが。あの子たちに何かしようというのなら、着いて行くつもりはない」
嫌悪の表情が見て取れる。
そんな彼女に、はぁとワザとらしく溜息を吐いて見せた。
「君に拒否権はないんだよ」
言って再び伸ばされたナルシストルーの手を、あまねは片手で振り払う。
同時に片足を引き腕を構えると、瞬時に引いた方の片足が動いてナルシストルーの上段を狙う。
「…………っ」
考えるより先に首元に蹴りが入る。その寸前に、両手でガードしてギリギリで受け止めた。
「…へぇ。強いんだね、君」
ニヤリと笑って、体勢を低くする。
滑るように背後に回り込み、片足を引っ掛ければ、バランスを崩す彼女の片手は簡単に捉える事が出来た。もう片手も拘束すると、あまねは身動きも取れなくなる。
「でも、場数が違うんだよ。ついでに男女の力差もあるし、体格差もある」
肩口から顔を覗かせ、耳元で囁くように告げる。
ぎゅっと奥歯を噛み締めて、恐怖と苦痛が混じった綺麗な顔で、でもまだ睨み付けるようにナルシストルーを見た。
「……イイ顔。笑顔なんかより、ずっとイイ」
「…何で……?」
あまねは絞り出すように呟く。
何で?
その問いには首を傾げた。
「さぁ?ただオレ様が、そうしたいだけ」
握る腕に力が篭る。
苦痛に歪む顔に、ナルシストルーは笑顔を向けた。
「オレ様が、欲しいと思っただけ」
ーーただそれだけ。
ジャケットのポケットから薬の小瓶を取り出す。彼女の鼻先までそれを持って行くと、僅かな抵抗を見せて、すぐに身体の動きは止まった。あまねの身体は力なく崩れて行く。
ナルシストルーはそれを抱き止める。
ただ、欲しいと思っただけ。
その綺麗な笑顔を、奪いたいと。
固く閉じたあまねの目尻には、一雫の涙があった。
手袋でそれを静かに拭う。
そっと、その頬に唇を落とした。
新しい玩具。
お気に入りの操り人形。
その綺麗な笑顔を、手に入れたいと。
思っただけ。
End***