「ふわふわするなぁ」
「陛下……。ですから私の飲むペースに合わせる必要はないと申しましたのに」
「ん〜?ふふふ……」
昔の、島で暮らしていた時のような喋り方で、頭をこちらの肩に預けながら腕を絡ませころころと笑うアレインを横目に、倒して溢されでもしたら敵わんと、ジョセフは彼が手に持っているグラスをそっと取り上げて机に置いた。
アレインが成人を迎えて以降、仕事が早めに片付いた夜はこうして二人で同じ長椅子に座り、他愛のない話でもしながら酒を嗜むのが習慣となっていた。しかし解放軍の最前線で敵をなぎ倒し勝利に導いた覇王も酒には滅法弱いらしく、弱めの物でも二、三杯で顔が茹ってしまう。そのため普段はちびちびと口につけるのだが、最近は互いに忙しく約ひと月振りの一献であったからか、ジョセフに合わせてやたらと景気よく飲んでいた。一応ジョセフもアレインに合わせ、普段よりもペースをかなり緩めて飲んでいたのだが、それでも彼にとっては相当のものだったらしい。火照った頬に何気なく触れてみれば、ぴくりと肩が跳ねた。
「冷たくてきもちいいな」
そう言って寄せた掌へ仔猫のように頬擦りをされたものだから、愛おしさが溢れて思わず撫でると、酔っ払いらしくふにゃふにゃと聞き取れない単語を発し、強めに頭を擦り付けてきた。表情からして嬉しそうなのは分かるので、じんわりと温かい肌と紺碧のさらりとした髪を暫くの間撫で続ける。
「…………さて、今日はそろそろお開きにしましょう。寝台にお連れします。立てますか?」
本音を言えば夜が明けるまでこのままでいいとさえ思うのだが、明日もお互い仕事がある身である以上そういう訳にもいかない。名残惜しさを振り切り、アレインに声をかける。
「やだ」
即答。満面の笑みから打って変わり、むすりと不満げな顔をして、絡ませた腕の力を強めたアレインにため息をつく。
「いけません陛下、明日も政務があるでしょう。しっかり体を休ませなければ」
「まだ一緒にいたいのに……ジョセフは嫌なのか?」
「……それは」
「そばにいてくれるなら寝るけどなぁ」
「…………」
数秒思案したのち、宰相という立場上渋々といった表情を作って頷くと、ぱっと顔に喜色を浮かべられる。先程とは一転し、ぐいぐいと腕を引っ張り寝台へ連れ込もうとするアレインに身を任せ、ジョセフは立ち上がった。
────
勢いよく寝台に転がるアレインを見ながら、老騎士と成人を迎えた青年二人が余裕をもって収まりそうな広さに、流石は一国の王の寝床だな、という感想が頭の片隅で浮かぶ。
「ジョセフ」
少し端に動いたアレインが、空いたシーツの海をぽんぽんと叩くのを見て「失礼します」と一言入れてから寝台に片膝を乗せる。そのまま毛布をかけながらアレインの隣へ横になると、そそくさとこちらへ身を寄せにきた。
「……暑くありませんか?」
「全然。もっと近くてもいいぐらいだ」
言うが早いか、腰を抱き寄せられたものだから思わず不躾な目線を送る。が、そんな視線を物ともせずにこにこと満足そうな笑みを浮かべられ、従者として説教する毒気も綺麗さっぱり抜けてしまった。
アレインは元解放軍の仲間と飲みに行くことがあるが、ここまで態度が変わるという噂は流れてこない。こうして王としての在り方を全て取り払い、子供のように甘えてくるのはジョセフの前でだけなのだろう。そう思うとどんな我儘でも許してしまいたくなってしまうのは、相当重症だなと内心ため息をつく。
「嬉しいなぁ、一緒に寝られるの。島に来てから一年ちょっとはこうしていたけど、憶えているか?」
「無論です」
パレヴィア島に逃げ落ちたばかりの頃、幼いアレインに悪夢を見て眠れないと相談されてから、同じ寝台に入り──時折子守唄や読み聞かせをして──眠るのが習慣になった。それから一年程経った辺りで、悪夢も見なくなってもう一人でも眠れるから安心してくれと言われてその習慣は終わった。
当時の本音を言えば、少しだけ、寂しかった。いや、アレインを苦しめる靄が晴れたのは心から嬉しい。しかし、自分がいなくともアレイン一人でできることが増える度に従者として安堵すると同時に、もう少し頼ってくれてもいいのにという、心の内に秘めた養父としての思いがよぎってしまうことも少なからずあった。
「あれ、今だから言えるけど……本当はもっと一緒に寝たかったよ」
思わずアレインの顔をまじまじと見ると、そこには叱られる直前のような、迷子になった子供のような、申し訳なさの混じった苦笑が浮かべられている。
「……それならそうと仰ってくだされば、私はいつでも……」
「貴方は断らないと分かっていたから嫌だったんだ。俺から頼んでしまえば、内心がどうであろうと従者として受け入れるだろうから、困らせたくなかったんだ。……そう思うと今の俺ってすごくわがままだよな。ごめん」
「いいえ。…………いいえ、アレイン」
アレインの、養子の瞳が見開かれる。腕の中でもせめて従者としての距離を保とうと少しのけ反らせていた体を近付け、安心させるように背中をさすった。
「配慮してくださる貴方の優しさも美点ですが……、私は、貴方がこうして遠慮なく本心を打ち明けてくださる今の関係を、何より心地よく思っております」
「……本当?……そっか、嬉しいな……」
熱を帯びた肌の赤みが増し、眩しいものを見るかのように目を細めてアレインは微笑み、腰を抱いていた腕を肩へと回した。
「それじゃあさ、もっとわがまま言ってもいい?」
「ええ、勿論です」
「……俺はさ。明日も明後日も、十年後も二十年も……いや、それよりももっとずっと、宰相として、父親として貴方が隣にいてほしい。俺の進む道を共に歩んでほしいんだ。……この願いを貴方が肯定してくれたら、これ以上の幸福はない」
「…………それは……」
そんなの見たいに決まっている。アレインがコルニアを導く王となる姿を夢見て、島で育て続けたのだ。自分と共に歩むことを望んでくれるのなら、彼が王としての役目を退くその時まで見届けたい。
それでも、肯定の一言が喉に詰まったまま動けないでいる。こちらは既に老いさらばえた身で、あと何年生きていられるかも分からない。そんな人間が未来の話を約束していいのか、誓いを違えてしまうのならば最初から期待させない方が彼の為になるのではという思いが頭を巡る。
固まったままのジョセフを見てある程度考えていることを理解したらしく、ふ、と声に出して養子は苦笑した。
「別に、一角獣の指輪に誓えとまでは言っていないんだ。そこまで重く捉えなくても、……ただ、頷いてくれるだけでいいんだ、だからジョセフ……」
一瞬、呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃が全身に駆け巡る。
未来に絶対は存在しないことなど、とっくに分かっているのだ。十年前に突然なにもかもをゼノイラに奪われたアレインが、誰よりも。
それでもいいと望んでいる。心が伴っていなくとも、共に生きると声にしてくれと願っている。
なんて慎ましく、寂しい願いなのだろう。真っ赤になるまで酔って何重にも縛りつけた理性を全て取り払い、その先にあった欲は、あまりにもちっぽけなものだった。そんなものを、一人で抱え込ませ続けてしまった。
嘘でいいと言っているのだから従えばいいと、頭の何処かで冷酷な声が聞こえる。アレインは酒に弱く、酔いすぎた後の記憶は毎回抜け落ちている。適当に流せばこの場は丸く収まるのだ。
しかし、それだけは絶対にしたくなかった。彼が打ち明けてくれた悩みは、昨日今日で生まれたものではない。例えこの場がなんとかなっても、この先アレインはこの苦しみを一人で抱えながら生きていこうとするのだろう。今この瞬間まで隠していたように。
「……申し訳ありません。やはり私は、無責任に頷くことはできません」
アレインは反論しようとしたものの何も言わぬまま口を噤み、叱られた子供のように項垂れる。
「ですが、これだけは言えます」
その頭を撫でれば、アレインは再び視線をこちらに移した。
「どれだけ生きれるか、という問いにはお答えできませんが、私も貴方が歩まれる道を共に歩みたいと心から願っております。その時間が一日でも、一秒でも長くなるよう最善を尽くすことを契約を交わした一対の指輪に、そしてたった一人の養子、アレインに誓います」
「…………あぁジョセフ、ジョセフ……!!」
回された腕に力がこもり、養子は養父の胸へ頭を押し付けた。今はもう表情を窺うことができないので確認するすべは断たれているが、抱きつかれる寸前、彼の目尻に光るものが見えた気がした。
「俺、こんなに幸せでいいのかな」
「大袈裟にございます」
「そんなことないよ。だっておれはずっと……ずっと…………」
少しずつ声が小さくなっていき、やがて胸元からすうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。安心と酔いで眠気が一気に襲ってきたのだろう。
机に置かれたままになった酒達の存在をふと思い出し、片付けようかと体を起こしかけたが、縋るように回された腕を見て明日の自分に任せようと思い直して再び横になる。
明日目が覚めたらまた、もう一度同じことを伝えよう。きっと酔いで忘れているから、何度でも、悩む事自体が馬鹿らしくなるほどに繰り返し、アレインの心の内に潜む影を取り除ける日まで。いや、彼の心が晴れてからも、この命の灯が消えるその瞬間まで、ずっと。
そう心に決めたジョセフは、養子を抱き返すように腕を伸ばしてから、目を瞑った。