隣を歩く伊春が、ご機嫌な鼻歌を溢している。
彼が最近気に入っている洋ロックの新譜は、見せてもらっても歌詞を理解することは出来なかったけれど、片耳だけ貸してくれた有線イヤホンで聞いた時よりも、このハスキーボイスで歌われる方が、心地よい旋律を奏でているような気がするなぁなどという、ちょっと失礼な感想が脳裏をよぎった。
「あの店、めちゃくちゃ美味かったなぁ、レノ」
「はい、また行きましょう。俺、今度は生姜焼き定食が食べたいです」
緊急怪獣警報を聞いて立川基地に戻ったレノたちは、自室に戻ることなく怪獣スーツを着込み、あの子どもたちやOBだと言っていた館長たちに格好良いと言ってもらえるような活躍をして見せようと気合十分で出動したものの、抱えたアサルトライフルを大して使うことなく片付いてしまった。
あまりにも呆気なかったことに何かを思ったのか、保科は「まだ休日は終わってへんよ」と言いながら、彼のおすすめ飲食店をいくつか紹介してくれたのだ。
せっかくなら……と、ハルイチや葵と相談した結果、お洒落なイタリアンに行くことにしたキコルたち女性陣とは別れて、男性陣四人で少し住宅街へ入り組んだところにある和定食屋に足を運ぶことを決める。
そして今、満たされた腹を撫でながら、自室へ続く廊下の窓から吹き込んでくる心地よい夜風の余韻を楽しんでいた。
「言うと思った。サバの味噌煮にするか生姜焼きにするか、最後まで悩んでたもんな」
ニヤリと笑った顔がこちらを見下ろし、釣りあがった目尻の瞳が薄く細められる。
いたずらを仕掛けたことが楽しくて隠せない子どものような表情に、何故か少しだけ色気のようなものを感じて、ドキリと心臓が跳ねた。
「っ……見てたんですか?」
「おう。すげぇ悩んでる顔も良いなって思ってた」
「や、めてください……!」
「別にいいだろ、恋人の顔じっくり見るくらい」
「……こ、恋……ッ」
隣から伸びてきた手が、レノの耳元の髪をさらりと撫でる。
レノに初めて出来た恋人は、別に照れることもなく、こういうことをさらりと言ってしまうし、迷うことも無く真っ直ぐに触れてくる。
学生時代から成績優秀で、誰にでも分け隔てなく話しかけることが出来る彼は、きっと過去に恋人もいて慣れているかもしれないが、自分は違うのだ。
当然のように肩や腕に触れられることも、頬に唇が触れてしまうのではないかと言うくらい近くまで顔を寄せられることも、いつの間にか伊春に慣らされてしまったが、元々レノはパーソナルスペースが極端に狭いタイプである。
熱くなる頬は、夜風程度ではちっとも冷めてくれない。
思わず顔を反らすと、窓ガラスに映る伊春がやけに熱い瞳で見ていることに気付いてしまい、満たされている筈の腹の奥が何故か疼くような気がした。
「サービスしてくれた唐揚げも美味かったよな」
「そ、そうですね」
運ばれてきたトレイには、照りの綺麗なサバの味噌煮とは別に、拳くらいもある唐揚げが三つもついていた。
気さくな店員が、レノたちが防衛隊員であり、保科の紹介でこの店を訪れたことまでオーダーと共にキッチンへ話したらしく、葵のような肉体をした大将が満面の笑みで運んできてくれたのだ。
隣でかつ丼を頼んでいた伊春のところにも、向かい側に座るハルイチや葵のところにも、驚くくらい大きな塊が乗っており、特に伊春は爛々と瞳を輝かせていて、なんだか微笑ましく思えてしまった。
しかし、昔話に出てきそうな山盛りご飯を見たレノは、正直それどころでは無かった。
メニューに掲載されている写真の、二倍はあるだろう。
防衛隊に入り、食事量を増やさねばと食事トレーニングも心掛けているけれど、流石にこの量は入る気がしなかった。
かといって、厚意で用意してくれたものを残すのは忍びないし、残さず食べることを躾けてくれた祖母の教えも守りたい。
楽しみにしていた甘じょっぱい味噌の味と、じゅわりと湧き出る唐揚げの油に頬を綻ばせながらも、どうしたものかと考えていた時だった。
「レノ」
「?」
頬をリスのように膨らませた伊春が、自分のどんぶりを差し出してきた。
いつものように、味見を勧めてくれているのだろうか?
確かに、立派な厚みのカツは美味しそうだが、今のレノには楽しめる余裕がない。
「あー今日は、大丈夫です」
「……っ、そうじゃねぇって」
ごくんと飲み込んだ伊春が、少し行儀悪く箸を持ったままの手で、まだ山を作っている茶碗を指し示す。
「食い切らねぇんだろ。こっち寄越して良いよ」
「え」
まさか、バレていたなんて。
「……ありがとう、ございます」
「ん」
伊春は、ことある事につっかかっては勝負を持ち掛けてくるけれど、困っている時はそれをからかうことなく、こうしてサラッと手を差し伸べてくれるのだ。
こういうところが、ずるいなぁと思いつつも、好きだなぁとも思う。
幼い頃に両親と兄を失ってから、誰かに頼ることが苦手になってしまったレノは、モンスタースイーパー社にアルバイトとして入ってから、輪をかけて助けを求められなくなっていった。
年の離れた先輩たちばかりで、同じ仕事仲間だというのに、気を遣ってもらうことが悔しかった。
早く認められたい。ちゃんと役に立ちたい。
彼らがレノのことを想って求めていないと分かっていたからこそ、自分で何とかしなければと必死だった。
「あとは食べられます」
「おう」
大きな一口が、ぱくりと白米を頬張る。
なんてことないと言わんばかりの横顔が格好よく見えて、ちょっとだけ悔しい。
「お礼に、その小鉢食べてあげましょうか」
「……よく分かってんな」
差し出されたお浸しは、唯一伊春が苦手な野菜であるピーマンだ。
「伊春、好き嫌いしてると強くなれないぞ」
「別にピーマン食えなくても怪獣は倒せるだろ!」
「俺は好き嫌いが無い」
「くっ」
「はははっ」
葵に言いくるめられた様子を、ハルイチが小さく笑う。
こういう少し子どもっぽいところは可愛いなぁと思ったけれど、言葉にはせず、また一口運んでゆっくりと味わう。
久しぶりの外食は、とても楽しかった。
「オッサンも動けるようになってて良かったなぁ」
「え? あー……はい、そうですね」
何気なく替えられた話題に、ふと思考が現実に引き戻されて、大した感情も乗せられなかった空返事が口から零れる。
出動から戻ってきたレノと伊春は、夕食に向かう前にカフカの部屋を訪れ、保科から受け取った漢方薬を届けてやった。
まだ少し顔色は悪いように見えたが、自室で何かテキストを広げていたところを見ると、大分良くなっていたらしい。
しかし、保科からの預かり物だと言うと、せっかく色が戻ってきた顔をまた青くしながら慌てて紙袋を開いていた。
独特な漢方の臭いが、その場にいた三人の鼻を鋭く刺激し、盛大に噎せた伊春とレノは慌てて部屋を飛び出したのだった。
「あの薬、副隊長のオススメなだけあってめちゃくちゃ効きそうだけど、絶対飲みたくねぇよな」
「はい、心底そう思います」
「三十代って大変だなぁ」
「あれはただ先輩が食べ過ぎなだけでしょ。ちゃんと節度を守ればああはならないと思いますけど……胃もたれかぁ。俺、なったことないから分からないんですが、満腹で苦しいっていうのとは違うんですか?」
「俺もなったこと無い」
伊春もレノも、三十代はまだ干支一回りほど先のことだ。
「よし、どっちが胃もたれ経験するか勝負だな!」
「伊春くんの方が年上だから、俺が勝ちますよ」
「んだとぉ!」
はるか先の話のはずなのに、その頃もきっと隣には伊春が居てくれるだろうなと思った。
to be continued