釜の蓋海底での闘いを終えてからというもの、水晶公とは起床と就寝のあいさつを欠かさないようになった。お互いにとってそれがどれほど大きい意味を持つか、語らずともわかっていた。
今夜は、普段なら星見の間を出ている時刻になっても会話の切れ目が見つからず、気づけば歩きながら話し続けていた。居住館の管理人に声をかけて自室まで移動し、ドアの前で向かい合う。
「ずいぶん話し込んでしまったな」
「公は忙しいのに、申し訳ない」
「あなたより優先される仕事はないよ」
「光栄だなあ」
軽く吹き出してみせる。大丈夫。大丈夫。自然に振る舞えているはずだ。
くすくす笑う水晶公が、ゆっくりと私の手を取った。
「本当に、あなたが無事でよかった」
心の底からの喜びをたたえた微笑みだ。軽く握られた手は、穏やかな温度を保っている。
ひく、と喉を通る空気が震えた。瞳孔が開くのを感じる。もつれそうになる舌をねじ伏せて口を開いた。
「……こっちの、セリフだよ」
「それを言われては困ってしまうな……」
「はは、何回でも反省してもらわないと」
大丈夫。きっと、ただの苦笑になったはずだ。何もおかしくない。ほんの一瞬だけ逸らした視線も、すぐ戻した。表情をつくるのにもそろそろ慣れてきたんだ。
水晶公は、ゆっくりとまばたきをして、慈しむようにまた微笑む。
“いつもの自分“のように、なんでもないように手を握り返せばよかったと思ったのは、とっくに離れた後だった。
「もう夜も遅い。体を休めてくれ」
「うん、おやすみ。ラハ」
「ああ、おやすみ」
こちらを見つめる紅く優しい瞳に、熱は感じない。
足りないなどと思うはずがない。身に余るほどの深い愛と憧れを向けられていると知っている。
こちらの欲を押し付けて、彼の笑顔を曇らせるようなことは許されない。純然たる愛のみで応えなくてはならない。
頭をめちゃくちゃにかきむしりたくなる理由はわからないままにすべきだ。私は幸福なのだから。
言われたとおり、今日はもう眠ることにする。
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その顔を目にした時、分厚い蓋がひび割れ、沸騰した中身が噴き出すのを感じた。ひどく熱い。
そんな目で私を見るのか。他でもないあなたが。輝く光が。届かぬ星が。
長年煮詰められた感情は、とんでもない熱と粘度をもってこの身に降り掛かってきた。
この人が欲しい。どうしても手に入れたい。
だって、ずっと会いたかった。顔を見て話したかった。手に触れたかった。全て叶ったはずなのに、それだけでは足りない。だってこの人は何一つ嫌がらなかったじゃないか。
彼女はうまく誤魔化していたが、あなたの表情を私が見間違えるものか。年の功を舐めないでほしい。
そうだ、せっかく届く場所にあるのなら———今抱き寄せたら、おとなしく捕らわれてくれるだろうか?
いや、いけない。こんな熱を突然ぶつけてはならない。強引に近寄ると、どこかへ飛んでいってしまうかもしれない。旅人を捕まえる術はいつだって、自ら飛び込みたくなるあたたかさだ。
まぶたを閉じると同時に何もかもを抑え込み、ゆっくり開く。
おやすみ、といつものように微笑みかけると、わずかに揺れていた瞳が凛々しさを取り戻すのを感じた。
今はそれでいい。しかし、逃がすわけにはいかない。
どこまでも自由な人。少しずつにじり寄って、確実に仕留める。
持久戦は慣れたものだ、やってみせるさ。
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なんだか最近、朝晩は妙に落ち着かない。
原因はわかっている。彼の声に日に日に甘さが増しているのだ。
大丈夫、勘違いしてない。これは親愛だ。私たちは闘いを経て強い結び付きを得た。家族に向けるような優しさを、最上の愛をもらっている。それだけ。
少しでも恩を返すために、公の、ラハの願いを叶えることだけ考えなくては。
「あなたと一緒に冒険ができたこと、心から嬉しく思うよ」
「私も楽しかったし、嬉しかった。ずっと気になってたから」
「気になってた?」
「先発隊として、一緒に行けなかったこと」
ラハが息を呑む。彼にとってはずいぶん昔のことだろうに、覚えていてくれたのだろうか。
「それ、は……」
「ずっと着いてきたがってたのに、叶えてあげられなかった。多少無理してでも、私が守ればよかったと思っていたんだ」
「いや、オレに着いていく実力はなかったから、あんたを危険に晒すことになっていた。皆の判断は正しかったよ」
「……なんでも叶えてあげるのは、難しいんだな」
「叶えてくれたさ」
「そうかな」
「ああ、あなたはいつだって私の望みを掬いあげてくれる。諦めていたことも、全て」
喜色に満ちた声は酔いそうなほど甘い。侵入した音の振動が、痺れとなって指先に伝わる。力が抜けそうだ。
しっかりしろ。返す言葉と態度は、今まで通りでいい。
「なら、これからもそうできるよう、頑張るよ」
「ありがとう、やはりあなたは英雄だ」
「はは、ありがとう。おやすみ」
「おやすみ、良い夢を」
大丈夫。これまで通りだ。
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彼女はどうやら私の声を好んでいるようだ。あなたが大事である、特別な人であると声音に滲ませれば、決まって一瞬目を逸らす。
当時の塔の調査は、私にとってはかけがえのない記憶だが、彼女にとっては多くの冒険のうちのひとつだろう。だというのに、「オレ」へ向ける感情を少しでも持っていてくれたということが、嬉しくて仕方ない。
あんたが生きていれば十分だったのに、背中を見られれば、一緒に戦えれば、目を見て話せれば———
欲望は高まっていくばかりだ。きっと以前から、既に抑えが効く程度ではなくなっていたのだろうと自嘲してしまう。
それでも、きっとあなたは叶えてくれる。
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「おはよう、ラハ」
「ああ、おはよう……?」
例によって挨拶を交わすと、公はぱか、と口を開いたあと、「む」と零して口ごもった。原因にだいたい察しはつくが。
「その装備もよく似合っているが……」
「が?」
「その、少し、魅力的すぎるのでは、ないだろうか」
「ずいぶん気を遣った言い回しだけど、露出が多いってこと?」
「気遣ったわけじゃない。本心だ」
「……ありがとう。いや、そうではなくて」
何か言われる可能性は危惧していたが、てっきり腹を冷やす子供を叱るような言葉が飛んでくると思っていた。
女たらしのようなことを言うのに、態度だけは妙に初心なこの人に、調子を狂わされている。
「露出が多いという意味で合っている。……あまり、大勢の目に触れさせてほしくない」
一瞬意味がわからなかった。己に都合のいい勘違いをしそうになり、慌てて顔を上げた。
恋人にすがりつく若い娘のような、切なげな表情が、目に飛び込んでくる。
他でもない彼から向けられるその顔に、呼吸が浅くなるのを感じた。
ああ、いま、助けを求められている?違う、注意されただけ。おかしなことは考えない。鼻の奥がぴくりと震えてしまったが、落ち着いて、ゆっくり吐けば、問題ない。
願われたなら叶えたいところだが、装備を変えれば良いのだろうか。それでは何かが足りていない気がした。求められているものはなんだろう?どうすればいいんだ?
混乱がなかなか治まらないので、「別のにする」と答えるやいなや、踵を返した。
あまりに早足だったので、背中に落ちてきた言葉は聞こえなかった。
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素肌を晒した装備に年甲斐もなく動揺してしまった。まずいと思った時には遅く、口から苦言のような言葉が出ていた。
しかし、口を出された当の本人は、嫌がるでもなく、むしろ———
自惚れだろうか?いや、この耳は、吐息ひとつ聴き逃してはいない。
幸いにして、私の顔も有効だったようだ。非常に良い反応を見せてくれた上、すんなりと「お願い」を聞いてくれた。いまだ多幸感が続いている。この人をつなぎ止められるなら、己の全てを使ってみせよう。
背中に向けた、調子に乗ってしまうよ、という呟きは届かなかった。聞こえなかったのなら、仕方ないだろう。私は言ったのだから問題ない。
そこまで考えて、私はこんなに強欲だっただろうか?と振り返る。
自分だけに見せてくれる顔がほしい。言葉がほしい。いずれはそれ以上も。煮えたぎった頭は元には戻らない。
彼女の髪のひとすじでさえ、手に入れたら取り込んで、永遠に己の中に閉じ込めるだろう。朽ちない体の特権だ。
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日に日に顔を取り繕えなくなっているのを感じる。私はこんなに不器用だったか?
公の顔も声も態度も目に毒だ。甘く煮詰めたジャムを流し込まれているようで、もはや落ち着かないどころではない。誰か助けてほしい。こんなの英雄にあるまじき考えだ。早く元の私に戻らなくては。
それでも、朝晩の挨拶は欠かさず行われる。特に、2人きりで長く話せる夜の挨拶は何にも代え難い。
「今日は無の大地に行ってきた。属性の励起を行って……」
起きたことのあらましを語る。懸念点は残るものの、概ね順調だ。きっとこの世界のためになるし、彼が愛した場所を守り続けることだから、私も協力したいのだ。
それに———きっと、褒めてもらえる。
愛だけ持つと決めたのに、私はとっくにあさましい欲を振り払えなくなっていた。
「それは、素晴らしいな。これからのことまで考えて力を貸してくれるとは、嬉しいよ」
「そんな、ついてっただけだから」
「それでも、あなたがいなくては成し得ないだろう。本当にありがとう」
「いや、その……どういたしまして」
思わず目を伏せてしまった。いつもの表情が思い出せない。姿勢も言動もおかしい気がする。私はこの人の前でどうしていたんだっけ?
「だが」
数歩、近づかれた。
「少し顔が赤い。疲れてるのか……?」
ふわりと髪越しに頬に触れられる。心配そうに顔を覗き込まれ、やさしげな紅い瞳に晒された。
「ぇ、あ、だ、いじょうぶ……」
大丈夫じゃない。
完全におかしな反応をしてしまった。俯いてしまい、視線も合わせられない。
平気だよ、公は心配性だな。そう返すはずだったのに。あつい。顔が熱い。触れられたところから熱が広がる。
まずい。逃げたい。不審に思われる前になにか対処をしなければ。考えるほど頬の熱が増していく。
あれ……?これって、私が、あついのか?なんか、ちがうような。
いつもより低い声が、ごく近くで放たれた。
「本当に?」
とても恐ろしい響きがする。頭も体も煮えて、二度と戻れなくなるような。
顔を上げると、苛烈な輝きがふたつ、こちらを見ていた。
ひどい熱を持った手でゆっくりと髪を梳かれて、何も隠せない。
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「本当に?」
髪を梳いてから、頬の輪郭に沿って撫でおろす。目が合って、上気した顔がよく見えて、歓喜が腹から昇ってくる。
顎をとらえると、いよいよ抑えきれない熱が乗るのを感じる。はやくあなたもこちらに来てくれ。
うすく笑って、肌の匂いすら感じるほど近づくと、ふるえる声がする。やっとだ、やっとつかまえた!
「ぁ、らは……」
吐息ごと飲み込んで塗りつぶした。目をぎゅっとつぶっていてかわいらしい。力の入っていない手が何よりも愛おしい。
息継ぎをする度に恍惚のため息が漏れる。今だけは、この人は他の誰にも見えない光だ。
なんて美しい夜だろう。必ず朝には昇るのだから、どうか私の前だけで墜ちてくれ。