誓いの言葉を受け取ったなら胡蝶しのぶは心底疲れていた。
柱稽古には参加しないと継子である栗花落カナヲには伝えていたが、その抱えている別の案件で疲れていた。
……のではなく。
「(あぁもう本当にご自分でどうにかしたらどうなんです?)」
感情が制御が出来ないのは未熟者の証ですと何度も己に言い聞かせる。こめかみに青筋が立っていそうな気がするが、口は笑みを描けている。上出来だろうと目の前の男を黙らせる為にピシャリと言い放った。
「何故です?貴方に弟はいないのでしょう。彼とは無関係では?」
「………ッ!!……ッ、」
押し黙った。ようやっとかとしのぶは長く息を吐き出した。額を押さえ机へ思わず項垂れてしまう。
竈門炭治郎と接触禁止令が出された風柱・不死川実弥から矢継ぎ早に蟲柱・胡蝶しのぶは質問攻めに合っていたのだ。
やれ何故呼吸の使えない隊士がいる?
やれ何故他の柱は合格にした。
挙句には鬼喰いとはなんだ、知っていたのか、何故俺には伝わってねェんだァアア???アイツは人なのか鬼なのかァ?!お館様や悲鳴嶼さんは何考えてンだァアア???
ーーと。
本当に此方の身にもなって貰いたい。
貴方だけでなく、その弟も検診に中々来ないのだから被害者は此方だと。
「(大体なんですか、再起不能にするって。
それで辞めるのであれば彼はここまで来てませんよ。馬鹿なんですか?)」
上に立つ者。先に行く者は本当に振り返ろうとしない。
だから追いかけてしまうのだと、どうしてわからないのだろうか。
ただ一緒に行きたい、いたい。それだけなのにと膨れ上がりそうになる感情をしのぶは無理やり押し込む。どっと疲れがぶり返した。
するりとある言葉が出てしまう。
「そんなに彼をどうにかしたいのなら、囲ってみたらどうなんです?」
゛突き放してダメだったのでしょう?゛とようやっとそこまで言って顔を上げた。
ぼやけた視界に実弥が写る。柱稽古の代わりに共同研究をしている珠世と愈史郎の元にいた猫…茶々丸と言ったか。猫が驚いたような顔、あれに似ている。これでもかと両目を大きく見開いて目を丸くしている風柱は。
「………結納だァ」
「…………………………………。はい????」
゛世話になったなと言い放って実弥は立ち去る。猫が驚いたような顔のまま。ただ口元からは風の呼吸独特の呼吸音が漏れていたので、あれはもしかしたら獲物を捉える為に狙いを定めた顔だったのかもしれない。
「悲鳴嶼さん、面倒な事になったかもしれません」
もう一度言う。胡蝶しのぶは心底疲れていた。今日はここまでと言わんばかりに自身の鎹鴉の艶を頼りになる親代わりへと飛ばす事しかできなかった。
*
「おはぎ作戦はどうだろうかと思うんだ」
「何言ってんだよ炭治郎」
いつになく真剣な顔をして告げて来た炭治郎へ間髪入れず不死川玄弥は答え、顔を顰めた。
任せてくれ!と言わんばかりに胸を張らないでほしい。
「ほら、仲良くなるにはご飯食べる所からだろう?お風呂からでもいいと思うんだけど、仲直りに持ってこいだと思うんだ。不死川さんからおはぎの匂いしたから。好きなんだろう?」
「なぁお前まだあの時の自論持ち込んでんのか??お前だけに決まってんだろそれ。
大体兄貴との接触禁止令出てんの忘れてんじゃねぇよ」
「玄弥は出てないじゃないか!だから大丈夫だ!」
いや大丈夫じゃねぇよと更に玄弥は顔を引くつかせる。大丈夫!上手くやるから!!と何度も片目を閉じてくるのが鬱陶しい。そう表情で訴えたつもりだったが、炭治郎は何を勘違いしたのか挙句の果てには親指まで立ててきた。
「俺は今お袋だから!きっとうまくいく!」
「いかねぇよ…」
物理共々頭が硬い炭治郎はこうなるとどうにもならない気がする。刀鍛冶の里から柱稽古、特に今の岩柱稽古を経て玄弥も少しずつ竈門炭治郎という人となりを感じ取ってきているつもりだ。はぁ……と長くため息を吐いて自身を落ち着ける。
「確かに兄貴はおはぎ好きだけど…。
てか臭いでそこまでわかんのかよ…キッショ」
「俺はキショくないぞ!なぁ!善逸!」
「なんで俺まで巻き込むの!?」
炭治郎はよく我妻善逸、嘴平伊之助両名とよく一緒にいる。同期ということもあるが、同じ任務を乗り越えて来た仲間なのだと言う。
同意を求めるやり取りも彼らにとっては日常茶飯事なのだろう。
時折見るやり取りはまるで兄弟のようなものもあった。玄弥はふと一時の彼らを思い出すと今はいない妹や弟、ありし日の兄の姿が重なるように自身の脳裏を駆けていった。
「餅米のはんごろしもなんのそのだ!
俺と一緒においしいおはぎを作ろう!玄弥!」
炭治郎に悪気はない。
ぎゅっと両手を握られて゛な?゛と眩しい笑みを向けらる。
本当にいい奴だと思う。
「……、昔はさ、仲直りっておはぎ作って贈り合ったりしてたんだ」
少し震えた声と熱くなる目尻。つん、と鼻奥も同様に熱くなる。
凍りついた氷塊が日の光に当たって溶け出すように、ぽつぽつと玄弥から言葉がこぼれ落ちていく。
「俺の味付け、好きなんだってさ。兄ちゃん。
毎日食いたいくらいだって。
いつか俺にいい人出来るまで頼むなって言われたっけか。
ーーそんないい思い出ばっか、俺…覚えてて…っ」
『玄弥のおはぎはどんどん上手になっていくな。形も綺麗だし、味も一等美味しいから兄ちゃん毎日食べたいな』
『なら俺いっぱい働いて兄ちゃんに毎日食べさせる!』
『あのなぁ…それじゃ玄弥が疲れちまうだろう?毎日作るなら俺がいっぱい働くから。
玄弥は家にいてくれよ』
『嫌だよ、俺も働く!疲れねぇよ!
絶対兄ちゃんに作るからな!』
『………。仕方ねぇな、いいのか?』
『俺から約束しようか?』
『わかった。ならーー、
玄弥にいい人が出来るまで、な』
「え?ちょっと待って。毎日?それってまさか、」
善逸の声に遠き日の思い出は霧散していく。
何かに気付いたのか青ざめた顔をした善逸に玄弥、炭治郎の両名の目が合う。その次の瞬間、善逸は自身の両耳を覆ってつんざくような悲鳴を上げ始めた。
悲鳴だけではない音で空気が震えている。ズシン、ズシン、という足音が近づいてくる。
その音と気配はつい最近思い知ったばかりのものだった。
「ギャアアアアアアアアアア!?なんで!?なんでおっさん来てんの!?!?しかも隊服じゃねぇじゃん!?なにあれ!?一張羅なの!?紋付!?なんで!?非番なの!?暇なの!?」
「どけろ我妻ァ…!」
「頭掴まないでぇええええ!!!」
善逸を押し除けて実弥は炭治郎と玄弥の元へ歩み寄ってくる。風の呼吸独特の呼吸音がうるさい程響いていた。目が血走っているのはいつもの事だが、その両目が玄弥の両手を握っている炭治郎の手を捉えた瞬間、更に鋭さを増した。顔がもう表現出来ない。消えている。
「にいちゃ…、」
過去を思い出していたせいか元々の呼び方をしてしまう玄弥。最早威圧のせいで実弥の衣装が隊服でなく紋付袴である事を気にする余裕などなかった。
炭治郎が二人の間に入る。
「不死川さん!!接触禁止令出てたじゃないですか!!!」
「うるせェ竈門ォ!!!それはテメェだろーがァ!!俺とその一般隊士には出てねェンだよ!!」
「(炭治郎と同じ事言ってる!?!?なんで!?!?)」
玄弥はひたすらに混乱している。゛避けません!゛゛邪魔だァ!!゛のやり取りの刹那、炭治郎を押し除け実弥は玄弥の前へと立ちはだかった。あ、駄目だ、逃げなきゃと踵を返して何とか足を動かす玄弥。
その腕を実弥はすかさず掴んだ。
「取って食いやァしねェよォ…失礼すんなァ…」
「あ…はい…っ」
逃げられなかった。もう駄目かもしれない。
か細く返事しか出来ない玄弥に実弥は彼の腰を両手で挟んで此方へと向き直させる。ぱんぱんぱんとまるで玄弥の体に異常がないか確認するような動作を行って、己の胸に手を当ててから呼吸を整える。
そして彼はその場に跪いた。
吹き荒れていた風が止まったかのような静けさに炭治郎と善逸も騒いでいた声を止めた。
混乱し続けている玄弥を他所に、実弥は懐から包み紙を取り出した。
はらりと封が解かれると中身が露わになる。
「ーー俺の為に毎日おはぎ作っちゃくれねぇか?」
おはぎだった。
つぶあんのおはぎだ。無骨で、少し形が崩れたおはぎ。
「え、いや、今の兄貴、毎日はダメなんじゃねぇの?胡蝶さんが駄目だってぼやいてたけど…」
混乱と虚をつかれすぎたのか。
一周回って玄弥は素の反応を返してしまった。予想をしてなかったのかおはぎを掲げる実弥の顔が凍りつく。
おまっ馬鹿!!違うって!!それは!!!と餌を前にした金魚のように言葉を発しないまま口を開閉させる善逸は何かの臭いに気付いたのか目を潜め様子を伺う炭治郎の後ろに隠れたままだ。
滅多にない風柱様のスキに玄弥の手が思わず伸びた。このおはぎを知っていたからだ。
手で掴んで、そのまま止まる事なく食べる。
色褪せない味だ。これは。
思い出と同じ味にふはっと玄弥は笑う。
「゛兄ちゃんのおはぎ、いつもちょっとぼこぼこしてるよな。おこわ、ちょっと潰しすぎて餅だし。
でもいつも同じ兄ちゃんの味で俺好きだよ。゛」
その言葉をお互いに覚えてる。あの時も同じ事を言っていた。
思い出が後押ししてくれて、食べ切れる。
お腹と胸いっぱいに広がる甘さに震えは止まり、落ち着きを取り戻して玄弥は実弥へと向き直れる。
「ごめん兄ちゃん。作る。兄ちゃんが必要なら胡蝶さんとも相談する必要あるけど、俺、作りたいんだ。兄ちゃんの為に。
作ったら受け取ってくれる?」
それは仲直りの証だから。
目を細めて少しだけ涙を堪えて笑う玄弥。
実弥の表情は変わらず、微動だにもしない。
少しバツが悪くなって右手で左頬を掻きつつ゛他にも一緒に謝りたい事とかあるから、聞いてくれねぇか?゛と続けた言葉を言い終わる前に玄弥は実弥へ抱えられていた。
「ーー言質取ったァ」
「えっあっちょ…ちっか…っ!?」
手ェ回さねぇと落ちるぞと耳打ちされる。
六尺ほどある大の男をこうも簡単に横抱き出来るのか。思わず言葉通りに実弥の首へ腕を回してしがみつくように近付けば、ぐりぐりと額同士を合わせて擦り寄られる。
鼻先を当てられ目が合った。
「大事にする。玄弥」
俺の兄ちゃんは、この世で一番優しい人だ。
優しい声を紡いで、顔で笑って、自分の名前を呼んでくれた。
「……俺、夢見てんのかな」
「夢で終わらせてたまるかよォ」
軽く頭突きをお見舞いされた。
炭治郎程ではないが痛みはある。夢ではないのか?本当に??とまだ信じられそうにない。
兄が近くにいて話してくれている。玄弥はそれだけでもとても嬉しくてたまらない。
「玄弥ァ、確認だ。いい人いねェなァ??」
「昔から言ってるいい人って何だよ。俺、女と話すだけでも緊張しちまうのに…。
いい人は兄ちゃんだろ」
ふわふわする。これが幸せなんだろうか。
玄弥の答えに善逸はバカッ!と声をあげたが届かない。また玄弥は気恥ずかしくなって視線を逸らしているのもあって、実弥が口元を孤に描いたのも気づいていなかった。
ただ胸の内から込み上げてくる暖かさに玄弥は思わず涙が出そうになったが……。
「じゃァお館様に挨拶に行かねぇとなァ」
「………………ん????」
すぐに引っ込む事となった。何故ここでお館様の名前が出てくるんだとようやっと玄弥は我に返り、きょとんと目を丸くしている。
「玄弥ーー!!よかったな!!仲直り出来て!兄弟仲良くずっと一緒だな!」
「バッカ!!!お前っこんな状況でとんでもねぇ炭治郎だよ!!!どう考えても違ぇだろ!!
玄弥!!!お前よく思い返せよ!
おっさん言ってんの!!全部……っ」
炭治郎と善逸が叫んでいる。
二人は全部聞いていたのだ。
「結納の報告は親に必要だろォ?俺もおまえも今はお館様が父代わりだからなァ」
「巷で流行りのプロポーズだよ!!婚約の契り!!!!俺の為に毎日味噌汁作ってくれって言ってんだよ!!!!玄弥!お前家に縛り付けられるぞ!!」
゛服も見立なきゃァなと上機嫌の兄。
髪を掻きむしるように頭を抱えて騒いでは意図を伝えようとする善逸。
炭治郎は゛姓はもう一緒だから変わらないな!゛とやはりどこか的を得てない事を言っていた。
「え…っ兄ちゃん俺の事好きなの…?ほんとに…??」
嘘でしょ、信じられないと実弥の腕の中で呆けている玄弥が゛わかった。これ夢で血鬼術だと言い放ち、これでもわからないかと実弥から強く口を吸われるのは致し方ない事である。