コトノハ葛篭「怒りで我を忘れてしまっては意味を為さない。何に対して怒りを抱くのか、言葉に書き留めてみなさい」
暴れ散らし酸欠で朦朧とする意識の中、冷たい水と共に言葉がかけられる。寝耳に水とはこう言うのだろうか。
感情を言葉に書く事で何か得があるかと訝しげに見つめると、目が見えない筈の師は数珠を繰り、文字を書く練習にもなると言い立ち去った。
「………なんだよ、今まで何も言ってくれなかったくせして」
むくりと起き上がって息を整える。教える事はないと言う行冥がようやっと玄弥へ言葉をかけたのであった。
*
「いや書けって何書けばいいんだよ…っ」
キィイイ!!と奇声を上げつつ再度怒りが込み上げた。勝手に用意されていた雑記帳と筆を手に取るも頁いっぱいに何を書けばいいのか玄弥は知らない。一枚、また一枚と破り千切っては丸めて、部屋には紙が散乱している。
「大体、字書くなんざ慣れてねぇし」
蛇のような下手くそな己の字に更に腹を立ててまた一枚千切って今度は細かく破り散らして後方へ投げた。紙が舞って雪みてぇだなとぼんやりと思う。
『テメェみたいな愚図、俺の弟なんかじゃねぇよ』
雪の色のような白い髪を持つ己の兄と再会した時の言葉が冷たさを伴って心に突き刺さる。最後に舞った紙屑ですら掴めなかった自分に嫌気がさして目から涙が零れ落ちた。
「苦戦を要しているようだな、玄弥」
ぽん、と軽く頭へ手が乗せられる。癇癪を起こしていたので気付かなかったが行冥がいつの間にか来ていたようだ。あやすように大きな手が頭を揺らして撫でていく。
いらねぇ、離せと言葉を告げる余裕が今の玄弥にはなかった。
「何も文を綴る必要はない。己を見つめ、言葉を書き留めるだけだ。短い単語で構わない。何に対して怒りを抱いているのか、それを明確にする事が一歩である。だが、難しいのであれば、怒りに限らず今抱いている感情を書き留めてみなさい。」
お前は自分を顧みないのだからと最後に大きく揺らして撫で終わると何かを手渡された。
「短冊だ。此方の方が短く書き留められるだろう。出来上がったのならそのつづら箱に入れなさい」
雑記帳を短冊状に切ってもらっても構わないと言い残して行冥はまた部屋から出ていった。残された真新しい短冊帳とビリビリに引きちぎられた雑記帳が机の上にある。
ずず…っと鼻をすすりつつ、玄弥は机へ向き直った。
始めはただ苛立ちと怒りの言葉を一言二言書いて箱に入れた。次第に自分が呼吸が使えない事に苛立つと具体的に言葉を紡いでつづら箱に追加する。短冊に書き留める事でいつも起こしていた癇癪は少なくなっていった。漠然と、どうしようもない怒りに対して起こしていた癇癪に向き直っていけたからかと。
最早日課になりつつある中、そこでふと玄弥は筆を止める。
書いている内容が段々と似通ってきたのだ。同じものを入れても変わらない現実だけに蓋をしてるみたいで嫌だなと一枚紙を丸めた。じゃあ何を書こうかとうんうん頭を悩ませる。
「…書くだけなら、いいよな」
誰ともなくポツリと呟いて数枚筆を進めた。
゛兄ちゃんにごめんって言いた
゛ごめんって言ったら兄ちゃんと話せれますよう
滝に打たれ、丸太を担ぎ、大岩を動かそうと奮闘する。時折見本のように比べ物にならない大岩を動かす行冥の動きを見るくらいには玄弥にも心の余裕が出てきた。
念仏を唱える彼に倣って慣れない写経をしてみる。方法を教えてもらってないのだから真似できるものはするしかない。
大分綺麗になってきた字にフンッと得意げに鼻を鳴らして日課の短冊にまたいくつか言葉を綴る。
゛柱になって兄ちゃんに会いた
゛兄ちゃんを守りた
そうだった。それが初めの気持ちだ。
゛家族を守る約束を果たした
゛俺の家族は誰が何を言ったって兄ちゃんに変わりないんだ゛
゛この世の誰よりも優しい兄ちゃんへ゛
゛俺の大好きな兄ちゃ
「短冊なら…こんな簡単に言えん、のに、なぁ…」
ぼろぼろと溢れる涙を荒々しく拭う。また箱にしまって蓋をする。
雑記帳や短冊帳は何冊か書き終わってるのに溢れ出ないこのつづら箱は行冥の特別性なのだろうかとぼんやり考えて玄弥は眠りについた。
行冥が行っていた動作が反復動作なるものだと念願叶って知る事ができた。呼吸が使えない己でもできる事を知ってコツを掴もうと取り組む日々。日課の書き留めは相も変わらずだが、書く内容は怒りよりも兄の実弥について書く事が多くなった。謝罪ばかりの言葉から最近は玄弥の心の落ち着きを表すように食べたもの、見たものを兄と見たいと願望ばかり綴っている。
「(でも昨日のはねぇかー…)」
乾いた笑いをこぼしながら昨日綴った短冊を思い返す。玄弥は右手で左頬を掻いて人知れず気まずくなった。
゛兄ちゃんに好きだって言いた
実弥に対して兄以上の想いを持つ事に対しては、短冊を書きつつ自覚はしたが特に混乱はなかった。書き続けた事で気持ちの整理ができていた事もだが、この短冊が兄に届く事なく、玄弥の自室ーー彼の世界の中だけで蓋をされて伝わる事がないからだとどこか安心しきっていたからだと思う。
未だに蓋が出来、溢れ出ない不思議なつづら箱に。
「あ…?」
自室の障子を開けると二羽の鎹鴉がいた。
閉じられた世界に迷い込んだそれらはあろう事かつづら箱を開け放っていた。つづら箱の周りには短冊や短冊状に切った雑記帳の切れ端が散乱していて二羽が何かを探して漁っていたのは明確だ。
「榛?なんで??いやもう一羽誰だよ?師匠の鎹鴉じゃねぇな。友達いたのか?」
一羽は玄弥付きの鎹鴉の榛だ。もう一羽は見覚えのない鴉で問いかける。榛と鴉は顔を見合わせると榛がカァーーー!と大きく鳴く。突然の音に目を見開く玄弥のスキが生まれる。もう一羽の鴉が狙いを定めた一枚の短冊を口に加え、彼が扱う南蛮銃の弾丸のごとく玄弥の横を通り過ぎた。
「はっや!?!?いやはや!?てか、え!?
泥棒してんじゃねぇ!!!!」
玄弥は走り出す。高価なものではないが一介の鎹鴉が何故あんな物を盗る必要がある?
なんの短冊を取ったのか知らないが、もし昨日のものだとしたらまずい。
「おい待てよ!!!返せって!!」
まずいまずいまずい。
距離がどんどん離れていく。こんな早い鎹鴉がいたのか?どこに行くのかもわからないまま、食らいつく。
「コッチダ!玄弥ァ!」
かろうじで互いを捉えられる仲介距離に榛が入ってくれている。玄弥は走りながらふとつづら箱の事を思い返した。
とっくの間に溢れててもおかしくなかった箱の筈だ。それなのにずっと蓋が出来て、溢れなかった不思議な箱。
「(んなもん、なかったって事かよ!?)」
溢れ出ていた想いの短冊をこの二羽の鎹鴉が拾っていたのか?だとすれば行き先はーーー
「ーーよぉ爽籟。待ってたぜ」
バサバサと音を鳴らして大きく翼を動かす名の知らぬ鎹鴉は爽籟という名前らしい。右腕を翳せば止まり木のように降り立つ。爽籟の頭を撫でてからその人物は短冊を受け取っていた。
肩で息を切らしながらその光景を玄弥は見る事しか出来ない。大事そうに綴られた言葉を撫でて縁側から立ち上がる人物を。
「嘘だ…どうして…」
溢れ出た物は全て受け止められていたのだ。此方へ向かってくる事で後ろに隠れていたつづら箱が現れる。つづら箱に入った多くの短冊が。爽籟を迎えた相手の言葉が。何度も受け取っていたのだと理解できてしまう。
「俺はよォ、字が書けねぇんだ。答えはこれで勘弁してくれや」
急に距離が縮まれば短冊越しに唇へ伝わる熱がある。目と鼻の先の距離で間近に見る兄は少し意地悪く笑ってから離れて受け取った短冊を見せつけてきた。
「こんだけ溢れ出たモンは、俺しか受け取れねぇだろ。玄弥。好きだって言いな」
俺も好きだ。全部受け止めてやるから。
と、これが自分の短冊だと言いたげに胸元へ短冊を押し付けられた。