腕の中の幸福「禰󠄀豆子さん!!ダメですよぉーー!」
「い、やッ!はな、すー!」
定期検診に蝶屋敷を訪れ、妹と同じ名を持つすみが両手いっぱいの洗濯物の運搬をしていたので手伝うと申し出た玄弥。
二人並んで歩いていると禰󠄀豆子という名前共にきよ、なほの大きな静止の声が響く。
何かあったんでしょうか?と不安げなすみと共に玄弥は洗濯物を置いて声が聞こえた方向、門へと向かった。
「カナヲ、どうしたんだ?」
「玄弥、すみ」
禰󠄀豆子を押さえるも引きずられつつあるきよとなほ。その二人を止めるか止めまいか迷い、あわあわと困っている様子の己と同期にあたる隊士•栗花落カナヲの名前を玄弥は呼ぶ。
名前を呼ばれたカナヲは玄弥とすみの顔を見るとどこかほっとした表情をして振り返った。
「禰󠄀豆子に何かあったのかよ」
「わからないの…でもずっとあんな感じで…」
゛禰󠄀豆子さん!炭治郎さんも来ますよ!゛とすみも加わったが兄の名前が出てくると更に禰󠄀豆子は門から外へ向かおうとしていた。すみ達3人を引きずり始めたので流石にと玄弥が前に出る。
「待てよ禰󠄀豆子。話聞いてやるから」
「う…げ、げや…ほん、とう?」
「あぁ本当」
禰󠄀豆子を引き止めて目線を合わせて少しだけ笑ってみせる。引き摺れつつあった三人は動きを止めた禰󠄀豆子から離れて玄弥の側へと向かう。
刀鍛冶の里を出た後、炭治郎と打ち解け、病室では隣の寝台でもあってか禰󠄀豆子は玄弥にも懐いていた。亡き妹達へ接するように言葉をかければ素直に言葉を聞き入れてくれる。
『禰󠄀豆子は偉いんだぞ!』
どやさ!と得意げになっていた炭治郎を玄弥は思わず思い出した。未だに女性は苦手だが、蝶屋敷の面々と禰󠄀豆子には大分打ち解け、対応も出来るようになったものだと禰󠄀豆子の頭を玄弥は撫でた。嬉しそうに笑うので釣られて目元が緩む。
「あっち、い、いこうねぇ」
「あっち?どこか行きたいのか?」
「カナォ、とる」
「私…?」
急に名前を呼ばれカナヲが目を丸くする。
カナヲを取るとはどう言う事だろうか?
玄弥とカナヲは顔を見合わせてから思い当たる節がなく、二人してそのまま首を傾げた。きょとん、とした様子の二人に三人娘達も同じくきょとんと首を傾げた。
「むー…あっち、いくー。げやとカナォ、一緒だねぇー」
゛ねぇー?゛とお得意の禰󠄀豆子特有の聞き返しに二人の手が捕らわれてしまったので、玄弥とカナヲはそのまま禰󠄀豆子について行く事となった。
何かあったとしても蟲柱から禰󠄀豆子を頼むと言いつけられているカナヲがいるという事でなほ達に見送られながらその場を後にした。
*
「いい子、いい子だねぇー」
ふんふんふーんと鼻歌に似た何かを禰󠄀豆子は歌いつつ歩いている。禰󠄀豆子の右手側にはカナヲ、左手側には玄弥の双方の手をしっかり握って終始ご機嫌な様子だ。
何度か二人を前へ出ていい子、いい子と頭を撫でようとしたので年頃の玄弥とカナヲは思わず顔を赤くして制止を促した。
少しだけ不服そうにむー…っと唸った禰󠄀豆子だったが目的を思い出したのかまた手を握って歩き出す。
「なんか取りにいきてぇもんでもあんのかねー…」
「そんな気がする。それが私、なのかな?」
「カナヲ自身ならもう隣にいんだろ?」
゛そうなんだよとまた二人は頭を捻り始めた。カナヲを取る、とは何であろうか。
幼子のようにご機嫌な様子で手を振って歩く禰󠄀豆子はやはり楽しげであった。
「禰󠄀豆子には俺達が何に見えてんのかね。俺と同じ二番目って炭治郎から聞いてるけどよ」
「妹と弟、なのかな。私、お姉ちゃんなのに」
「俺だって竈門兄妹二人からすりゃにい…兄貴だよ」
「ううん、玄弥は弟だよ。私はお姉ちゃん」
「いやカナヲは妹だろ」
゛だって歳上だもとカナヲは姉呼びから引かない様子であった。ねぇーと禰󠄀豆子の呼び声に笑って顔を覗き込むように首をもたげるカナヲも楽しげだ。まるで姉役のごっこ遊びのようにも感じて仕方ねぇかとフッと軽く目元を緩めて玄弥は微笑今だけと返した。
「カナォ、あった!」
目的の場所に近づいたのか禰󠄀豆子が声を上げる。繋いだ手を離して駆け出したので二人も後を追った。
「カナヲあったってこりゃ…」
「お花の事…?」
開けた視界の先には小さな花畑が広がっていた。黄色や白、桃色と色とりどりの見慣れた花はカタバミだったか。
二人の問いかけにうん!と大きく頷く禰󠄀豆子。花畑に座り込んでぶちぶちと容赦なく花をむしり取っていく。数はあるので枯れはしないだろうが本当に、容赦なく、むしり取っていくので、カナヲと玄弥は顔を見合わせた。
「カナヲ、お前風呂敷か何か持ってるか?」
「外套なら…」
「俺も。上の羽織を袋代わりにするか」
カナヲは外套、玄弥は隊服の上に身につけている紫と黒の羽織を脱いで禰󠄀豆子の元に向かった。これにいれろと禰󠄀豆子へ声をかけるとカナヲの外套へむしり取った花を入れる。
「誰かにあげんのか?」
「あげようねー!」
「そうか、ならこんなのもあるぜ」
あまりに多い花達を少し取って器用に玄弥は繋げていく。バラバラだった花達が形作られるのを禰󠄀豆子は瞳を輝かせて見ていた。同じように作り始めたので気に入ったらしい。
「花冠。やるよ禰󠄀豆子」
出来上がった一個目を禰󠄀豆子の頭に乗せると嬉しそうに笑った。いい子いい子とまた撫でてくる。今回は弟なので甘んじて受ける玄弥。動体視力がいいカナヲも見様見真似で作っていた。
「カナヲ、その長さでいいよ。手貸してみ」
ぎこちなさが残っているように見えて玄弥は声をかける。禰󠄀豆子は作った事があったのか、もう花冠を作り終えそうだった。結び目だけ見てあげれば綺麗に輪になっていて禰󠄀豆子はご機嫌に笑う。カナヲが手を伸ばしてきたので手首の裏面、向けて欲しい方向を玄弥が己の腕でやってみせると同じように向けてくれた。少しだけ気恥ずかしさが残るもカナヲの手を取って彼女が結んだ花を周りに巻いて結ぶ。
「腕輪」
「玄弥、物知り」
「これで満足か?姉ちゃん」
゛うん、ありがとう゛とカナヲは目元を緩めた。禰󠄀豆子も花冠が出来上がったようで相変わらずよかったねぇ、ねぇー?と笑う。じゃあカナヲの外套に花冠を入れて帰ろうかと玄弥が促すと禰󠄀豆子が声を上げた。
「お兄ちゃん!」
「炭治郎?気配はしないけど…」
「お兄ちゃんも、とる!」
カナヲの時のように花か何かだろうかと手早く外套に花をまとめて二人は小走りで走り出した禰󠄀豆子の後を追う。あれ!お兄ちゃん!と指を差して取ろうとする禰󠄀豆子に追いついたカナヲが前に回り込み、玄弥が止める。
「タラの芽は棘があるから危ないよ」
「コイツの棘は鋭いんだ。俺が取ってやっから落ち着け禰󠄀豆子」
そのまま手を伸ばしていたら禰󠄀豆子の手に棘が刺さっていただろう。鬼である禰󠄀豆子なので負傷してもすぐ治るが、禰󠄀豆子が大好きな善逸に見つかると面倒だ。鼓膜でも破れるんじゃないかと言う悲鳴を上げる様子がありありと目に浮かぶ。それだけは避けたいと二人は必死に止める。
どうやら炭治郎の好物であるタラの芽を取りたかったようだ。カナヲに棘の位置を見てもらいながら、背の高い玄弥が難なく取っていく。今度は玄弥の羽織にタラの芽を入れて、ようやっと帰ると言う禰󠄀豆子を連れ二人は蝶屋敷へと向かった。
ちなみに荷物は増えたが行きと同じく禰󠄀豆子を真ん中にして手を繋いで、である。
*
「炭治郎!禰󠄀豆子ちゃん!
禰󠄀豆子ちゃん帰ってきた!」
「くんくん…本当だ!おぉーい!禰󠄀豆子ー!カナヲー!玄弥ー!」
両耳に手を当てて、いち早く足音を聞く善逸。善逸の言葉に鼻を鳴らして臭いを嗅ぐ炭治郎。見知った音と臭いに二人は帰ってくる三人の名前を呼んだ。傍には猪頭を被った山の王、伊之助もいる。
どうやら玄弥達が離れた後、帰ってきてから蝶屋敷の面々に事情を聞いたのか、門でずっと待ってくれていたようだ。
大方、待とうと言ったのは善逸辺りだろうと玄弥は駆け寄ってくる三人を見据える。
「ありがとうな、玄弥、カナヲ。禰󠄀豆子のわがまま聞いてくれて」
「お、お兄ちゃん。おか、おかえり」
「うん、ただいま禰󠄀豆子。それから禰󠄀豆子もおかえり。花冠、よかったな」
「おかえり!よかった!」
炭治郎は此方へ来た禰󠄀豆子の頭を撫でている。後ろの方で善逸が゛キャーーーー!?禰󠄀豆子ちゃん!?その頭の花輪なに!?巷で流行りのティアラなの?!花嫁さんなの!?勿論相手は俺だよねぇーー!?゛と叫ぶ。炭治郎が伊之助と呼ぶとよしきた!とばかりに善逸を羽交締めにして抑えていた。
見ろ!親分はすごいだろ!と誇らしげの伊之助へ禰󠄀豆子がおやぷんおかえり!と言うと二人揃って返事をする。普段通りというか、騒々しくなる面々にカナヲと玄弥は互いに目線だけ合わせてから苦笑いを浮かべ炭治郎へ答えた。
「全然。どうって事ねぇよ」
「うん。楽しかった」
「それなら良かった。ところでカナヲと玄弥は何を持ってるんだ?臭いで大体わかりそうだけど…」
「お兄ちゃん!だ、めー!」
外套と羽織に入ってる物を特定する為、炭治郎が臭いを嗅ごうとする。するといきなり両腕を上げて禰󠄀豆子が炭治郎の行動を阻止した。゛どうしてだ禰󠄀豆子!兄ちゃんの唯一の特技なのに…゛と少し残念がる炭治郎を他所に禰󠄀豆子はカナヲから外套を貰って中から自分が作った花冠を出す。屈んで、屈んでと言いたげに頭へ手を伸ばしたので応じる炭治郎。花冠が炭治郎の頭に乗った事を確認してから、禰󠄀豆子はバッ!と音がつきそうな勢いでカナヲの外套を空へと翻した。
芳しい花の香りが広がって、炭治郎は顔を上げる。
「お兄ちゃん!お、おたんじょうび!おめで、とう!」
ひらひらと空に舞う色とりどりの花びら。
桜や雪が舞うような動きは炭治郎達、同期一同を取り込んだ。幻想的な光景に一同は目を奪われる。
「禰󠄀豆子…お前覚えて…」
「うん!」
おめでとう!と禰󠄀豆子は炭治郎に抱きつく。これもお兄ちゃん!と玄弥からタラの芽がたくさん入った羽織の包みも貰って彼へ見せていた。
「兄ちゃんの好物だ…こんなにたくさん…。
そうだ、今日だった。俺の誕生日。
禰󠄀豆子…っありがとなぁーー」
「ありがとなー!」
嬉しさのあまり禰󠄀豆子を力一杯抱きしめ返して答える炭治郎。よしよしと幼子をあやすように頭を撫でてあげると禰󠄀豆子はただただ嬉しそうに笑った。
「えっえっ炭治郎今日誕生日なの!?!?!?
どうしよう!?俺何も用意してないよ!?
炭治郎が誕生日って事は義理のお兄さんの誕生日って事でしょ!?ちょっと!!ちょっとちょっとちょっとぉ!!?俺がちゃんと祝わなきゃダメなやつじゃん!?」
そんな穏やかな竈門兄妹を遮るように言葉が紡がれる。一番最初に我に返ったのは善逸だった。゛待ってて!宇髄さんから三味線借りてくるから!!!゛と宇髄邸へ一目散に駆け出す。
「たんじょおびってアレだろ!?天ぷらたくさん出るやつだよな!誕生日の奴に一番の貢ぎモンしたら天ぷら食べ放題って紋逸言ってたぜ!こうしちゃいらねぇ!」
゛俺は親分だから子分に一番のピカピカのどんぐりやらねぇと!゛と同じく我に返った伊之助が続く。何やら善逸から聞いた誕生日を自分の都合のいいように捉えて誤解しているようだ。禰󠄀豆子が先程まで花とタラの芽を取りに行っていた林を目掛けて飛び出す。
「あ…っあ…っ、アオッ、アオイ!!
アオイにっ言って!!くる…!!」
二人の様子を見てようやっと考えがまとまったのか振り絞るように今度はカナヲが声を上げた。炭治郎からタラの芽が入った玄弥の羽織の包みを受け取って蝶屋敷へと向かっていく。
「……。」
「………。」
残されたのは炭治郎、禰󠄀豆子、玄弥の3人。
ぽつん…と先ほどの騒がしさから一転、静けさがあたりを包み込む。いたたまれなくなり、静寂を打ち破ったのは゛あーっと…゛というぶっきらぼうな声。右手で己の左頬を掻く玄弥だ。
「誕生日、とか知らねぇし…俺は何も用意出来ないからな」
「あ、うん。いいんだ別に!禰󠄀豆子だけでも俺は十分だから…!!」
「いやアイツらはそうもいかねぇだろ。ちゃんと受け取れよ」
歯に衣着せぬ言い方はいつも通りの玄弥だ。嫌味などではなく、心の内をそのまま伝えている。まだ少しだけ混乱している炭治郎は自由になった両手で大丈夫だと軽く横に振った。
「まぁ忘れてんのお前らしいっちゃお前らしいし、俺も同じ事なりそうだしわからんくもねぇけどさ」
玄弥はふいっと少し顔を逸らす。何かを言いたげにしてる様子が伺えた。臭いを嗅げばわかるだろうかと鼻を鳴らす前に、やり取りの最中、兄と玄弥を交互に見ていた禰󠄀豆子がまた両腕を上げた。
「げや!だい、じょーぶ!かがむ!」
「え?何が?」
「かが、むー!」
「わかった!わかったって!」
ぐいぐいと玄弥の両肩を下に押すように力を込める禰󠄀豆子。言われた通りかがむと禰󠄀豆子は自分の頭に乗せていた花冠を玄弥へと移した。玄弥が作った花冠だったので飽きてしまったのか?と玄弥が少ししんみりしているとふん!と意気込んだ禰󠄀豆子が少し大きくなる。鬼の力によるものだ。
それから難なく玄弥を横抱きでひょいと持ち上げては、ぺいっと軽い音が似合いそうな勢いで炭治郎へ移す。
「は?」
「うわ!?禰󠄀豆子!?危ないじゃないか!?」
あまりの急展開に首ねっこを摘まれた猫のように固まる玄弥。渡された玄弥を炭治郎は落とさず、同じように横抱きで何とか受け取る。全集中の呼吸が出来ててよかったと頭の片隅で考えた。そんな兄達の様子を見てにこーっと禰󠄀豆子は笑う。
「お兄ちゃん!あげる!うれしいねぇ、ねぇー!」
「ねず…ッ!」
「お兄ちゃんつくって、くる!ばい、ばい!」
それだけ言い残して禰󠄀豆子は蝶屋敷に向かっていった。カナヲ達の元に行ったようだった。言葉が詰まった炭治郎は珍しい。
そろりと彼を見れば恥ずかしさなのか何なのかわからないが、普段玄弥が女性に対して自然と出てしまう赤面顔が見えた。コイツでもそんな顔するのかとつられてカーッと玄弥の顔も赤くなる。
「(いやそれもそうか、花冠つけられてるもんな)」
玄弥は状況を思い返して思わず顔を覆った。
「すまない玄弥。多分禰󠄀豆子、贈り物がないなら玄弥がなればいいんじゃないかってやったんだと思う」
「…お前らホントどうしてそうなんだよ」
「うん…禰󠄀豆子に悪気は、ないんだ」
炭治郎に声をかけられて玄弥は指の隙間から様子を伺った。顔の赤みは落ち着き、ほんの少し気恥ずかしそうにしているが、一向に炭治郎は降ろそうとしなかった。
何が恥ずかしくて六尺程の身長と顔に傷が走り人相悪い男が、人当たりの良い五尺程の男に横抱きにされればならぬのか。
もう嫌だと顔を覆ったまま、玄弥は後ろへのけ反った。禰󠄀豆子どう乗せたんだ。花冠全然落ちないぞ。炭治郎も横抱きの状態を維持している。全集中の呼吸、ずるい。
「ーー知ってるよ。悪気ねぇ事くらい。
お前がいっつも頑張ってる事くらい」
「玄弥?」
玄弥の顔は炭治郎から口元しか見えていない。何か吹っ切れたようにぽつぽつと玄弥は言葉を続ける。
「炭治郎にとって贈り物なんだろ、今の俺。
わかったよ。俺に出来る事なら一つ聞くよ」
゛それでいいか?゛と頬にだけ彩りを残して落ち着いた赤い顔が炭治郎を見下ろす。いい加減、支えるのも辛いだろうと右手は炭治郎の右肩へ。左手は顔を向けようと襟元近くの羽織を掴む。炭治郎は目を大きく見開いていた。
「我儘くらい言ったってバチ当たんねーよ。
善逸達の前じゃ遠慮してんのも知ってる。
俺に遠慮しなくて、いい。
…最終選別も、刀鍛冶の里も、兄貴の事も。世話なったのは忘れてねぇし、それで応えれるなら応えてぇ」
その気持ちに嘘はなかった。誕生日の贈り物を準備出来ないと伝えたのは炭治郎を喜ばせるような贈り物が思いつかなかったからだ。
禰󠄀豆子からになってしまうが、自分が贈り物になり得るなら応えてやりたいと思える程に、少なからず玄弥は炭治郎の事を気にかけていた。言い終えて気恥ずかしくなり炭治郎から顔を逸らす。
「ーーわかった。玄弥」
ややあってから炭治郎は答えた。真剣な声色に何を頼まれるのが玄弥に緊張が走る。横抱きからまだ解放されないのかと思っていれば耳元から感じる体温と、
「じゃあ、今日一日だけでいいから。
俺の弟になって欲しい」
そっと吹き込まれるように続いた言葉。
炭治郎の顔は見えなかった。
*
約束事をいくつか伝えられた。
一つ、強制ではない事。可能な限りで構わないと玄弥を下ろしつつ炭治郎は言う。
二人きりの時の方が都合がいいか?と問われ玄弥が頷くと頑張ると答えてくれる。
二つ、呼び方について。兄貴や兄ちゃんは実の兄、実弥への呼び方だろうから区別をつけようと言った。俺の事は禰󠄀豆子と同じようお兄ちゃと呼んでくれと彼女から貰った互いの花冠を外しつつ炭治郎は寂しげに笑う。その表情にあぁそうだ。炭治郎は下の弟達を全員亡くしているんだったと玄弥は思い出した。
三つ、弟役だが玄弥は玄弥のままでいて欲しい。それは炭治郎の希望通りの弟となり得るのか?と疑問を抱いたが本人が望むのであれば受け入れるに他ならない。
「わかったよ。………お、にい…ちゃん」
「うん。偉いな、玄弥は」
段々と声は小さくなってしまったが、炭治郎は満足げに笑っている。先程までカナヲと禰󠄀豆子の姉ごっこに付き合っていたのだから、今度は炭治郎との兄ごっこへ変わるだけだ。
禰󠄀豆子と同じように手を伸ばしてきたので、意図を汲んで屈むと頭を撫でてくる。お前、ほんとに好きなと小言を言うもされるがままを甘んじる玄弥だ。
じゃあ皆の所へ行こうかと今度は手まで出してきたので一度戸惑いを見せたが、俺は今炭治郎の弟役と頭の中で繰り返して炭治郎の手を握る。一つ目の約束を守ってくれるのであれば、蝶屋敷に向かうまでの辛抱の筈だ。
「あのさ玄弥」
「……おう」
「花冠、よく似合ってた。可愛かったよ」
それは弟に言う台詞なのか?
炭治郎が前を歩いていてよかったと玄弥は顔を俯かせる。再度耳まで真っ赤になった玄弥の顔は強く唇を噛み締め、横一文字に引き伸ばされていた。
アオイを筆頭に蝶屋敷の面々と禰󠄀豆子が協力して作った夕飯は炭治郎にとって豪勢なものだった。
主菜であるタラの芽は伊之助が言うように盛大な天ぷらとして盛り付けられていて、三味線を持ってきた善逸が巷で流行りだという誕生日の歌を贈ってくれた。禰󠄀豆子ちゃんの誕生日にも贈るからねぇ〜!!とアピールも忘れない。伊之助もピカピカのどんぐりを見つけたようだ。両手いっぱいのどんぐりを取り出してはアオイから虫抜いてないじゃないですか!と怒られる。一旦預かりますと没収されてしまっては天ぷらを恨めしそうに見ていたので炭治郎は苦笑いだ。大丈夫。食べていいよと伝えると元気に笑い出す。
「皆、ありがとう。凄く嬉しいよ。
アオイさん達の料理も冷めない内に食べよう」
いの一番に座ろうとする伊之助をアオイが再度止める。゛しのぶ様゛と言う魔法の言葉の力は凄まじい。カナヲから好きな所に座っていいと伝えられる。炭治郎が座った場所は両隣が空いており、炭治郎から見て右側に禰󠄀豆子が駆け寄って座った。
「じゃあ反対側は俺が座らなきゃなぁ〜未来のお義兄さんにお酌しなきゃだし!」
「あ、ごめん善逸。そこ決まってるんだ」
いそいそと近寄ってきた善逸へ炭治郎は断りを入れた。背もたれへ体重を預けて名前を呼ぶ。
「玄弥。隣においで」
控えめにだが輪に入っていた玄弥へ炭治郎は笑いかけた。あれ?呼びかけ方なんかおかしくない??心音がとても甘ったるい音がすると疑問に感じる善逸。そのまますぐいつも通り玄弥がぶっきらぼうに怒るだろうと思っていれば、恥ずかしさから赤い顔をしつつもすんなり玄弥は炭治郎の隣に座った。
そっぽを向いているが無言で逃げる様子もなく。
えぇ…?何これえぇ…?と困惑する善逸。音を聞くのが怖すぎると聞き耳を立てるのはやめた。
両隣が決まったので他の面々も座り、食事の挨拶を済ませ各々食べ始める。
「玄弥、あまり食べてないじゃないか?
タラの芽苦手か?」
「いや事情お前知ってるだろ…」
和気藹々と食卓が進む中、そんな声が聞こえる。炭治郎の言葉へ天ぷらに目がない伊之助が立ち上がって玄弥の天ぷらを取ろうとした。こら!と炭治郎が怒り、アオイが食事中に立つのは行儀が悪いと注意を行う。それでも取ろうとしたので魔法の言葉゛しのぶ様゛を唱えるとようやっと伊之助は席に戻った。
「じゃあ伊之助に取られる前に俺が手伝うよ。
隣の席だしさ。はい玄弥。口開けて」
玄弥の天ぷらを小さく切り分けて口元に運ぶ炭治郎。流石にこれは玄弥でも怒るだろう。ははんとほくそ笑い、次に来るであろう声を聞かないように耳を塞ぐ善逸。
ところが。
真っ赤にして声と言葉にしては出てなかったが、葛藤するように悶絶してから意を決して玄弥は炭治郎からの一欠片を食べたのだ。
「あとは、ちゃんと、食べるから……。
手伝わなくて、いい」
「食べれて偉いな玄弥は。
いつでも手伝うからな」
予想外すぎて善逸も困惑のあまり皆の声が遠くに聞こえる。カナヲや禰󠄀豆子が負けじと姉ごっこを続投して、お姉ちゃんのもあげると玄弥とやり取りしているが、善逸はそれどころじゃなかった。
何が悲しくて隣の野郎共のあーんを見なきゃならない?
そんな気持ちでいっぱいであった。心音を聞くのが怖すぎる。もうこの二人の今日の分は聞かないと天ぷらを奪いに来た伊之助との攻防戦に移った。
食事が終わると善逸と伊之助は任務へ向かう運びとなった。名残惜しく禰󠄀豆子に善逸は泣きつきながら。彼女からがんばれ!と見送られるとやる気を出して双方蝶屋敷を後にする。
残りの面々は特に任務もなかったので、そのまま蝶屋敷に泊まってくださいとアオイ達のご好意に甘える形となった。
善逸達がいなくなった後、カナヲが禰󠄀豆子を連れてお風呂に向かう。そのまま一緒に寝るようで別れを告げられると炭治郎と玄弥の二人きりとなった。
「俺たちも行こうか、玄弥」
いつもより多く名前を呼ばれ、手を繋がれる。弟とそんなに手を繋ぐものなのかと疑問が続くが、竈門家の兄妹事情は不死川家の兄弟事情とはまた違うのだろうと。俯いた顔のまま頷いてゆるゆると玄弥は炭治郎の手を握り返す。
「お兄ちゃんとお風呂、入ってくれるか?」
「ーー今更だろ、お兄ちゃん」
大方、禰󠄀豆子を見て羨ましくなったのだと玄弥は気を逸らそうとしていた。そっぽを向いたまま手の甲で口元を覆う彼を炭治郎は引き連れていく。
今度は差し支えることなく呼べたのだけは幸いだった。
浴室内で兄呼びを求められはしなかった。約束事もあるだろうがそれよりも炭治郎は思い出話に花を咲かせる。やれ竹雄の頭を洗ってやったと玄弥の髪に触れながらいい、末の弟・六太は体をくすぐりながら洗ってやったのだと玄弥の体の傷を労わりながら体を洗った。
玄弥の方も時には行水に近かったが、弘やことの水遊びを諫めつつ、就也の体を冷やさないように手早く体を洗った思い出を伝えながら体を。そして長らく兄の髪を洗っていないとぽつりと溢しながら炭治郎の髪を洗った。
「大丈夫。いつかまた一緒に入れるよ。
お兄ちゃんがそれまで側にいてやるから」
肩が触れ合う程近く隣り合って湯船に浸かり、炭治郎の肩へ玄弥の頭が抱き寄せられる。肩から後ろへ回された腕はとんとんと軽く頭を撫でている。
普段の身長差であればこうはいかない。広い湯船で姿勢を崩した故に成せる触れ合いであった。
「ありがとな。炭治郎」
相変わらず顔は見えやしないけれど。
兄とは違う長男の接し方に心が暖かくなったのは湯船の水温だけではないのだろう。
あと一つだけで終わるからと入浴を終えて告げられる。炭治郎が手を伸ばす前にどうせ繋ぐのだろうと玄弥から手を差し出した。
「連れてけよ」
誰か来たら離すからと一言断りを入れて炭治郎は玄弥の手を取った。いつもと違う柔らかな笑みを浮かべる炭治郎の顔は寂しげかまたは切なそうにも見える。一体この長男はどれ程までに我慢を強いられてきたのだろうと連れられる道すがら玄弥は少しだけ強く炭治郎の手を握り返した。
「これで最後な。お兄ちゃんと一緒の部屋で寝て欲しいんだ」
通されたのは禰󠄀豆子が蝶屋敷で滞在する時に使用する一室だった。個室になっており、最早竈門兄妹の部屋と言ってもいいだろう。俺が布団を使うから玄弥は寝台にと言う炭治郎へ逆だろと玄弥は手早く布団を引いて断りを入れた。カンテラの明かりを小さくしつつ、布団と寝台にお互い入り込んだ。
他愛のない今日や近々の世間話をしていけば、話題は部屋に吸収されてしまいしばらく沈黙が続く。
「玄弥。寝ちゃったかな」
布団が動く音。玄弥も同じく寝返りを打って斜め上にいる炭治郎を見上げた。炭治郎は体ごと此方へ向き直っている。
「寝てねぇけど」
「夜更かしだなぁ。寂しいか?」
日付はまだ変わっていない。ふふっと兄を演じ、笑う炭治郎に玄弥はむくりと起き上がった。掛け布団を半分に折り畳んで炭治郎の寝台脇に向かう。
「寂しいの、炭治郎じゃねぇか?」
膝立ちになって寝台の敷布団に顔だけ乗せる。そっと掛布団の下から見える炭治郎の手へ自分の手を合わせた。慣れてきてしまったようで、もう緊張も何もない。自然と触れられる。
なぁ炭治郎と玄弥は疑問を問いかける。
「お兄ちゃんは一緒の寝台で弟と寝なくていいのかよ?」
「…日付跨いじゃうからさ。いいんだ」
「あっそ。じゃあ質問を変えるぜ。
何で弟になってくれって言ったんだよ?」
部屋を灯すのは薄暗がりのカンテラの灯りだけだ。だが、二人が互いの顔を見るには充分な明るさだった。普段は後ろにならしている玄弥の髪は前へ降りているので、炭治郎にとっては違う印象を受ける。最終選別の時より長い髪は当時より大人びた顔つきだ。純粋に知りたいだけだと思いながら、炭治郎は合わせられた己の手を翻してはきゅっと彼の手を優しく包み込んだ。
「弟ってさ、大体はいつも兄ちゃんの近くにいてくれるから」
悪い事をしているのは承知で、叱られるのを待つように笑う炭治郎がそこにはいた。握っていないもう片方の手を伸ばして玄弥の頬に手を合わせる。此方を見てて欲しいと言わんばかりの行動だ。
「玄弥ともっと一緒にいたかったんだ。もっと話したかったんだ」
だからありがとうと炭治郎は礼を述べて終わらせようとしている。そんなのは勝手だと玄弥は思ってしまう。
「それ弟じゃねぇとやっちゃ駄目なのかよ」
玄弥は炭治郎を真っ直ぐ見つめて答えた。頬に寄せられた手も、反対の手と同じく上から己の手でそっと触れる。
「いいよ」
「え?」
「炭治郎なら俺、いいよ。
もっとお前の色んな事も、知りたい」
胸の内は水が穏やかに流れるような静けさだ。恥ずかしさや逸る気持ちもなく、自然と零れ落ちた言葉は自分でも内心驚く程だった。
知りたい。自分の知らない炭治郎の事を。
普段は見られない赤くなった顔も。
善逸達に向けるものとは違う兄の側面も。
同世代の炭治郎自身の気持ちも、知りたい。
「ーー俺も玄弥の色んな事をもっと知りたい」
゛ずっと前かと小さく呟いて炭治郎は上体を起き上がらせた。玄弥へと近づいて、頬に触れていない側へ耳打ちをする。
「お兄ちゃん寂しいんだ。おいで玄弥」
脳に溶け込むかのように言葉が刷り込まれる。くらりと目眩でも起こしそうな甘美な響きだとも玄弥は感じた。こんな声も出せるなら、もし意中の女子でもいれば腰砕きにでもなっているのではないかとそんなことさえ思ってしまう。
ぐっと目と唇を噛み締めて心を落ち着かせる。は…っと短く息を吐いて求められた玄弥らしい弟の役へ徹する。
「仕方ねぇお兄ちゃんだな。
寂しくて寝れないなら心臓の音でも聞いたらいいぜ。寝かしつけてやるよ」
仕返しだと同じく炭治郎の耳元で声をかけた。
立ち上がると炭治郎が掛け布団をめくり待ち構えていた。カンテラの仄かな光が彼の赤い目を燃やしている。胸に火矢でも貫かれたのか心臓は名伏しがたい挙動を繰り返してる。音が早く鳴り響き脈打つのではなく、じわりと体全体へ広がり浸食されていくような感覚だ。次第に熱を灯せば、鼓動も早くなるのだろうと。
己を射抜く炭治郎の目。おいでと再度訴えかけている。玄弥は導かれるように近づくと腕を取られた。そのまま寝台へ片膝をつけば、きしりと軋む音が聞こえる。
応えてやりたい。望まれているのであれば。
声はなく、手が引かれた。同じ寝台に入り玄弥が掛け布団を持ってくると炭治郎がその胸へ擦り寄る。
「……、子守唄はいるか?」
「いや大丈夫だよ。この音で十分だ」
炭治郎の手が腰から背へ伝い、頸に触れられる。玄弥は迫り上がってくる感触に小さく震え、少しだけ背をしならせた。結果的に少し胸を前に出す形となってしまう。意識が其方に向くと炭治郎の耳が当たっているような感触があった。玄弥の言う通りに心臓の音を聞いているようだった。
顔が見られていないのが幸いだと玄弥は思う。
「お前、あったけぇのな…湯たんぽみてぇ」
「なら玄弥も寝れそうだな」
「お前が先に寝ろよな」
流石にもう脳の情報処理が追いつかなくなってきた。応えてやりたいという思いで動き、通常、考えればおかしいと思う行動も、即時断る行動も意に反して行ってきた為、疲労が玄弥に襲いかかる。人より少し体温が高いのか炭治郎の暖かさは幼い妹弟を抱いて寝ていた時の頃のようで、酷く安心感に包まれ眠りに落ちてしまいそうになる。
寂しいと言って寝台に招き入れた炭治郎の思いに応えなければと玄弥は微睡む意識の中、胸の内にいる炭治郎の頭を掻き抱くように腕を回した。見た目や体躯に反して酷く優しいその手で。
「玄弥」
遠くで名前を呼ばれた。
眠気が強くぼんやりとした視界ではうまく炭治郎を捉えられない。
昔、昔も兄に微睡む意識の中で名前を呼ばれた。優しい声だった。
でも今いるのは炭治郎だ。それだけはわかる。そういえば言い忘れてた。言わなければ。
「たんじろ…たんじょ、び…おめでと…」
両頬に触れる手に玄弥はくすぐったそうに笑って、擦り寄ってから意識をようやっと手放した。呼吸と共に口から体に巡る暖かさを感じながら。
時計の針が一つに合わさり、小さく燻っていたカンテラの火が消え落ちた。
*
窓越しに聞こえる少女達の声と鳥の囀りに玄弥は顔を顰めて覚醒した。お酒を飲んで目が覚めたら都合よく記憶は綺麗さっぱり無くなっている…鬼殺隊士にそんな事は起きえない。
寝落ちる直前は朧げな記憶だが他の記憶ははっきりと覚えており、何度目かになるが自らの顔を覆った。
「(あぁあああああ…っ!!くそ、くそくそくそ…っ)」
普段の自分なら絶対起こさない行動だ。何より自分の兄は一人だけなのだからと荒れる心を鎮めるように脳内で阿弥陀経を唱える。フゥフゥと短く呼吸を繰り返し、無理矢理落ち着かせれば、頭上には気持ちよい寝顔の炭治郎がいる。
「(どういう寝相してんだよ!なんで俺が炭治郎に抱きしめられてんだよ…ふざけんな!)」
未だに寝ている相手が恨めしい。全集中の呼吸で常中が使える者は寝ている間も呼吸を行っているとは知っていたが、がっしりと抱きしめられていては抜け出そうにも抜け出せない。
寝る前は俺がそちら側だったろうに!と一頻り怒りを自分の中で吐き出してから玄弥は状況の整理へと移った。
めくるめく昨日の記憶に格闘しつつ、その事を会話に持ち出された瞬間に全て゛兄ごっこは昨日まで゛と断りを入れてしまおう。
このまま起きるのが遅ければアオイ達が起こしにくる可能性があるし、何より炭治郎の腕の中にいる理由はもうない。起こして出してもらわなければ玄弥は炭治郎の腕の中から出る事も叶わない。
よし、炭治郎を起こそうと師直伝の反復動作を行って心を三度落ち着かせた玄弥。
「炭治郎、起きろ。朝ごはん食べるんだろお前」
「ん…」
ぺちぺちと軽く頬を叩くと鼻から抜ける小さな声が聞こえた。瞬きを繰り返し、゛げんと名前を呼んで炭治郎が起きていく。
まだ手を離して貰えていないので身動きは取りにくい。
「早くしろ。お前が……、は、離してくれねぇと俺、起きれないんだよ」
抱き締めてるからとは恥ずかしくて言えない。顔を合わせづらくなって視線を顔ごと逸らす。炭治郎はまだぼんやりとしているのか玄弥の言葉に反応はない。いい加減にしろと苛立ちを込めて玄弥が炭治郎の胸元を少し押した。
「聞いてんのか?兄ごっこはもう昨日までだろ!離せって!」
強めに押すと結果的に炭治郎の胸元に頭をつけるような体制になってしまったが仕方ないだろう。少しできた距離にようやっと離してくれるかと淡い期待を抱く玄弥。
「ーーうん。兄ごっこは昨日までだったな」
寝起きにしては酷く冷静な炭治郎の声に玄弥の視界が回った。
ぐるん、と蝶屋敷の天井と炭治郎が写る。
両腕はいつの間にか両耳隣にあり、動かせない。寝台に押さえつけられ、炭治郎に馬乗りされてると気づいた頃には″は?″と言う間抜けた声しか出せなかった。
「一日とかお兄ちゃんになれば諦めがつくと思ってたんだけどやっぱり俺、満足できなくなった」
玄弥が言葉を紡ぐより先に炭治郎が覆い被さる。至近距離まで近づいた顔は目しか見えず表情は伺えない。するりと手首を掴んでいる炭治郎の両手が手の平とせり上がり、玄弥の両手指を絡め取る。
唇が重なる。角度を変えて何度も優しく触れられた。
「やっぱり嫌だよ、玄弥」
唐突な出来事に鼻で呼吸をするのを忘れてしまった。息苦しさに体全体から力は抜け、目尻は熱くなる。滲んだ視界が涙で零れ落ちるとその涙ですら炭治郎の口で吸われた。
唇の触れた暖かさは、意識を手放す際のものと全く同じだ。
「実弥さんにもあげたくない。遠慮なんてしたくないんだ」
炭治郎の顔が見える。
切なそうに眉を寄せては柔らかく微笑んだ。
「好きだよ、玄弥。ずっと好きなんだ」
一等優しい声も愛おしげに見つめる様も見た事がなかった。
花が綻ぶような笑みは大人びているようにも感じた。
「玄弥がいいよって言ってくれたの、俺忘れないから。もっと俺を知ってもらいたい。知って欲しいな。だからーー」
炭治郎が耳元に寄った。
一呼吸置いて囁くように告げる。
「玄弥の事も俺にいっぱい教えてくれ」
知らない。こんな炭治郎を玄弥は知らない。
いや昨日、似たように囁かれたような気がするがそれでも酷く大人びた炭治郎を見たのは初めてだ。心臓は忙しなく脈を打ち、再度起き上がった炭治郎を嫌でも視界に捕らえてしまうと顔に集まる熱が増していく。
情を孕んだ大人びた笑みが降り注いでいる。
「可愛い。もう一回」
三度塞がれる口吸いにそうだコイツは昨日誕生日だったから少し大人になっちまったんだと頭の片隅で玄弥は思い、ゆっくりとほんの少しだけ吹き込まれる熱に応じるのであった。