となりのさねみさん隣に引っ越してきました!
不死川玄弥です!よろしくお願いします!
親元を離れて一人暮らしをする時にそんな言葉を夢見ていた。ドラマや漫画の世界では定番の挨拶で引っ越しそばを片手に挨拶回りもままある筈だ。
「玄弥、何ゆうとんのアンタ。今は表札に名前書いといたら悪用だってされかねんよ。
顔合わせたら挨拶はしたらええけど、しっかりと防犯はせんといけんよ」
昨今のプライバシー情報の取り扱いは厳しい。母の言葉に思い描いていた世界はやはり空想上のものかと生返事を返した。
マンションには隣り合う部屋もある。エレベーターが入ってる程だ。人数もいる筈だがライフスタイルが各々違うのだから驚く程に人と鉢合わせない。会ったとしても控えめに挨拶か挨拶しても返されないかだ。
雪国などであれば雪かきなどで顔を合わせ、一緒に行う事もあるだろうが都心にそんな出来事はない。せいぜいゴミ出し、出発時と帰宅時、エレベーターの同乗だ。
荷物が間違って届くというのもデータ管理が整っている昨今では少ないのだ。
「またいないなぁ」
決して薄くない隣への壁。異常に物音が少ない。よく鳴るのは日付が変わる深夜だが、玄弥が大学に向かう頃にはもう既に人の気配がない。本当に誰か住んでいるのだろうか?
住み慣れて半年が経つ。施錠を行なって大学へと向かった。
「(確かに人いんのかねぇと思ったけどよ)」
ない。これはないだろう。
玄弥は目の前の光景に頭を悩ませた。どうするべきか。コンビニバイトで貰った廃棄弁当ががさかざと袋を鳴らしている。
人が落ちていた。
正確には扉の前で力尽きて寝ているが正しい。死んではない。疲れ切ったような寝息がかすかに聞こえたからだ。
困ったなぁと思いつつ、怖いもの知らずの大学生はスーツ姿の男性へとしゃがみ込んだ。
深夜帯に帰宅する音から何となくそうではないかと思ったが、目の前の事態に確定してしまった。隣の住居人は所謂社畜と呼ばれる人間だ。綺麗な白髪が逆に心労故だとしたらいたたまれない。
自分も将来そうなるのだろうか。
まだ見ぬ未来へ不安を抱く。
「体、痛くなっちまいますよ。
アンタ、帰ってくんのいっつも遅いんだからさ」
控えめに声をかけても深い眠りに落ちた男性から言葉は返ってこない。はぁ、とため息。いいよな、母ちゃん。むしろ俺が気になってダメだわと心の中で謝って、玄弥は男性の肩をゆすった。
「起きれますか?起きて。これじゃ不審者なっちゃいますって」
部屋入りましょうと念押しで声をかける。ぴくりと眉が動き出し、開いた両目は濁った紫色をしていた。光か眠気か目頭に力が入り、睨み上げられる。
「うわ、イケメンと強面が共存した顔の暴力」
「あァ???…あ?」
思った事をそのまま口にしてしまうのは玄弥の癖であった。母や妹達からよく注意されていたなと思い返してきゅっと唇を引き延ばす。ヤンキー漫画で出てきたメンチを切るという事態は恐らく今の状況だろう。睨みつけてきた男性はようやっと事態を理解出来たのか困惑した声をあげていた。
「起きたなら帰れますね。よかったよかった。
はい、これ。廃棄弁当ですけど多く貰ったので。食べたら今度は部屋で寝て下さいね」
じゃあとあくまで軽く済ませる。
半ば強引にコンビニ弁当を押し付けて自宅へと戻った。
「………あんな社畜さんだったんだなぁ」
扉を閉めてすぐに施錠。習慣化した挙動の後、ポツリと溢れた一言。
隣からも扉が閉まる音と鍵が回る音がした。
「先日は悪かったな。怖かったろ。助かったよ」
めっちゃ穏やかに言うじゃねぇかこの人。
玄弥が初見で抱いた感想であった。
目の下に隈があるがやはり顔は整っていた社畜さん(とりあえず心ではそう呼ぶ事にした)は次にエレベーターで遭遇した。会釈をし、少し沈黙が続いたが告げられた言葉は暖かなものだ。玄弥も警戒を解いて顔を緩ませる。
「救急車とか呼ばなくてよかったですよ。俺、説明とか出来ないですし」
「…もう無理はしねぇ」
「それがいいと思います」
あれだけ生活音がしなかったのに他愛無い話もできるじゃないか。玄弥はなんだが嬉しくなってしまう。同じ階に付いて隣り合う部屋。じゃあまたと声をかけて扉を閉め、鍵を回す。
それから社畜さんと顔を合わせれば、挨拶と時折一言、二言差し当たり無い事柄を話すようになった。エレベーターやゴミ出しで会う他、無理をしないと言ったようにどうやら日中勤務帯の時間には帰れるようになったみたいだ。バイトがなく5講義目まで入った大学からの帰宅時でも鉢合わせる事が増えてきた。
いいぞ社畜さん。そのまま人間らしい生活をするんだと玄弥は何故か心の中で応援してしまう。それでもバイト帰りの深夜帯に鉢合わせる事や帰宅の物音が鳴る事はあったが。
そうして続いた名もなき隣人との関係性の最中、玄弥に困った事態が起こってしまう。
「母ちゃんさぁ…」
一人暮らしの学生は誰しも通った事があるだろう。仕送り爆弾だ。
あれもこれもと育ち盛りなのだから食べなさいと多く入る食料。保存が効くのであれば別にいい。野菜が少ないのは幸いだ。玄弥自身元々、実家にいる時から母や多くいる弟、妹の為に家事全般、特に料理は好きで行なっていたので消費は出来る。
出来るがこれは別問題だ。
「はちみつは使えねぇわ…」
実家近所のお姉さんは養蜂業を営み、主力商品は蜂蜜だった。大学を期に離れると話した時には゛絶対絶対また巣蜜のパンケーキ食べにきてねぇ〜!!゛と涙ながらに送り出されたのは真新しい思い出だ。
小さい用量ならばまだいい。飲み物などに混ぜれば何とか消費できるだろう。
だがそうじゃない。正規品の通常サイズの瓶が箱入りで二つ並んでる。
どうしてなんだ母ちゃんと玄弥は頭を抱える。この量は明らかにお菓子作りで使用する量だ。俺にとってお菓子作りはまだ未知の領域だ。
ごんと思わず壁に頭を当ててしまった。
少し薄めの壁でその音は確実に隣に響いただろう。うるさかっただろうかと我に返って壁から離れる。先程まで鳴っていた物音がぴたりと止まった。
「(どうしよ、謝るか…?)」
割と隣人の社畜さんとの関係性は出来ている。そう自負しているが、何がきっかけで起きるのかわからないのが隣人トラブルだ。冷や汗が流れそうになる玄弥へこんっと小さく音がなった。
どうした?と心配されるような音に感じた。
「(い、いい、かな?)」
こんこん、と玄弥もノックを返す。ここん、とまた社畜さんから音が鳴った。
いける気がする。勢いで生きている若者はその音に立ち上がり、玄関へと向かった。
鍵を開け放ち隣のインターホンを鳴らす。
ドアチェーンもかけずに開いた扉。
どうしてこんなに嬉しくなってしまうのか。
緩む口元のままあの、と声を絞り出した。
「はちみつ、食いません?」
社畜さんは大きく目を見開いていた。
段々とマシになった目の下の隈。意外とそんな表情もするのかと新たな発見に仕送りで多く貰ったのでと付け足して蜂蜜の瓶を差し出す。
「アンタからは貰ってばっかだなァ」
甘いの好きなんだよと嬉しそうに社畜さんは受け取ってくれた。触っていいか?と言う声にどこへ?と聞き返すより先に頭を撫でられる。
「(う、わ)」
こんな触り方も出来るのかと心音が跳ねる。
「今度、嫌じゃなきゃ礼させてくれ。
パンケーキでも食いにいくか?」
はちみつを持って行ったので誤解されてしまったようだ。それでも社畜さんが好きならいいかと二つ返事で答えた。
またあの合図で呼ぶと告げられる。
名前と連絡先を知らない隣人との付き合いが始まった。