I love youがわからない一日の最後。夕方のショートホームルームが終わると部活動や帰路に着く学生達を見送って教室に残る。軽い別れの挨拶や寄り道の予定など騒がしい声の中でもページを捲る手は止まらない。目で追う言葉は滑らずに一定のスピード感で読めるようになったのは嬉しい事だ。
「おい。いつまでいんだァ?もうこの教室は締めるぞ」
かけられた声に目線を上げた。静まり返った教室には自分と呼びかけた教師の二人だけだった。まっさらなページのような白い髪。顔には4本程しおりが刻まれている。玄弥は1.2.3.4…と残りページを数えてから再び教師へ向き直った。彼の奥に壁掛け時計が見える。
「すみません。もう少しだけ。あと5ページくらいなんで。
それにまだ時間じゃないですよね?」
「生意気言いやがってガキがァ…そんなモンより数学の勉強しろォ」
「あれ?不死川先生、俺のクラスは担当してないじゃないですか。なんで俺の数学の成績悪い事知ってるんですか?」
「…いつも名前あがりゃ嫌でも知ってらァ」
前の座席の椅子を回して゛不死川先生゛と呼ばれたは教師は玄弥の前へ座った。入学当初、自分と同じ苗字を持つこの教師と親族か何かか?と周りから聞かれる事が多かったなと思い返す。親族でもなければ兄弟でもない。夢も希望も面白みもない返答を繰り返せば周りの興味も次第に薄れたのだが、教師側はそうでもなかったようだ。その兼ね合いからか、玄弥は彼から教わる授業に割り振られた試しがない。
それでも同じように嫌でも耳に入る。厳しいと評判だが教え方は丁寧で、顔に走った傷は逞しい身体と共に頼りになる大人のかっこよさを引き立てていた。女子生徒かさねみ゛しなせときゃあきゃあ呼ばれている光景も玄弥は見かけてもいた。
ふふっと笑う玄弥へ実弥は片眉を上げる。
「先生は国語苦手そうっすね。筆者の考えを答えろーとか嫌そう」
「失礼な奴だな、テメェはよォ。当たり前だろうが。考えも何も答えを作中で述べとけってんだよ」
「物語より参考書ですか?」
「お前も数学の参考書読んどけェ。学生の本分だろーが」
「面白いですよ物語」
残り3ページ。律儀に待っていてくれる優しさに胸の内側は暖かくなっていく。家ではこうして静かに読書へ勤しめない為、この時間は玄弥にとって貴重なものだった。文の繋がりと拾われる最後の伏線。やはり面白いと最後のページへ辿り着く。
「な月が綺麗ですとかの言葉、先生好きじゃないですか?」
「言いたい事あんならはっきり言えやいい」
「男って感じでかっこいいですね先生」
違うクラス。普段関わり合いがないからか。更には授業ではない時間帯からか、気兼ねなく進む会話に玄弥の頬は綻んだ。読み終わった本を閉じて机の上に立てるように置く。その後ろに頭ごと隠すよう伏せて、横から顔を出してみる。
「俺は好きですけどね。言いたいけど言えない時とか。考える時間あるの、楽しいじゃないですか」
゛なんで先生に貸します゛と玄弥は本を実弥に手渡した。残り数分でこの教室が閉まる時間となる。
「俺、今読み終わったんで先生が終わったら返して大丈夫ですから」
手早く荷物をまとめ、教室の扉へ向かって歩く。扉を少し開けてから玄弥は帰りの挨拶をする為に振り返った。椅子を整え、教室内に忘れ物がないか見回る実弥がいる。
「先生、星が綺麗になる前に俺、帰りますね。
ありがとうございました」
最後の戸締りは教師の仕事だ。
玄弥は扉を開けたまま、帰路へと着いた。
*
「学校図書でも又貸しはダメだとよ。返却は自分でしろォ」
「え?先生もう読んだんですか??」
3日後の教室に実弥は本を持って訪れた。学校図書の司書とは知己のようで゛匡近が゛とぼやいていた。前回と同じようにもう少しで終わる本を閉じるまで実弥は居座るようだ。音を立てて椅子を回し、座る。
「星とか星座に例えるとか回りくどいんだよ。
目の前にいるなら手を伸ばしゃァいい」
「伸ばせれない事情もあるんじゃないですかね」
二、三個程、本の感想を述べて会話は終わる。今回の本が読み終わり、閉じると傍に前回の本が残っている。明日返しに行くかと目を向ければ表紙の後ろに何かメモが挟まっていた。
「あれ?先生。メモ取るの忘れてねぇ?」
「あぁ。それ宿題だ、お前の」
゛え?俺の??゛と玄弥は己を指差して聞き返す。実弥は頷いて今回の本を受け取った。パラパラとページを捲る様子ですら様になる教師はそうそういないだろう。
「虹が綺麗なんですよ。その本」
それだけ告げると実弥は満足げに笑って立ち上がった。時間だと、帰れと促され、玄弥は教室を後にした。
゛14210596゛
と紙には書かれていた。流石は数学教師。数字は言語という事だろうかと自宅のベッド上で玄弥はメモと睨めっこを続ける。
数日後。同じように本の感想と玄弥が読み終わるまで施錠を待つ実弥へヒントを求めたが教えてはくれなかった。同じように数学の参考書でも読めばいいと言うが、それで答えが出るとは玄弥には到底思えなかった。
変わらずメモを挟んだ前回の本を置いて、今回の本を受け取る教師に対し、玄弥の宿題は増えていく。
「先生以外と優しいですよね。暖かいですね」
「あれは数式じゃねぇ」
2枚目は゛931014231゛。
「日が暮れるの早くなってきましたね。夕陽が綺麗ですね」
「わかりゃ誰でも解ける」
3枚目は゛93238231゛。
3枚並べてみても規則性はない。困ったなと頭を悩ませ続けていた。
転機が訪れたのは日直の仕事で職員室まで書類を運んだ時の事である。公民の悲鳴嶼先生と共に職員室に入り、プリントの束を置いた際に学園のマドンナ・胡蝶先生が電話の取次を伝えてきた。指が大きいこの教師は番号を押す時、隣のボタンも押す事はないのだろうかと考え固定電話を見る。
「あっ!!!!!」
思わず大きな声を上げてしまい、急いで口元を両手で覆った。職員室内に当事者がいなかったのが幸いだ。手早く頭を下げて謝ってから飛び出すように扉を開ける。
「コラァ!!!不死川!!走るなァ!!」
「ごめんなさい!!!無理です!!」
足を滑らせつつ廊下を駆ける。不幸中の幸いか、叫んだ不死川先生は何故か追いかけて来なかった。教室へ戻り、カバンから3枚のメモを取り出す。向かったのは苦手な女子の中でも話す事ができるカナヲと梅の二人の元だ。梅ならばきっと知っているに違いないと確信を持って玄弥は向かったのだ。慌てた様子の玄弥に二人は何事かと困惑しつつ話を聞く。
「なぁ…っ数字でっなにっか、言葉伝えるのってっ流行ってたり…っスマホ打ち込みとかっで、あるか…っ」
息絶え絶えに告げて行き着いた法則を述べれば手早く二人は調べてくれた。調べれば簡単な事なのだ。今まで自分の力で解こうと躍起になっていた己に気がつき玄弥は恥ずかしさで顔を赤くする。
メモを見せて。数字を見比べて。メモの下に答えを書き出して胸元を握りしめる。息苦しさだけではない胸の締め付けが切なかった。
「ふーん?随分ダサい事してんのね。
ならこれ教えてあげるわ」
だから頑張んなさいとしたり顔で梅は笑う。
書かれたメモにカナヲと玄弥は目を落とした。
「本はもう読まねェのかい?」
下駄箱で上靴から外靴に履き替えて扉を出れば雨が降りしきっている。学生玄関から教師が帰る事もあるのかと隣に立つ教師へ玄弥は目を向けた。
「テスト期間もありましたから。」
「そりゃいい。ようやっと学生らしくなったか」
斜めがけの黒い鞄。シンプルな透明のビニール傘。実弥のボタン一つで傘は大きく花開いた。
「雨が降ってますね」
「止みそうにねェなァ」
持ち上げられた傘は玄弥を取り込む。
近づく距離を隔てるのは中棒とハンドルだけ。
「傘持たねェ生徒を帰して風邪ひかれちゃ困るンだよォ」
送ってやると実弥から告げられれば、どちらともなく歩幅を合わせた。ビニール傘から雨粒を弾く音が響いている。雨の中、出歩く人は少なくなるものだ。肩が触れ合うほど近い距離をとやかく言う外野はこの帰路にいなかった。
「不死川先生、俺、メモの意味、多分わかりました」
ぎゅっと通学用の鞄紐を握って玄弥は告げる。止まった足取りに実弥も合わせると傾いたビニール傘からは水が滴った。玄弥の肩にかからないよう思わず引き寄せれば、意を決したような顔とも、不安げな顔とも取れる彼と目が合う。
「ーー先生、明日は晴れますか?」
雨音が遠のく。間隔を開け、まだらに奏でるビニール傘の音がまだかまだかと心臓の音を早める。すると実弥は胸元からメモを取り出した。
「それが解けるまで答えてやる事はできねぇな」
手渡されたメモを玄弥は開く。
゛128√e980゛。
あぁ、やっぱりこれだった。
「雨上がったな。この後ずっと晴れるだろうよ。一人で帰れるな?」
閉じた傘の音に我へ帰った。玄弥の答えを聞かぬまま、片手を上げ、別れを告げて実弥は歩き出していた。メモと彼とを見比べて迷いを断ち切るように玄弥は先生の背へ名前を呼びかける。梅とのやり取りの記憶を辿りに、メモの上側を実弥へ見せるように折りたたんだ。
「今もう解けたなら、答えてくれますか?」
玄弥の手にあるのは小さなメモだが、その文字は目視で認識できる距離に実弥はいた。ふっと柔らかく笑って彼は玄弥の元へ歩み寄ってくる。
「一枚目゛14210596゛」
「゛一緒にでかけ」
「2枚目゛931014231゛
「゛君と一緒にいた」
「3枚目゛93238231゛」
「゛君の側にいた」
「今渡したやつ」
「゛…Iloveyou゛」
一枚目ごとに実弥の傘の石突きが地面を叩く。まるで正解と言われているようだった。メモを半分程に折ったまま、玄弥はそれを掲げ続けていた。両足が揃う音を最後に実弥は玄弥へ笑いかける。
「全問正解の奴には応用問題出してやらねェとなァ。特別授業、来るだろ?」
「…宜しく、お願い、します」
「あいよ」
玄弥の頬を撫でる実弥の口か月が綺麗なのも案外悪くねぇと出れば、゛寒いですと玄弥から申し出がある。少し拗ねたように唇を尖らせる彼へ雨降ったから寒くなったなァと強く実弥は抱きしめた。