となりのさねみさん:相席のさねみさん同じ合図で呼ぶと言われてから数週間は過ぎただろうか。
変わらずゴミ出しやエレベーターの同乗で一緒になるが例のお誘いの話題がない。此方から言うのも手だが、向こうは社会人で此方は学生。都合というものもあるだろう。
例え玄関扉前で限界社畜の挙句に意識を飛ばしていた人だとしても。
「社畜さんかっけぇから彼女いんよなぁ」
ズルルルルッ。
学生にも社畜にも大人気、心強い味方・カップラーメンを啜りながら玄弥は一人部屋の中で呟いた。
*
仕送り爆弾の最大処理、蜂蜜はようやっと瓶底が見えようとしていた。甘かった。本当にひたすらに甘かった。実家近所のお姉さんの蜂蜜は格別とは言え本当に辛かった。
牛乳、紅茶に混ぜ、パンに塗り、なんなら酢豚のパイナップルの如く料理に混ぜてようやっとここまできた。
電気ケトルから軽快なリズムが鳴り響けばお湯が湧き上がる。最後の一掬いは豪快に。夏の暑さと秋口の寒さが忙しない気温に立ち向かう為には特製ドリンクだ。市販の生姜チューブとレモン汁、そこにたっぷりの甘い蜂蜜をスプーンごと入れてかき混ぜる。程よく混ざり合ったのを確認してコップに口をつけた。
風邪を引くと学生でも色々と面倒なので対策出来るのであれば越した事はないのだ。
ここんっ。
「ぶっ!?んぐっ!!!ぶっ!!!?」
吹き出した。袖口で思わず口元を拭いてしまい慌ててティッシュで机ごと拭き直した。
誰だ蜂蜜多く入れたやつは。微妙に粘つくじゃねぇか。俺だわ母ちゃん。
「(鳴った、鳴った…よな!?)」
聞き間違えではないとはやる気持ちを抑えながら玄弥は咽せた自身を落ち着かせる。すーはーと変に緊張しながらも呼吸を整え、社畜さんへと続く壁へノックを二つ。前回と変わらず…いやどこか軽快な返し音を聞いて玄弥は立ち上がった。
「(やべぇ。手汗どころか蜂蜜で粘ついてんじゃん)」
玄関近くの台所で手を洗っているとチャイムが鳴った。シンク側にかけた手拭きタオルで水気を取って゛はぁと間延びした受け答えを玄関に向けて放つ。
「こんばんわっす」
「おう、いたな」
「いなくてノック返してたらアンタ幽霊と話してますよ」
あの時とは逆で社畜さんは初めて玄弥の家へ訪れる。ドアチェーンは同じくかけていない。ちらりとチェーンへと写った相手の視線が不用心だと険しくなっていたが゛だって合図あったかと答えると無骨に頭を撫でられ揺らされる。
エレベーターの時やゴミ出しなどで時折撫でられていたがついに断りもなくなったか。だが玄弥の中に怒りの感情はなく、その手に擦り寄ってへへっとくすぐったく笑ってしまった。実家では長男である玄弥は、誰かに撫でられる機会が少ないのだ。
「お前、次の休みか予定がつく日はあるかぃ?」
「パンケーキ、本当に食べるんですか?」
「蜂蜜貰ったからなァ」
゛いい店を知ってるんだ゛とくしゃくしゃになった髪をといて告げられる。
うわ、絶対モテるわこの人。え?言葉に出てる??
そんなやり取りをして玄弥は次の日曜日に社畜さんとパンケーキ屋へ向かう事となった。
*
「……アンタよくここ来ようと思ったね」
「学生大好きな映えにうまいパンケーキ。
一石二鳥でいいだろ?」
最近人気が出てきたパンケーキ店。待ち時間は然程長くもなく席に座れたが、見渡す限りの女子女子女子。時折男子。しかし子供。昨今は男女平等、スイーツ男子なるものもいるが隙間を縫うように数多の視線は玄弥達二人へ突き刺さる。
「(まぁそうだよな社畜さんかっけーし。あれか、そうか。彼女さんのデートとかデート下見で俺呼ばれたとかそれか)」
所詮は他人。赤の他人と己に言い聞かせて先に来た葡萄ジュースのストローを噛みつつ息を吐き出す。ぷくぷくと炭酸以外にも気泡は液体内で丸く浮かび上がっていった。
幽霊など信じていないし、目の前の強面社畜さんにも物応じしない玄弥だが、異性こと女性は未だに慣れなかった。
きゃあきゃあと黄色い声をあげて届いたパンケーキを写真に撮る音。社畜さんをチラチラ見る視線。目立ってんなー…と思えば目の前に注文の品が届いた。
「あーこれだこれ」
「ほんとにそれ食べるんだ…」
「あァ???当たり前だろ」
たっぷりのホイップクリームと秋の和フェアと称され餡子や抹茶でデコレーションされた三段のパンケーキ。嬉々として口元を釣り上げて笑う社畜さんは嬉しそうだと思う反面、隈は無くなっても充血して血走った目は顕在だ。目の前の白熊ちゃんパンケーキが心なしか恐怖で揺れた気がした。続けて半ば勢いで注文してしまった玄弥の元にもチョコレートベースのソースやホイップクリームがデコレーションに使われた黒猫を模したパンケーキが届く。品物も揃った事だしとナイフを手に取れば待ったと社畜さんから声がかかった。
「勿体ねェだろ。せっかくなら写真撮ってやっからよぉ」
「いや別にいっすよ」
「蜂蜜送ってきた親御さんに見せてやんなァ」
゛ほら猫かピースしとけと社畜さんのスマートフォンカメラのレンズが向けられる。猫は流石に羞恥心が勝るのでピースに決めた。ぎこちなく笑ってしまった気がするので仕返しにと゛じゃあ俺とカメラを向ければ熊手のポーズをする社畜さんがフレームに収まった。
「顔真顔て」
「お前も半目だぜ」
互いに取った写真を見せ合って笑い合う。当初よりも砕けた口調やこうしたやり取りがいない筈の年離れた兄と接しているような気分を錯覚させる。ナイフで切ってしまう前に白熊と黒猫のパンケーキを撮り終えて口に運ぶと想像以上に甘ったるかった。玄弥自身、そこまで甘味が苦手ではないがそれでも甘すぎる。最後まで何とか食べれる、そんなレベルだ。
時折葡萄ジュースやお冷で緩和させながら相席の社畜さんを見ると大きな口を開けて美味しそうに食べている。餡子と生クリームだけをフォークで掬って食べている姿を見てついつい玄弥は言葉を溢してしまう。
「甘いの好きなんですね。俺、弟いるんですけどなんか弟達思い出しちまうなぁ。
アンタでお腹いっぱいなっちまいそうです、俺」
言葉通りに弟を思い出していたせいか゛口に生クリームついてますと思わず身を乗り出して彼の口元を手で拭ってしまった。ぴたりと止まる社畜さんを他所に甘そうだなぁとぼんやり考えながら躊躇なく玄弥は指に乗ったクリームを舐める。
口内に広がった味はやはり甘く、眉間に皺を寄せる玄弥へ深く長い溜め息が聞こえてきた。
「はーーーー…っおま、えはよ…っ。
モテるんじゃねぇか??」
「アンタの間違えじゃね??」
「アンタアンタって俺は…あァ、名前ェ。
忘れてたな。なァ写真も送るからよォ、連絡先教えてくんねェか?」
「ほらアンタのがモテるよ間違いなく」
゛これ俺の連絡先と共通のアプリ連絡ツールの登録画面が開かれていた。コード画像をカメラで読み込むと設定できる利便性は手軽そのものだ。カメラにアクセスし手早く連絡先を交換する。
「sanemi、さねみさん?」
「ふしかわ…ちげぇな、不死川か?はるやでなく玄弥で合ってるか?」
「合ってる合ってる。さねみさんの苗字は?」
「実弥さんで構わねぇよ」
アプリ内の登録名を確認し合って互いに写真を送り合った。展開されたトークルームに玄弥は一つ笑みを溢す。パンケーキを再度食べ始めた相手へ目を向ける。
「さねみさん」
「なんだ?」
「へへっ練習してみました」
真っ白い髪の毛はパンケーキに乗ったホイップクリームのようにも思えて。
名前というデコレーションがただただこの心地よさを彩っていた。