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    SuzukichiQ

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    SuzukichiQ

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    1回書きたかったあさぎりゲンの話。五知将揃い踏み。
    カップリング要素はないけどゲンは千空が好き、千ゲンでもゲン千でもない。龍羽生産ラインの気配があるかもしれない。
    空想科学的要素を含みます。

    スワンプマン(仮)【あさぎりゲン+五知将】

     どうやら俺には偽物がいる。

     そのことを知ったのは、仕事が終わって日本に帰国して、数日の貴重なオフを過ごしている最中だった。本職はマジシャンだっていうのに、本格的な復興プロジェクトが動き出してからというものの、相変わらず技術者や政府要人がいる場所に引っ張り出されては交渉役や調整役になっている。重要で責任の重い仕事が終わったあとの休息。開放感が最高だった。遅めの時間に起きて、外に好きなものを食べに行って買い物をして、最近充実しつつある本屋で新しい心理学の本を手に取ってみたりして、夕方になったら仲のいい人と待ち合わせ。
     羽京ちゃんも以前と変わらず俺に負けないくらい忙しい。そんで今もやっぱり美味しいものが大好きなので、仕事終わりに美味しいものを食べに行こうって誘うと大体乗ってきてくれる。今日もそんな感じで、前々から決めていた約束の時間に羽京ちゃんはやってきた。

     お店に入ってしばらくしてから「ところでゲンにこのまえ偶然会った時のさ」と羽京ちゃんが切り出した。その様子が珍しく気まずそうだった。「偶然会った時?」ちょっとびっくりしながら聞き返して、それと同時にこの前会った時に何やらかしたっけ、と思い出そうとしていた。何もやってないと言えばうそになるんだけど。
     待ち合わせたとか仕事とかじゃなく、最後に“偶然”会った時っていうのがそもそも随分と前のことだったはず。具体的な時期がぱっと思い出せないくらい。それを羽京ちゃんが「このまえ」って言う。このまえ?
    「ゲンは察しがいいし、誤魔化せるとは思ってないからそれはいいんだけど」
    「ん? うん」
    「見た時点でもう色々と気付いたかもしれないけど、まだ内緒にというか、口外はしないでほしいというか」
    「口外はしないでほしい?」
    「見なかったことに……はしなくてもいいけど、ほかの人には言わないでもらえると助かる」
    「うーん」
    「今日ゲンから追及されるのは覚悟してたんだけど、なにも言ってこないし、もしかしたら気遣われてるのかなと思ったんだけど、やっぱりこう、言っておかないと僕が落ち着かなくて。そのあたりまで察してくれてるなら本当に有難いんだけど、一応」
    「ううーん?」
     さっきから俺がものすごい生返事ばっかり返しているのに、羽京ちゃんはどうも余裕がないのか、はたまた俺の返事を全肯定だと思っているのか、違和感を持ってくれる様子がない。さすがにこれは俺から訊かなきゃいけないかあと思って、ずっと手に持ってたコーラをテーブルに置いて、ななめ向かいに座ってる羽京ちゃんの顔を覗きこんだ。
    「羽京ちゃん、だいじょぶ?」
    「大丈夫。たぶん。それよりさっきの話だけど」
    「あーうん、それね。俺もその話が気になってたのよ。訊いてもいいのか分かんないんだけど」
    「いや、なにも訊かないでほしい」
    「いやいやメンゴ、聞かせてジーマーで。俺ちょっとまだ分かんなくて」
    「いやいやゲンがまだ分かってないなんて無いでしょ。からかわないで」
    「ホントにお願いだから。羽京ちゃんが話してるソレ、どれのこと?」
     羽京ちゃんの表情が固まった。咄嗟になにか言おうとした口が半分あいたまま動いていない。驚いてるのか怒ってるのか呆れてるのか、なんにせよ新鮮な表情だった。
    「い」
    「い?」
    「言いたくない」
    「言いたくないい?」
     たいして広くない店に、俺の声が広がってしまった。まずいまずい。まだお客さんが少ない時間帯で本当によかった。
     羽京ちゃんは手に持っていたお箸をおいて、それで自分の口を覆い隠した。眉間にはすこし皺が寄っている。あ、これヤバいかもしんない。今の羽京ちゃんは、俺がジーマーでからかっていると思って困っているか、違和感に気付いて怪しんでいるかのどちらかだ多分。前者だったらちょっとヤだ。 
    「……ゲン。最後に会ったときのこと、どのくらい覚えてる?」
    「……羽京ちゃん、その質問に答える前に、俺も訊いていい? 最後に会ったのって、いつだっけ?」
     まじめに訊くと、羽京ちゃんは視線を右上にあげて何か思いだそうとして、恐る恐るといったようすで答えた。
    「先週……一週間前」
     羽京ちゃんも俺も黙ってしまった。
     一週間前。七日間前。
     いったいどういう冗談だろうと今度は俺が思ったけど、羽京ちゃんの表情は真剣だった。これは本気だなと分かって、俺も真面目に返すことにした。
    「俺さ、そのとき日本にいなかったよ」
     羽京ちゃんが俺のほうを見た。目を見た。前髪を見た。顔の輪郭を見た。テーブルのうえに置かれた手が、ぎゅっと握りしめられた。
    「……。ゲンに会ったよ。確かに」
    「俺のマネしてる芸人の可能性ない?」
    「真似なんて感じじゃなかったよ。街で偶然みつけて、今日は休みだって話してた」
    「俺じゃないよ」
     もう一回、奇妙な沈黙が通過した。
     先週は仕事でシンガポールにいた。いつも通り仕事をして、終わった後は見事に復元されたマーライオンを見て、きれいな街並みをドライブで眺めて、空港にいけばカワイイお姉さんから声をかけられてサインに応じたりしていた。記憶はバッチリあるし、写真も撮ってある。そのときの写真データや日付も羽京ちゃんに見せた。「本当だ」と羽京ちゃんは呟いていた。
    「どう? 俺のそっくりさんに会っちゃったんじゃない。そんでたまたま羽京ちゃんのこと知ってたとか」
    「けどその時にあったゲンは、今日の約束のことも知ってた」
    「……そんなことある?」
    「また来週よろしく、って別れ際のゲンに言われた。今日の約束のことだと思ったけど」
     視線がうろついた。テーブルのうえには、今日これから手を付ける予定だった数々の料理が置かれている。だいたい肉。生ハムだったりローストビーフだったり香草焼きだったり。この店を予約したのは俺だった。端末のなかには履歴も残っているはず。
     店内を見回した。俺たち以外の客は二組だけ。ちょっといい肉が食べられる店だからだろうか、いるのは仕事終わりっぽい若い人たちの賑やかなグループと、たぶん男女のカップル。それだけ。
     いったいどういうこと? 特殊なタイプのストーカーでもいるの?
     俺たちはしばらく、運ばれきった料理に手を付けないままで黙り込んでいた。

    「ゲン、今どういう可能性を考えてる?」
     先に料理に手を付けたのは羽京ちゃんだった。山盛りになっているローストビーフの数枚を自分の皿にとって、生ハムもとって、とりあえず野菜をってことで注文したポテトサラダとトマトも半分さらった。俺もなんとなく手を動かした。
    「……わかんないけど、詐欺とか」
    「うん」
    「あってほしくないけどストーカーとか」
    「それだと厄介だね……」
    「羽京ちゃんのことを知ってて、俺そっくりになれる人が近付いたとか。羽京ちゃん、会った時そいつに何かされてない?」
    「されてないと思うよ。会ったのは本当に偶然だったし、ちょっと話しただけでゲンも行っちゃったしね。用事あるからって」
    「用事って?」
    「そこまでは言ってなかったよ。……というかさ」
     自分の皿に取ったポテトサラダをきれいに片付けてから、羽京ちゃんはこっちを見た。
    「僕が会ったのは本当にゲンだったと思う。そっくりなんてレベルじゃなかった。服装も見たことあったし」
    「わあお……」
    「それにゲン今、左の腕ちょっと怪我してるよね。肘のところ」
    「怪我っていうか、内出血の痣だけどね。前にちょっとぶつけたときの。だいぶ消えてきたんだけど」
    「ああ……あのときの。それだよ、痣あったよ。僕が会った時のゲンにも」
     羽京ちゃんの表情は神妙だった。
     俺はそれでもなお、ほんの少しだけ羽京ちゃんを疑っていたけど、その表情がさっきよりも明らかに固いのを見て、それを止めた。俺は羽京ちゃんを疑うのをやめて、今までの会話を疑うのもやめて、最後に自分自身を疑った。ねえ俺、そんなこと本当にある? 先週の記憶と、実際にやっていたことや居た場所が違うなんてことありえる? いくら忙しいからってそんな勘違いする?
    「いや……いやいや。まさか」
    「僕もまさかとは思ってるけど」
     思わず声に出た。だけど記憶が違っていたら、さっき羽京ちゃんに見せた写真の説明がつかない。
    「本当に俺だったら、あさぎりゲンがふたりいることになっちゃうじゃん」
    「……まさかの双子説」
    「ない。ない。絶対にない」
    「じゃあ、何だったらありえると思う」
     俺はほとんど食べないままで皿をおいて、背もたれに寄りかかった。額に手を置いて、どういう場合にそんなことがありえるのかを考えて、考えて、考えあぐねた末に、
    「ドッペルゲンガーとか?」
     なんて言ってしまった。羽京ちゃんが隣で目を丸くしている。
     いや。でもドッペルゲンガーって表現だとなんか違う気がする。あれって確か、もうひとりの自分を自分自身で見ちゃう現象だったハズ。俺は自分では見てないのよ今回。ていうかドッペルゲンガーだった場合、もうひとりの自分の見ると死んじゃうみたいな都市伝説あったよね。科学的に説明できる事象じゃない気はするけど。ドッペルゲンガーの現象の可能性自体は、いちおう医学的には研究されてるってずっと昔よんだ本に書いてあったような……って今そういう問題だっけ?
    「ゲン」
    「あ、うん。ごめん」
    「……。先週会ったこと自体が僕の記憶違いだったら一番いいと思うんだけど、それはないと思う」
    「そうなの?」
    「その場でゲンに会ったのは、僕だけじゃなかったから」
     羽京ちゃんは、自分のポケットに仕舞っていた最新型の端末を取り出した。誰かと一緒にいたというなら、その誰かに確認を取るのが一番早い。そのまま確認するんだろうと思っていたら、端末を操作する羽京ちゃんの手が止まった。顔からスッと血の気が引いたのが分かった。
    「さっき僕に連絡した?」
    「……なんで?」
    「メッセージきてる。今日、来れなくなったって」
     俺は、テーブルに置いてある自分の端末を手に取った。羽京ちゃんに送ったメッセージの履歴をみる。俺の記憶が正しいなら、メッセージを送ったのは一昨日が最後だ。予約した店と、待ち合わせの場所を時間を送った。今日も会う直前で一回電話はかけているけど、メッセージは送っていない。
     画面を確かめる。
    「……ある」
    「え」
    「メッセージ。送ってる」
     実際に出てきたのは、つい一時間くらい前、俺から羽京ちゃんにメッセージを送った履歴だった。
    「ゲンからの送信時間って、合流するちょっと前だよね」
    「多分そう。俺は送ってないよ」
    「てことは、僕がこれを見ていたらゲンとは会わずに帰ってた可能性もある」
     どうしても外せない急用が入ったから、また別の日にしてほしいって内容。信じられないことに、言葉選びも何もかもが俺だった。もしも俺が急用のために今日の予定を断るなら、こういう言葉を選ぶだろうって感じの。俺の性格や思考パターンをそのままなぞって出てきた感じの、そういうメッセージ。さすがに鳥肌がたった。送った覚えのないメッセージだし、現実の俺は今ここで羽京ちゃんと会っている。それならこれを送ったのは誰?
     羽京ちゃんには、まだそこに返事は返さないでほしいとお願いした。返したときに何が起こるか分からない。





     羽京ちゃんと一緒に店を出て、とりあえず俺の家にきてもらった。別にひとりでも大丈夫だよって羽京ちゃんに言ったけど、こんな状態で帰っても何も手につかないからと言い返されて、それもそうかと納得した。俺が運転する車で、羽京ちゃんは助手席にいて、ずっと自分の端末の画面を見ていた。だけど特に新しいメッセージは来なかったらしい。
     去年から住んでいる部屋に羽京ちゃんをあげた。羽京ちゃんも初めて来るわけじゃないから何となく勝手がわかっていて、ソファに腰をおろす。俺は飲み物とおやつを用意しにいった。こんな奇妙な事態になっていても、お客さんをもてなすための動きが勝手に出る。そのくらいにはまだ落ち着いていた。
     羽京ちゃんがあさぎりゲンに会ったというのが一週間前。この街で、偶然。たいしたことは話してないそうだけど、今日の約束の話は出てきたらしい。俺は今日の予定のことを特別言い広めたりはしていない。羽京ちゃんは仲間でもあり友人でもあり、意外とお互いに遠慮なしに色々言える関係だった。だから会ってご飯を食べるくらいのことは珍しくない。今回たまたまお互いに忙しくて、ちょっと久しぶりになったってだけで。
    「ねえゲン」
    「ん」
    「さっき話してた、もうひとりのきみに会った人ってほかにもいるのかな」
    「そりゃいるかもね」
    「本人と間違えるくらいに似てるなら、なにがあるか分からない。とりま思い当たる人に連絡しといたほうがいいと思う。特に仕事関係の人」
     言われたとおりだ。今週いっぱいは休んでいるけど、来週からはまた仕事で忙しくなる。俺の偽物が仕事関係のほうでなにをやらかすか分からない。……と、普通なら思うところだけど、俺は意外とそうはならないんじゃないかと思っている。
    「先週会ったのは、偶然なんだっけ?」
    「うん」
    「じゃあ、会ったことは偽物のあさぎりゲンにとっては想定外の事態だったのかもね。……羽京ちゃんに送られたメッセージでさ、今日の予定をキャンセルにしようとしたじゃない? てことは、俺のニセモノは積極的に知り合いに会おうとはしてないのよ。たぶんね」
    「……この一件だけで判断するのは危ないんじゃないかな?」
    「そうなんだけど。俺、明日じつは別の予定あるのよ。それで確かめようと思ってる」
    「別の予定?」
    「そ」
     お茶とかおやつを持って羽京ちゃんのところに戻る。テーブルにそれらを広げて、大きなクッションのうえに俺は座った。斜めにいる羽京ちゃんを視界にいれながら自分の端末を操作していく。羽京ちゃん宛に“俺”から送られた新しいメッセージは、今のところ無し。他のひとの履歴も確認したけど、どれもこれも送った覚えがあるものばかりだった。
     あれ? てことは、羽京ちゃん宛の今日のメッセージだけが“俺”から送られたものなんだろうか。一週間あって、やりとりした相手がたったのひとりだけ。そんなことありえる?
     羽京ちゃんにそれを聞いてみたところ、しばらく考えて「削除した可能性がありそう」と返された。削除、なるほどね。受け取った相手のほうには残っているだろうけど、俺の端末からみれば消えている。
    「だったらなんで羽京ちゃんに今日送ったメッセージは消してないんだろう」
    「……僕がまだ返事をしてないから?」
     黙って顔を見合わせた。
     しばらくして、羽京ちゃんはポケットから自分の端末を取り出した。画面を操作して、数秒で顔を上げた。
     それから一秒もしないうちに、俺のほうの端末が光る。一件の新着メッセージ。差出人は羽京ちゃん。すぐに開いて本文を確かめる。
    《急用は大丈夫だった? またゲンが時間とれるときでいいよ》
     無難な返信だ。冷静に考えれば待ち合わせ時間をとっくに過ぎてからのやりとりだから若干不自然ではあるんだけど。問題はここからだ。
     俺の端末をテーブルに置いて、画面を光らせたままで、ふたりでじっと観察をした。持ってきた飲み物にもおやつにも手を付けず、男ふたりで端末の画面を眺めている。ほんと、どんな状況よ。
     しばらく待っていたけど、画面に変化は起こらなかった。操作しないでほったらかしにしてある端末は、だんだんと画面の光がよわくなって、やがて真っ暗になった。旧時代のスマホと同じだ。何度か操作して画面を明るくしなおして、また見守ってみたんだけど変化はなし。
    「……ゲンのニセモノは、積極的に人に会おうとはしてない」
     ぼそ、と羽京ちゃんが確認するように呟く。俺は顔を上げた。
    「そうだとは思ってるけど」
    「このまえ僕にあったのは、たんなる偶然だった。そこまで話をしないで去っていったけど、確かに今日の予定のことは覚えていた」
    「うん」
    「そのときはまだ約束通り、僕と会うつもりでいたんじゃないかな? それが直前になって、できなくなった」
     俺も頷いた。最初から会うつもりがなかったなら、もっと前に予定のキャンセルをしようとしていたはずだ。だけど実際にキャンセルの連絡をしたのは、待ち合わせ時間の直前だった。俺がもしも同じ立場だったとしたら、どういう場合にそういう行動をとるだろう。ありえる回答はスッと出る。
    「……本物の俺が、羽京ちゃんと会うのを阻止したかった?」
    「そういうことだろうね」
     けど、どうしてそんなことを。
     俺は黙った。
     羽京ちゃんも口を閉ざしてしまった。視線が下に向いていて、なにかを考えている顔をしている。
     会ってほしくなかったのはどうしてだろう?
     想像する。想定する。どういう思考回路だったら、そう思うのか。俺がもしもそいつの立場だったら。
     だったら。
    「……」
     羽京ちゃんが息をのんだ。下を向いていた視線がこちらに向けられる。真剣な顔。
     俺は、その視線を受け流して天井をあおいだ。大袈裟に溜息をついて、苦笑いをするしかない。
    「厄介なことになっちゃってるかもね」
    「……そうじゃないといいけど、根拠がない」
     画面が暗くなった端末を手に取った。画面を明るくしようと適当にボタンを押した。
     が、その画面が明るくならない。
     何回か同じようにボタンを押してみて、それから電源ボタンも押して、押しっぱなしにもしてみたけど少しも変わらない。羽京ちゃんにも手渡して試してもらったけど、俺の端末は完全に充電がきれてしまった時のように、画面が真っ暗のままだった。羽京ちゃんはなにかを考え込んでいる。
    「羽京ちゃん」
    「ゲン。ちょっと試してもいいかな」
     駄目、とは言うことができないような真剣な面持ちだった。羽京ちゃんのなかに今ある、おそらくは俺が立てているのと同じ仮説を検証してもらうために、俺は頷いた。

     しばらく羽京ちゃんの手のなかにあった端末が俺の手に返された。俺はそれを、液晶画面を上にしてテーブルに置いた。
     羽京ちゃんが次に取り出したのは自分の端末だ。電源ボタンを押して画面を明るくした。指先がパネルを操作していく。電話の画面。次に連絡先一覧の画面。そして俺の連絡先画面。
     発信。
    「……」
     端末はしばらく静かになったあと、なにか繋がったような音がして、コール音が鳴った。羽京ちゃんはその時点で自分の端末を、テーブルに置いた。俺が持ってきた端末と並べるように。羽京ちゃんが鳴らした端末は確かにコール音が鳴り続けている。発信先はあさぎりゲン。だけど、俺の端末は少しも反応していない。
     コール音を数えた。三回、五回、七回……そして、八回目の途中でそれは途切れた。
     その小さな端末の、もっと小さなスピーカーのむこう。あきらかにそっちの空気が流れてきたような音が通った。
    『羽京ちゃん?』
     俺の口があいた。それを視界の端で拾い上げたらしい羽京ちゃんの手が動く。思わず、声をあげそうになったのを羽京ちゃんの手が防いだ。するどく目配せされて、冷静になる。
     声、声。
     電話の向こうにいるのは明らかに俺だ。少なくとも俺の声で、俺の喋り方だった。自分からの電話。そんなの経験をする日なんて、想像したこともなかった。意味の分からなさよりも、怖さが上回る。
     だってそれは、成り済ましとかそっくりとかのレベルじゃない。
     一発で分かった。あさぎりゲンがそこにいる。
     羽京ちゃんが、電話の向こうにいるゲンとなにか喋っている。意味が頭に入ってこない。ちゃんと聞かなきゃって思うのに、今はそれができない。
     冷汗が背中で流れた。
     




     羽京ちゃんが俺のところで一泊してくれた。俺と違って羽京ちゃんは明日も仕事があるのに、こういうところで羽京ちゃんは頑固だった。
     別に一緒にいたからと言って何かが分かったりはしない。けど、堂々巡りになる俺の思考回路は、羽京ちゃんがいることによって止まった部分もあった。
     電話は、当たり障りない内容だった。あの電話が終わってからしばらく経って、俺の端末は急に元通りになった。画面も変わっていないし、設定も変更されていない。ただ、羽京ちゃんが送ったはずのメッセージは消えていたし、俺の端末から送られた覚えのないメッセージも消えていた。着信履歴も残っていない。
     考え難いけど、同じものがふたつあって混線しているんじゃないかと、羽京ちゃんは冷静に呟いた。
     夜は布団にこそ入ったけどなかなか眠れなかった。ずっとずっと端末を握りしめて、画面が暗くなっては明るくしての繰り返し。夜中に羽京ちゃんが起きてきて「端末は僕が見ておくからゲンは寝て」と言われた。それでやっと浅い眠りについた。

     翌日、羽京ちゃんが仕事にいってからはひとりになった。いつも通りの朝を迎え、顔を洗って、冷蔵庫に入っているヨーグルトだけ胃にいれた。そのあいだもずーっと端末は手元から離さなかった。
     今日は人に会う約束がある。時間もだいたい決めている。
     俺は自分の端末が普段通りに使えることを確かめると、電話をかけた。今日約束をしている相手だ。
     けど今は手が離せる状態じゃないのか、電話は繋がらなかった。コール音が鳴りっぱなしで、音が途切れる気配がない。これはちょっと難しいと判断して呼び出しを終えて、そのかわりに身支度をした。出かけるときの格好に着替えて、貴重品と端末だけ持って、予定よりも早い時間に部屋をでた。昨日は良い天気だったのに、今日は厚い雲が広がりだしている。雨降らないといいなあと思いながら、タイムマシンの研究施設があるセンターまで向かった。

    「おはよー千空ちゃん。二週間ぶり?」
    「早ぇよ来んのが」
     千空ちゃんに会って一言目にいわれたのがコレ。そうだよね、メンゴ。
     予定よりも一時間くらいは早い。ロビーで待ち合わせの予定だったけど、俺はそれを無視してすぐ近くにある千空ちゃんちを訪問した。端末の電源はあえて切っておいて、家の前についたら玄関から呼び出した。しばらく待っていると、まだ身支度をしていない千空ちゃんが「?」て感じの顔で玄関のドアをあけてくれた。まだ時間じゃねえだろって言われて、そうなんだけど暇で早く来ちゃった、て明るく返した。
     千空ちゃんは訝し気な表情になってから、まあいいかって感じの溜息を吐いた後で部屋にいれてくれた。
     そんで俺も部屋に入って、千空ちゃんも玄関の鍵を閉めて戻ってきてから、
    「早く来たってことは何かあったんだろ、言え」
     と普段通りに用件を確認してきた。こういうとこホントむかしから変わってない。でもって今はありがたい。
     部屋に通してもらってから、珍しく片付けられているテーブルまで来た。温度計と湿度計つきのデジタル時計が置いてあって、閉じられたノートとペン、そして千空ちゃん自身の端末があった。
    「これさ、俺のなんだけど」
     言って俺は自分の端末をとりだすと、千空ちゃんの前に置いた。電源は入れていないから、画面は真っ暗のままだ。どれを押しても反応しない。
    「今は電源を切ってあって、千空ちゃんから電話をもらっても音は鳴らない」
    「ん」
    「今からこれに電源をいれまーす」
    「あぁ?」
     千空ちゃんの普段使いの端末も、まだテーブルのうえに置かれてある。それを手に取ってもらうことをお願いしながら、俺は自分のものに電源を入れた。しばらくすると画面が光った。
     俺は千空ちゃんが持っている端末の画面と、自分のを比べた。最終発信履歴は俺から千空ちゃん宛の不在着信。メッセージのやりとりはここしばらく無し。
    「最後のやりとりはコレだよね。俺が出張行く前に、みんなで撮った写真おくったやつ。千空ちゃんの画面でもそうなってるよね。よし。じゃあこれで俺は自分の端末をしばらく放置します」
    「さっきから何がしてえんだ」
    「いったんこれで、最初の待ち合わせ時間くらいまで放置。千空ちゃんの端末のほうは好きに使ってていいよ。用が無いなら使わなくてもいいし」
     テーブルに置かれた俺の端末を、千空ちゃんがそれはそれは怪訝そうな顔で睨みつけている。爆発するもんでもないし、千空ちゃんに何かやってもらうことは別にないんだけどね。
     俺がそれ以上の説明を今すぐにするつもりがないことを千空ちゃんも分かったのか、席を立ってしまった。どこ行くのかなあなんて思って、声もかけずに背中を見ていたら、隣の部屋にいってパソコンの前に座ってしまった。どうやら何か作業をしている最中だったらしい。パソコンデスクのとなりのテーブルには、飲み終わって空っぽになっているエナドリのボトルがあった。
    「今なにしてんの?」
    「メールの確認だ。ゼノ先生が送ってきたおありがてえ資料な」
    「タイムマシンの?」
    「おー」
    「ホワイマンちゃんは元気?」
    「なんも変わんねえよ。定期メンテ中でジョエルに預けてる」
     いちおう俺もタイムマシンプロジェクトの一員だ。画面をひょこっと覗いても千空ちゃんは止めなかったけど、なにが書いてあるのかはぜんぜん分かんない。千空ちゃんはそれを上から読んでいって、なにか気になるところを見付けては画面内でマーカーを引いている。下まで全部読んだ後で、格納されている別の資料をいくつか開いて確認し、しばらく何か考え込んだあと、メールを立ち上げた。本文内にガガッと英語で文章をつくっている。宛先はゼノちゃん……じゃなくてSAIちゃんだ。千空ちゃんがなにも言わないので勝手に見ちゃってる。内容は、なにかをシミュレーションするときに使う解析用プログラム関係の依頼っぽい。そこまでは単語で分かるけど、具体的なことはやっぱり分かんない。
     メールを送り終わった後で、千空ちゃんは椅子に背中をあずけて腕を組んだ。考えてる考えてる。俺もう何もできることないな、て思ったから黙ってそこを離れて、さっきのテーブルに戻って座った。千空ちゃんの端末をじっと見る。今のところ変化なし。
     可能性としてありえるのは、昨日の羽京ちゃんパターンだ。もしも偽物ちゃんがきのうと同じことを考えているなら、千空ちゃんになにか連絡を寄越すと思うんだけど。もちろん絶対にそうなるとは限らないから、何が起こっても冷静に対処する心積もりはある。たとえば偽物ちゃんがいきなりここに突撃してきたりね。
    「なにしてんだメンタリスト」
    「千空ちゃんの端末みてんの」
    「ほーん」
     考えるのが終わったらしい千空ちゃんが戻ってきた。自分の端末を手に取って、画面をみて何やら操作している。
    「なんか来てる?」
    「なんも来てねえ。このまま待ち合わせの時間くらいまで放置しときゃいいって言ってたな」
     こっちを見ないで、千空ちゃんが言葉を続ける。
    「んで、なにが起こる?」
    「ええ……それ訊いちゃう? さっきもそうだったけど相変わらず直球だね千空ちゃん」
    「あと少ししたらメンタリストから連絡が来るなんて言わねえだろうな」
    「……」
     俺は千空ちゃんを見上げた。返事はイエスでもノーでもない。肩をすくめると、千空ちゃんが訝しげな顔をした。あいている椅子に座って、がしゃがしゃ髪を搔いている。
    「昨日テメーはなにしてた?」
    「それ大事? 昼から出かけてちょっと買い物して、夜は羽京ちゃんとご飯にいったよ」
    「飯はなに食った」
    「お肉の店で、いろいろ」
    「んじゃ飯のあとは?」
    「俺んちに羽京ちゃんが寄って、色々喋ってたよ。最近のこととか。話しこんじゃって、羽京ちゃんは泊まり」
     疑われている様子はない。というか実際にそうだし、今ここで嘘をつく理由なんてない。
     けど、このタイミングでこの質問って、なんか変じゃない? なんで?
    「ー」
     千空ちゃんは天井をあおいだ。頭のなかでいろんなことを考えていたみたいだけど、しばらくして「合理的じゃねえな」と呟くと、自分の端末をテーブルに戻した。
    「やっぱストレートに確認する。テメーはきのう、俺に電話をかけてきたメンタリストとは別の人間だな?」
    「はいっ?」
    「きのうの夜に電話きてんだよ。今日のことで」

     千空ちゃんの話によると、昨日の夜、あさぎりゲンからいきなり電話がかかってきて、今日のことについて話をしてきたらしい。連絡先である番号はもちろん俺のもので、相手が名乗った名前も、声も、話し方も、間違いなく俺だったそうだ。
     そんで何の話をされたのかと俺が訊くと、千空ちゃんは説明してくれた。その内容に俺は戦慄した。
    「前から決めてた予定だが、急遽都合がつかなくなった。別の日でまた調整するから連絡するまで待っててくれ。でもって最近あさぎりゲンにすげーよく似た偽物がいて、名前を騙って知人に会うっつー迷惑行為をしている奴がいるから気をつけろ。もしも明日……今日か。今日、石神千空のところにやってくる奴がいたら、それは自分じゃねえから会うな。強引にでも会おうとしたらとっ捕まえて連絡くれ。以上だ」
    「……それ何時だった?」
    「十八時三分」
     俺がちょうど羽京ちゃんと会っていたくらいの時間だ。端末から目を離していた。履歴には残っていないけど、羽京ちゃんのほうに予定キャンセルの連絡がきた時間に近い。そのときに色々と動いていたらしい。 
     頭を抱えた。偽物ちゃん、ちょっとさあ。やっていることの性質が悪すぎない?
    「って、さっき見たときに昨日の着信履歴のこってなかったよね? まさか消したの?」
    「消しとかねえと、テメーが偽物だったときに俺にバレてることが一発でバレんだろ。ぜってー着歴は確認されると思ってたからな。でもってテメーが逃げ出すと俺も面倒くせえ……って思ってたんだが、探りを入れても逃げる様子はねえし、偽物にしちゃあ本物すぎるから、ちーっと興味がわいた。このまま話す」
     俺はたぶん今ここで、どうにかして自分が偽物じゃないことを説明しないといけない。昨日の千空ちゃんに電話をかけた相手こそが偽物ちゃんだってことも、分かってもらわないといけない。羽京ちゃんに連絡を取って、昨日のことを千空ちゃんに説明してもらうのがいいんだろうか。怖かったのは、むこうにいるあさぎりゲンに、俺の存在がとって替わられることだ。今までに経験したことのない怖さが、足のつま先から上へと這いあがってくる。
    「あのね千空ちゃん。ジーマーで俺も困ってるから、ちゃんと説明させてほしいんだけど。じつは俺も、偽物ちゃんがいるってことは分かってんの。羽京ちゃんと昨日いて、なんか話が合わないってところから気付いたんだけど。でもって端末の仕組みだけはぜんぜん分かんないんだけど、偽物ちゃんが使ってるときは俺は使えないの。羽京ちゃんが言うには混線してるかもって」
    「複製されてんなら混線はありえるセンだな」
    「そう。俺も意味わかんないけど、俺は俺が本物だとおもってるし、むこうが偽物のはずなのよ」
     ぴくりと千空ちゃんの眉が上がる。
    「俺にきのう電話してきた奴が偽物だっつう証明はできんのか?」
    「できっ……ないけど」
    「テメーはそいつに会ったのか」
    「……会ってない」
    「……。水とってくる」
     千空ちゃんは立ち上がった。未開封のペットボトルを二本もってくると、ひとつは俺の前に置いて、もうひとつは自分で開封した。ちょっと落ち着けって意味だと思うんだけど、今は自分の立場が不利に置かれている気がしている。
     プラスチックの割れる小さい音がした。千空ちゃんは自分の手のなかにあるペットボトルをしばらく見て、考えをまとめ終えた後で話し始めた。
    「俺は、きのう電話をかけてきたメンタリストが偽物だと思ってねえ」
    「なんで」
    「発信元の件もあるけどな。一番は、話した内容だ。第一声が『二週間ぶり』だった。実際にその通りで、そのあとの話にも整合性があった。そんで、今日テメーがここに来ることを読んでた」
    「……二週間ぶり?」
     俺はハッと気づいて、千空ちゃんの顔を見た。
    「本当は、もともとテメーがここに来た時に、ソッコー追い返してやるつもりだった。けどテメーがここに来た時の第一声は」
    「二週間ぶり、って言った」
    「だな。偽物でも第一声がそれの可能性はあるが、昨日の電話口できいた声言葉とあまりにも似てた。つーか同じだ。でもって、もしもマジの偽物でしかも怪しまれねえようにしたいなら不審な行動はしねえだろ。それなら時間を守って待ち合わせ場所にくるのが一番だ。けど実際にはそうじゃねえ。わざわざ予定よりも早い時間にやってきて、第一声がそれで……極めつけに、テメーは偽物にしちゃ上手すぎる。だからテメーも、異常な事態に気付いて動きだした本物、ってのが俺の仮説だな」
     水飲め、って千空ちゃんに指差しでいわれて、頷いて手に取った。千空ちゃんと同じように開封して何口か飲むと、なんだか冷静になれた気がした。いや、冷静になれたのは水のおかげじゃなくて、千空ちゃんのおかげなんだけど。
     正直にいうと、どういう感情でいたらいいのか分かんない。
    「実をいうとね千空ちゃん」
    「あ?」
    「俺ね、さっきも言ったけど今すごい困ってるし、けっこう混乱もしてんの」
    「見てりゃ分かるわ」
    「一番怖いのは、俺は自分のことを本物だって信じてるけど、そうじゃなかった場合のこと。そんなのありえないんだけど、ありえないって思ってるけど、絶対なんて言いきれないじゃん。けど今、千空ちゃんが冷静に説明してくれたおかげで、ちょっと冷静になれたかも」
    「俺もまだ分かんねえ。証明する方法もまだ思いついてねえし。自覚してねえけど実は頭をつよく打っただけの偽物っつう可能性もありえんぞ」
    「安心させといてからそういう話しない!」
     泣きつく顔で言ったら、千空ちゃんは実に意地悪く笑った。別に安心させようとしたわけじゃないし、不安にさせるために言ったわけでもない。千空ちゃんは科学者だ。

     もともと今日、外に出かけるつもりだった。千空ちゃんがここ最近ずっとカンヅメだって話を前に聞いてたから、外に連れ出してリフレッシュさせてあげようと思って。研究所に行かない、休み扱いになっている日であっても千空ちゃんはたいてい家でなんかやってる。もう体力のピークは過ぎてるんだから気をつけて欲しい。定期健康診断、そろそろ復活しないかなあ。
     とにかくそういう予定だったけど、今日はすっかり変更になって俺からのお悩み相談だ。
     科学的な話は今の時点ではできないと千空ちゃんは言った。それはそうだ。だって前例がないし、サンプルも少ないし、もう片方の俺とは直接の接触はしてないんだから。
    「テメーはどういう可能性を考えてんだ、メンタリスト」
    「……。正直ね、昨日までは詐欺師とかストーカーの線もあるかなと思ってた。そっくりすぎる俺のモノマネ芸人とかね。けどそれだと電話やメッセージについての説明がつかない。逆にいうと、この端末についての説明さえつくんだったら、そういう可能性はありえると思う」
    「ICチップの複製、ってことなら技術的には不可能じゃねえ」
    「あ、そうなんだ」
    「俺も自分のやつなら複製したことがある。実用はしてねえけど」
    「……違法にならない?」
    「現代にそういう法律があればの話な」
    「うわあ……」
    「実用はしてねえって言ってんだろ。つーか出来なかった。そのあとICチップだけ替えて、今は予備用端末として保管済みだ」
     千空ちゃんは自分の端末を手のなかでいじりながらニヤっと笑った。それから真顔に戻って「ただし」と話を切り出す。
    「まったく同じ端末が、複数あったとしてもだ。その端末に残っている履歴の共有まではされねえよ。少なくとも今の技術だとそうはならねえ、昔みてえなクラウドシステムじゃねえからな。タイムマシンを動かす時に必要なデータベースの共有システムは今んとこSAI先生が頑張ってくれてるが、もうちょい時間がかかる。……とにかく履歴は全部、その端末だけに残る。履歴も全部共有されてんなら、正真正銘、まったく同じ端末がふたつあるっつう話になってくる」
    「んじゃ、多分そっちだと思う。きのう羽京ちゃんに送った覚えのないメッセージが送られてて、すごいびっくりしたし」
    「どういう仕組みでそうなってんのか調べてえ。おいメンタリスト、もうひとりのテメーに怪しまれずにここに呼びだす方法ねえのか」
    「いやいや。ドッペルゲンガーだったらどうすんの。会ったら片方は死んじゃうかもよ?」
     科学的な話じゃないから千空ちゃんに変な顔をされるかも、と思った。けど千空ちゃんはすごく真面目な顔をしたままだ。
    「状況から考えたらそれはねえよ。つか分かんだろメンタリスト。要するにドッペルゲンガーってのは、自分で自分を見る現象だ。脳の腫瘍なんかが原因っつうことで、医学的にも研究されたことがある。あさぎりゲンを見たのは本人じゃなくて周りの人間だからな。他のだとバイロケーションってのもあるが、今回はそれも違う。テメーは物理的にふたり以上存在してんだから」
     反論はできない。ドッペルゲンガーも知っているしバイロケーションも知っている。でもって冷静に考えるとそのどちらも今回には当てはまっていない。
     となると。
    「今は、あさぎりゲンっつう人間自体にスワンプマンみたいな現象が起こってんじゃねえかと考えてる。どうやったかはまだ検討もつかねえがな」

     じ、と千空ちゃんの視線がこちらを向く。真剣な顔。どうなんだ、とその視線に問われている気がする。俺はぼんやりと、スワンプマン、という言葉を繰り返した。
     それは偶然の事故によって、同じ人間が複製されてしまうという思考実験に名付けられた事象だ。
     けど、それが一番困るのだ。

     本当にスワンプマンの場合、どちらか片方の人間は一度死んでいる。

    「スワンプマン」
    「沼男って言ったほうがいいか。それも知ってんだろ」
     それも勿論知ってる。
     けど、と俺は息をのんだ。
    「……スワンプマンなら片方は一回死んでるってことになるじゃん」
    「だから『みたいな現象』なんだよ。実際にはどっちも死んでねえし、どっちも自分があさぎりゲンだと思ってるし、実際そうなる。同じ端末がふたつあって混線してる可能性にも説明がつく」
    「タイムマシンが完成している時代からきた説はどう? ちなみに俺は違う」
    「マジなら片方を捕まえて話を聞きてえとこだが、行動に辻褄があわねえ」
     ううん、と俺は腕を組んで天井をあおいだ。いい感じの反論がないかを考えてみたんだけど、残念ながら出てこない。
     スワンプマン。
     簡単にいうと、ひとりの男が雷にうたれて死んだ拍子に、同じタイミングで雷がおちた沼のなかで、死んだ男とまったく同じ人間が複製されてしまうという現象に基づいた思考実験のひとつだ。雷のせいで死んだ男は「自分は雷にうたれて死んだ」はずなのに、複製された男は「自分は雷にうたれて死んだと思ったが、助かっていた」と認識している。複製された男はそのまま、その男として生きていく。
     生きている男はかつて死んだ男と同じといえるだろうか?
     ちなみに俺には生まれてこのかた、雷にうたれた経験はない。だけど今は雷云々が重要なわけじゃないことも理解している。
     そんなのありえないでしょって言い返したいけど、状況を整理してくいくと、どうやらそれらしい状態になると結論づけられてしまう。
     俺、そういう感じになっちゃうのかなあ。理由は分かんないけどスワンプマンみたいな状態になっちゃってます、と。
    「とりあえず、テメーはどうしたいのか言え」
     何にも喋らないでいたら珍しく千空ちゃんがそう訊いてくれた。
     どうしたいのか、だって。ぶっちゃけ色々ありすぎる。一番は、どういう理由でそうなってんのか確認したうえで、もしもむこうが性質の悪いイタズラをやっているだけなら止めてもらう。端末の混線状態も解消したい。
    「とりあえず、死なないんだったら会ったほうがいいとは思ってる。どういうつもりで向こうが動いてんのか分かんないし」
    「接触か。リスクあんぞ」
    「想像つくけど、なにがありそう?」
    「原因が分かんねえから想像するしかねえが、まず一番やべえのはパラドックスが起こる可能性。……ま、これは片方がタイムマシンで未来からやってきたっつう場合だから、仮説が正しけりゃ心配いらねえ。次にあんのが、個体としての存続ができない可能性。本物はひとりだけでいいってなって、もう片方にブッコロされるパターンな。万が一のために護身用のやつ何か持ってけよ。あとは、単純にもうひとりの自分に会ったときに正気を保ってられるかどうかって話だ」
    「いいことはひとつもなさそーね……」
    「テメー自身が納得できるってこと以外はそうなるわ」
    「だけど、今の時点ですでに良いことはひとつもないわけだし」
     自分の端末を手に取った。画面を明るくして、着信履歴やメッセージ履歴を確認したけど、最後に見たときとは何にも変わってない。当初の予定の待ち合わせ時間はとっくに過ぎている。俺の予想はけっこう外れたけど、向こう側の考えていることはなんとなく想像できるようになってきた。
     千空ちゃんの言葉を思い出す。どっちも本物。本当にそうだとしたらけっこう困ったことになっちゃう気がする。だけどそれならそれで相手の考えていることが俺にはよく分かるから、とりあえずコロされちゃうってことはないと思いたい。俺にはそんな度胸ない。
    「千空ちゃんだったら、どうする?」
    「……」
     腕を組んで、千空ちゃんはしばらく考えてくれた。「そうだな」と頷く。
    「死なねえように対策だけして探しに行く。実際に会うかどうかは分かんねえけど、自分がいそうなところを片っ端からあたる。会ったらとっつかまえて、なにかどうなってんのか聞きだす」
    「やっぱりそうなるよねえ」
    「大人しくしてくれてたら問題ねえけど、ほっときゃ実害が出る可能性があるからな」
    「決めた、俺も俺に会う。できそうだったら捕まえて、なんでこうなったか確認する。んで危ないと思ったらすぐ逃げる」
    「そうしろ。接触できたときは端末ここに持ってきてくれ。仕組みが知りてえ。んで、どうやって会うんだ」
    「分かんない。でもアテはあるから考える」
     俺はわざと意味深に笑って、そこへの説明はしなかった。千空ちゃんが訝しげにしているけど、詳しいことはヒミツにしとく。
    「ダメもとで訊くんだけど、ホワイマンちゃん借りられない? むこう確保するときに便利そうな気がして」
    「無理だな。さっきも言ったが今はジョエルんとこで定期メンテ中だ。しばらく時間かかんぞ」
    「そうだった。……んじゃ、こっちは確実にできるお願い。俺の端末に千空ちゃんのサインいれてくんない? 次に会うときの識別用ってことで」
     言ってひょいっと端末を渡すと、意味を理解したようで、千空ちゃんのはペンをとってきた。端末の裏側にあるバッテリーカバーを外して、そのカバーの内側になにか書こうとして……その手が一瞬だけ止まった。どうしたの、と訊くよりも先に、またその手が動いて短く何かを書き終わると、カバーを元に戻した。
    「書いた」
    「ありがと。なに書いたの? 名前?」
    「見んじゃねーぞ」
    「ええー、なになに? 言われたら余計に見たくなっちゃうじゃん」
    「見んな」
     千空ちゃんはもう一度、今度はもっとするどく言う。
    「マジで必要になったら確認しろ。それまでは見るんじゃねえ」
     わあ。これはとんでもなくジーマーのトーンだ。素直にうなずいて、必要になるまでは内側は見ないことにした。
     次に千空ちゃんがあさぎりゲンと会った時に、どっちのあさぎりゲンなのかを判断するためのものだ。今の俺はまだ知らないほうがいいかもしれない。





     家に帰ってからひとりになって、久しぶりにガッツリと調べものをした。今の俺みたいな状態になった人の記録が、過去にあるのかどうか。インターネットという有難いものが一般的にも普及して、書籍や論文も一部は電子で読めるようになっている。旧時代に比べたら情報量はそこまで多くないけど、簡単に調べられるっていうのは本当に助かる。
     スワンプマンの情報は少なかった。というかあれはやっぱり思考実験のために設定された事象のひとつで、シュレディンガーの猫みたいなものだ。ついでにドッペルゲンガー説とか未来人説とかバイロケーション説とかも調べてみたんだけど、やっぱり納得できるものはない。
     あさぎりゲンは俺以外に少なくともあとひとりは物理的に存在していて、容姿・言動・記憶も含めて周囲の証言をきいた範囲では本物だ。端末は今の俺が持っているやつと全く同じ存在で、その二機は同時に使用することができない。片方で通信が発生しているときは、もう片方は電源が切れたみたいに反応しなくなる。そしてどうやら向こうのあさぎりゲンは、知り合いとの接触を避ける傾向にある。そして俺自身という、もうひとりの存在のことも認識済み。
    「どこで寝泊まりしてんだろ……」
     俺が暮らしているこの部屋には、俺しかいない。ここで生活をしていないなら、他の場所で過ごしているはず。それも目立たないような場所に。
     どこにいる?
    「……」
     俺が、同じ立場にあったとしたら。
     そう考えると、ありえそうなセンは幾つかある。だけど違っていたらマズいことになる。この問題を不要に広げたくはないし、いちおう俺もちょっと有名人だ。

     ひとつ早めに試しておこうと思って、端末を手に取った。
     自分のこれに、自分の電話番号を入力した。間違いないことを確認して発信。……で、コール音が鳴ったらどうしようと思ったんだけど、これは駄目だった。通話中状態になっちゃうからコール音が鳴らない。発信履歴は残るけど、やっぱり端末は完全に同一らしい。この端末のシステムのことが俺にちょっとでも分かったらいいんだけどね。
    「……あ。そっか」
     システム。そうシステムだ。これのメインプログラム作ったのって、そういえばSAIちゃんだったはず。訊いたら何か教えてくれるかもしんない。千空ちゃんと居たときに気付いてたら手っ取り早かったのに、やっぱり今日の俺はちょっと余裕がない。
     そのSAIちゃんはというと、今は龍水財閥に身を置いてIT部門の仕事をこなしつつ、趣味のゲームを作ってはネット上で公開したりゲーマーが集まるコミュニティのためのアプリをつくって夜通しオンラインゲームをしていたり、その傍らでタイムマシンプロジェクトを手伝ったりしている。ジーマーで龍水ちゃんに負けない自由人だと思う。ただし忙しいことは間違いないから予定を教えてもらったほうがいい。さっそく電話かメールで連絡をとってみようとして、……止めたほうが良い気がして、止めた。
     そのかわりに、千空ちゃんに電話をかけた。今日のことを説明したら、ちゃんと今日会って話したほうの俺だと分かってもらえた。そのうえで千空ちゃん経由で、龍水ちゃんに連絡をとってもらうことをお願いした。明日、あさぎりゲンがそっちに行くことを龍水ちゃんに伝えてほしい。俺がわざわざそうした意図を千空ちゃんはすぐに理解して「このあと連絡入れとく」と了承してくれた。
     知人に会うのも一苦労しちゃう。まったく、と溜息を吐きながら、千空ちゃん宛とさっきの自分宛の発信履歴を削除した。

     ということで翌日、まずは龍水ちゃんに会うことにした。
     今の龍水ちゃんが住んでいるでっかい家に着いて呼び出したら、龍水ちゃん本人が玄関まで出迎えてくれた。
    「ゲンだな」
    「うん。これどーぞ。本人確認」
     言って、俺の端末をさきに龍水ちゃんに差し出した。千空ちゃんから話は通っていたようで、龍水ちゃんは俺の端末をうけとると「失礼する」といって裏側にあるバッテリーカバーを外した。カバーの裏側を見ると、ああこれかって感じで頷いて、カバーを戻して俺に返してくれた。
    「なんて書いてあった?」
    「自分では見てないのか」
    「んー。千空ちゃんが必要になる時まで見るなっていうから」
     龍水ちゃんは笑った。
    「なるほど。そのほうがいいだろう。今日は客人がくると聞いて、フランソワが仕事の前に焼菓子を用意していった。庭にテーブルも用意してあるから、そちらへいこう」
    「わかった」
    「いっておくが貴様の名前は出していない。千空からはそう言われているからな」
    「ありがとね」
     で、結局この端末になにが書いてあるかは教えてくれなかった。自分で見ちゃってもいいかなって少し思うけど、俺がそれを知ってしまうこと自体が今後なにかマズいことに繋がる可能性があると怖いから我慢する。
     天気がよかったので、龍水ちゃんのいうとおり庭まで行った。フランソワちゃんがばっちり手入れをしたらしいガーデニングは、こういうのが詳しくない俺にも分かるくらいに美しい。テーブルのところでしばらく待っていると、龍水ちゃんが焼菓子といっしょに冷たい飲み物を用意して戻ってきた。
    「庭、ジーマーできれいね。季節のお花がいっぱいで」
    「花の名前は分かるのか?」
    「よく聞くやつはね。バラとかアイリスとか……あの赤とピンクでいっぱい咲いてるのはゼラニウムでしょ。そっちの青色のはクレマチスだっけ。小さい花はよく分かんないのも多いね」
    「俺も似たようなものだ」
     喋りながら、龍水ちゃんが二人分のアイスティーをグラスにそそいだ。ひとつを俺の前に置いて、焼菓子の皿は真ん中に置かれる。フランソワちゃんがいなくて、たぶん他の人もうちには誰もいないから、龍水ちゃんがぜんぶやってくれた。
    「千空ちゃんからどのくらい聞いてる?」
    「ゲンがこちらに来るから相談に乗ってやってくれとだけ言われたな。端末の裏側にあるサインも確認してくれと」
    「ああ。てことはさっき言った本人確認ってのが意味分かんなかったんじゃない?」
    「分からなかったが、おおむね予想がつく。あさぎりゲンを騙る第三者がいて周囲の人間を巻き込む事態にでもなっているか、その端末が使えなくて困っているのだろう」
     さすが龍水ちゃん、話が早い。細かいところは説明しなきゃいけないだろうけど、この感じだと何を話してもいったん分かってくれそうな気がする。

     とりあえず、数日前から起こっていることをかいつまんで龍水ちゃんに伝えた。最初に気付いたのが羽京ちゃんとのやりとりだったこと、送受信した覚えのないメッセージが端末に残っていたこと、千空ちゃん宛にもうひとりの俺が連絡をしたこと。そんで俺が、その相手との接触を試みようとしていること。
     そこまで話すと、龍水ちゃんは一度遮った。
    「接触するのは危険だと思うが」
    「リスクは千空ちゃんにも言われた。俺もそう思ってるけど、……正直、今の状態に俺がだいぶ参っちゃいそうなのよ。放置してても絶対に良い事はないしね」
    「貴様の仕事が再開するのはいつからだ?」
    「来週。そこまでに何とかしたいわけ」
    「あまり時間がないな」
     うん、と頷いてフランソワちゃん焼いてくれたマドレーヌをもらった。メープルシロップの風味がする。甘くておいしくて、ちょっと泣きそうになる。
     龍水ちゃんは腕を組み、しばらく考えたあとで口を開いた。
    「SAIの予定が空くとしたら、最短で今日の夜だ」
    「え」
    「端末のシステムのことでSAIを頼りたいと思っているのだろう? 今の状態を考えれば当然だな。結果的にSAIにも状況を説明せざるを得ないと思うが、それは問題ないのか」
    「話はやくて助かる、龍水ちゃん。SAIちゃんには話して大丈夫でしょ。つか、できたらその先のことも相談したいし。プログラムのことがわかったら、端末の存在を分けることだってSAIちゃんなら出来るかもしんない」
     技術的な意味で実際にそれができるかは分からないけど、端末のことが解決すれば、直面している困りごとのうち、三分の一くらいは解消される気がする。そうなったら残るは俺本体の問題だけ。むこうのあさぎりゲンを見付けて、こうなった原因をたしかめて、今後どうするかを判断する。
     さっきの俺の言葉をきいて、龍水ちゃんは小さく首をかしげた。
    「端末の存在を分けると言ったな。消すのではなく。……もう片方のあさぎりゲンに対して社会的・物理的に消えてもらおうという考えではないわけか?」
    「わあー怖い質問……。こればっかりは会ってみなきゃわかんないよ、ジーマーで。正直あっちの考え方次第だと思うけど、自分と同じ顔と性格した奴を消すって、フツーに考えて怖くない? 自分と同じ人間がふたりいる時点で既に怖いけどね」
    「どちらにせよか」
    「でね、たぶんもうひとりの俺も、おなじ考えだと思うのよ。本当にあさぎりゲンだとしたら」
     自分のことだから、よーく分かる。人に会おうとしないあさぎりゲンにも、なにか企みはあるかもしれないけど、なんとかしなきゃと思っているだろうし、気持ちが参ってしまいそうな自分とたたかっている気がする。だから羽京ちゃんや千空ちゃんに対してコンタクトをとりにいったんだろうし。ただもしも、もうひとりのあさぎりゲンが、こっちの俺のことを偽物だと思い込んでいるとしたらそれは誤解だ。それは解いておきたい。そのうえでどうするかを決めたい。
     龍水ちゃんはしばらく黙って、アイスティーのグラスを片手にそれを眺めていた。
    「ゲン、いくつか質問する。“もうひとり”が存在しているのは、いつからだと考えている?」
    「ん? ……状況的には、十日くらい前かな」
    「なぜそう思う?」
    「羽京ちゃんから聞いた話で、そうかなって」
    「そのとき、貴様本人は仕事で海外にいた。そうだったな? 十日前が事実ならば、理由はさておき、貴様が日本にいない間に、あさぎりゲンがもうひとり発生したと」
    「十日前ちょうどかどうかは分かんないよ。もっと前からいたかもしんないし」
    「そうだな。もっと前からいた可能性はある。たとえばだ、二週間ほど前から“もうひとり”はすでに存在した」
    「……はい?」
     龍水ちゃんがグラスをテーブルに置いた。固い音が立つ。
     こちらを見る視線。龍水ちゃん。真剣な顔。

    「ゲン。貴様は、俺や千空たちと、二週間前に一度会っている。そのとき何が起こったか、貴様自身はどのくらい覚えている?」

     なんでだろう。
     俺、その龍水ちゃんの視線や表情には既視感がある。それも龍水ちゃんのじゃなくて。
     昨日の千空ちゃんとか。一昨日の羽京ちゃんとか。同じような顔、同じような視線。言葉にはすることができない、含みのある感じ。なんで?
     ああでも、それより今は龍水ちゃんの言葉だ。思い出さなきゃ。



     二週間くらい前だ。記憶はある。
     仕事だったり研究だったりの区切りがついて、奇跡的に、ちょうどみんな時間が空いた。
     研究所にいた千空ちゃんとクロムちゃん、帰国をした龍水ちゃん、会議と大量の書類仕事を片付けた羽京ちゃん、番組収録が終わった俺。ぜんぶで五人。この五人はみんな集まることって今となっては難しくて、大体だれか忙しかったり日本や陸地にいなかったりする。だからクロムちゃんと俺とで招集をかけた。ちょっとだけでも集まろうよって。
     街としてすっかり復興した六本木に集合して、フランソワちゃんがプロデュースしたレストランでご飯を食べて、そのあとは羽京ちゃんの運転で港にいって、龍水ちゃんがもってるクルーズで海に出た。そこで楽しくなって、お酒を飲める人たちはけっこうお酒を飲んで……俺もそこにいた。
     港にかえってきて、しばらくふらふらと歩いた。砂浜に戻る途中の桟橋だった。
     最近ほんとうに人が増えてきたね、街も大きくなったね、と羽京ちゃんが呟いていた。千空ちゃんはまだまだこれから、みたいなことを言って、クロムちゃんもタイムマシン作るぜ! って大声で海に向かって叫んでいて、龍水ちゃんはタイムマシンも欲しいって笑っていた。
     龍水ちゃんが機嫌よく歌った。羽京ちゃんも歌うまいんだから歌ってよって言って、最初は嫌がられたけど、クロムちゃんや俺が歌いだしたら最終的には羽京ちゃんも乗ってくれた。
     みんなのんきになったねえ、と俺も言おうとして、だけどそのとき、俺は足元をみていなかった。
     酔っぱらっていたとはいえ、本当にしょうもないドジをやったと思う。俺の足はまっすぐ進んでいなくて、
    「あれっ」
     と呟くと同時に、足が桟橋の板を踏みそこね、そのまま海におちた。
     そう。べつに劇的なことが起こったわけじゃない。酔っぱらいが不注意で足を滑らせただけだ。

     そこから陸に戻るまでのことは、実をいえばあんまり覚えていない。酔ってくらくらとした頭で、冷たくしょっぱい海の中で、ぜんぜん泳げなくて、服が重くて、身体が沈んでいった気がする。
     だけど気付いたときには桟橋まで浮かんで戻ることができていた。戻ってからへたりこんでいる俺を、心配そうに俺をみている羽京ちゃんやクロムちゃんの表情のことを覚えている。久しぶりに馬鹿なことをしちゃって反省した。
     車にあった着替えを羽京ちゃんから借りて、家の近くまで送ってもらって、帰ってからはいつも通りに眠った。
     その翌日、俺は仕事のために飛行機に乗り、予定通りシンガポール入りをした。



     俺の記憶はそれだ。二週間前に俺はみんなに会っている。その時のことも覚えている。
     龍水ちゃんに一通り説明をした。俺の話を、龍水ちゃんはひとつも遮ることなく最後まで聞き、終わった後は一度目をつぶった。小さく息をついて、なにか決断したように俺をまっすぐ見た。
    「あさぎりゲンは、現在ふたりいる。少なくともふたりだ」
    「そーね。三人目はちょっと勘弁してほしいかな」
    「ひとりは貴様だ。海で溺れかけたが、なんとか自力で砂浜まで戻ってくることができた。そのあとは羽京の運転で自宅に戻り休んだあと、予定をしていた通りの飛行機にのって仕事へ向かった。海外へと仕事に行き、終わったら帰ってきて、今は休暇中で、こうして俺と話している」
    「そうだよ」
    「そして、もうひとり。二週間前に海に落ちてしまい、そこで溺れて、自分は死んだと思っていたが実はそうではなかった。そういうあさぎりゲンだ」
    「……ジーマーで?」
    「さっきスワンプマンの話をきいて、そうした可能性を考えた。海に落ちたはるか遠くの雷が、そういう事象を発生させたとすればだ。気象情報を遡れば、なにか出てくるかもしれんぞ」
     冗談でしょ?
     龍水ちゃんの言葉をそう言って流せたらよかった。科学的に説明がつくとも思えない。ありえないよ、龍水ちゃん。そう言っちゃいたいのに、口からその言葉が出てこない。むしろ、そんなのありえないと言いたくなる仮説なのに、もしかしたらそれしかありえないんじゃないかっていう気持ちがじわじわと滲み出てくる。だけどまだ、頷くことはできない。
     それだけじゃない。龍水ちゃんの話しぶりも気になる。
     突飛ともいえる薄い可能性の提示のはずなのに、龍水ちゃんの言葉は奇妙に確信めいている。
     俺が何にも言えないでいるところを、龍水ちゃんはじっと見ている。そこから視線を庭の花にうつした。
    「ゲン。俺は貴様のことを、正真正銘あさぎりゲンだと思っている」
    「俺もそう思ってるよ」
    「だが先程のはなしが事実ならば、ふたりのうちどちらかはスワンプマンだとも思う」
    「……」
    「もしもそれを貴様が本当に確かめたいなら、手段はある」
     顔を上げた。龍水ちゃんと視線があった。
    「手段」
    「貴様のいう、もうひとりのあさぎりゲンに会わせてやることができる」
     俺は息をのんでいた。
     そんなことある? っていう気持ちと、ああやっぱり、っていう気持ち。
     頭のなかに俺がふたりいるみたいに、違う考えふたつが動いた。
     龍水ちゃんはまっすぐ俺をみた。
    「先日この家に、あさぎりゲンと名乗る男がやってきた。そして相談を受けた。内容はこうだ。……ちょうど二週間前に自分は海に落ちて、そのまま溺れて死んだと思った。しかし意識が戻って気付いたら人のいない浜辺に打ち上げられていた。防水カバーをつけていた端末は奇跡的に無事だった。日付をみるとちょうど丸一日が経っていた。仕事の飛行機を逃して途方に暮れていたのに、仕事関係では誰からの連絡もはいっていない。それどころか昨日ともに過ごした千空たちもいない。その時点であきらかにおかしいと思ったそうで、さらに街でみた巨大なスクリーンにはシンガポール入りをした自分が映っていた。それから怖くて人目を避けている。しばらくは自分の家にいたが、今は戻れない。端末の様子もおかしいので、SAIが戻ってきたらみてもらいたい。それまでここに置いてほしい。……。今、その男はこの家にいる」
    「なんで、そっちのあさぎりゲンはすぐに龍水ちゃんを頼ったの」
    「先週、偶然だったが街で俺と会っている」



     実のところ、千空ちゃんに詳しくは言っていなかった、会うためのアテってのは的中した。
     あさぎりゲンがもう一人いて、俺と似たような状態に置かれているとしたら、頼る人を選ぶだろう。そのなかのひとりが、龍水ちゃんだった。
     先回りをして龍水ちゃんに連絡をとって待ってさえいたら、いずれチャンスがやってくる。なんせ龍水ちゃんのところにいけば匿ってくれる場所があるし、話も早いし、いきなり信じてくれるかどうかは分からないけど追い返すようなことも多分しない。こういうときに一番頼もしい相手だ。

     龍水ちゃんは椅子に座ったまま身体を横に向けた。庭のほうを眺めて、すこしばかり険しい顔をしている。
    「さっきも言ったが、貴様が今日ここに来ることはフランソワにも話していない。なぜならあさぎりゲンはすでにここに来ているからな。そして先にここにきたあさぎりゲンには、今ここに貴様がいることを話していない。会うことを望むなら俺から説明をしてもいい。それで双方が合意するなら、場を設けよう」
    「……龍水ちゃんさ、会ってどう思った? 俺と、昨日きたほうの俺の両方をみて」
    「これで片方が成り済ましなら大したものだぞ。そう思うくらいには同一人物だ」
     うーん。そっか。やっぱりそうなのか。
     俺は科学者じゃないからこのさい科学的な根拠のことは置いておくとして、龍水ちゃんが言うなら、本当に向こうもあさぎりゲンなんだろうなって思う。今まで何回も確認してきたし、仮説も立ててきた。その仮説が違っている可能性だってあったけど、そこに縋るのはいよいよ無理だ。
    「ねえ。同じ人間がふたりいるのって、やっぱマズいと思う?」
    「俺はかまわないが、現状だと社会的な混乱につながる可能性はある。実際いまの時点でも寸前だ」
    「……そうなるよねえ……。片方はまったく別の人間として生きるってことで話がつけばいいんだけど」
    「貴様はそれで譲ってもいいと思うのか?」
    「えー、それはイヤかも」
     龍水ちゃんが笑った。
    「だろうな。むこうもそうだろう」
     まったく別の人間として生きるってのも少しは面白そうだけど、失うものがありすぎる。俺はペラペラの人間だけどあさぎりゲンとして持っているものは好きだし、楽しい人生を送っているし、これからもそうでありたい。そう俺が思ってるってことは、もう片方も同じ考えだろうね。
     けどあさぎりゲンがひとりでいいからといって、片方を消すような思い切りのよさなんか無い。
     うええと呻いて、俺は良いテーブルに顔をつっぷしてしまった。
    「ねえ龍水ちゃん」
    「どうした」
    「きのう千空ちゃんと会って話したときはさあ、会って、話してみたら何とかなるかなと思ってたのよ。解決とまではいかなくても、そうなった理由がちょっとは分かったり、いい落としどころが見つかるかもって思った。ていうか俺にできることって今それしかないじゃん。会ったら困るだろうけど、会わなくてもすでに充分困ってるんだから、とにかく動いていくしかないし。けどいざ冷静に考えてみたら、会っても解決する気がしない」
     龍水ちゃんがこっちを見ているのが分かる。困らせているかもしれない。けど俺も困ってる。すごく困ってる。
     会って、話をつけて、なんかいい感じのところで折り合いをつけちゃいたい。そう思ってるんだけど、俺が譲れないものはむこうも譲れないと考えている、という点に気付くと、いい感じのところなんか無いんじゃないかって気がしてきた。
    「あさぎりゲンのそういう様子は久々に見るな」
    「そーね……」
    「これは俺からの提案だが」
     その言葉に俺は突っ伏していた顔を上げた。
    「貴様が“もうひとり”に会いたいというなら、先に一度クロムに相談をしてみてはどうだ。それで納得ができるなら、会うといい」
    「なんでクロムちゃん?」
    「今クロムは、タイムマシンプロジェクトに入っている。研究内容について詳しくは知らないが、同一の人間がおなじ時空に存在する場合の物理定数についてシミュレーションをしていると話していた覚えがある。時空を越えるときのゲートの実現も兼ねてだ」
    「……なんか聞き覚えある。二週間前にそれっぽい単語きいたかも。そんときは全然イミ分かんなかった」
    「タイムマシン理論だから、貴様の状態について完璧な答えは返ってこないかもしれない。しかし今ここで考え込むよりは有益な情報が得られる可能性もある」
     確かに、と納得した。それにクロムちゃんの発想する力というか、頭のやわらかさは俺の知っている人たちのなかだとピカイチだ。どうやったらいいか分かんなくなったときに、ヒントあるいは答えを出すのがクロムちゃんであることも多かった。今どうしたらいいか分かんないっていう状態で、クロムちゃんに相談するのはベストかもしれない。
    「“もうひとり”がクロムに連絡をしていないことは本人から聞いて確認済みだ」
    「会いたいとは言ってない?」
    「どうやら貴様と違って、人との接触は最小限にしているようだからな。なるべく知り合いに会わない方針のようだ」
    「それ、不思議に思ってたんだけど。なんでなの?」
    「詳しいことは本人に訊くのが一番だが、ようは混乱を招かないためだろう。自分がふたり存在していることを、先に来たあさぎりゲンはかなり早い段階で理解していた。確信こそしていないが、偽物ではなく、同一の存在である可能性も充分に検討していた。騒ぐのは得策ではないし、周囲を混乱させるつもりもなかったということだ」
    「ふーん。けどさ、それで自分の居場所がどんどん無くなっていくのは怖くない? 向こうは今そうなりつつあるってことでしょ。俺ならヤだなー」
    「そのあたりについては貴様自身に会った時に話してみるといい」
    「そーね」

     クロムちゃんへの連絡は、龍水ちゃんがやってくれた。電話をかけて、今からそっちにあさぎりゲンが向かうので相談に乗ってくれないか、って。クロムちゃんは二つ返事で了解をしてくれて、ただ調べものをしていて手が離せないから研究所に来てほしいそうだ。そのくらいなら全然オッケーだ。
     龍水ちゃんが見送りをしてくれるというので席を立った。充分すぎるくらいに眺めた綺麗な庭をあらためて眺めて玄関のほうに向かう。
     クロムちゃんに会って、なにか良い方法が思いつくといいな、と思った。
     おとつい羽京ちゃんと話したときから、偽物とか性質のわるいストーカーを想定しつつも、あさぎりゲンがふたりいるという可能性は浮上していた。千空ちゃんと話してその可能性がより濃厚になり、さらに龍水ちゃんと話して確信した。存在を確信したというだけじゃなく、向こうも向こうで相当に困り果てているということも分かった。
     正直にいうと、実害が無いなら別に構わないという気持ちも、ちょっとある。いや、けっこうあるかもしれない。
     社会のほうが混乱するのは良い事じゃない。だったら混乱しないように何とかしちゃえばいいじゃんって気持ち。
     でもそれと同じくらい、やっぱり居ちゃダメかもしんない、っていう考えもある。やっぱり俺は俺ひとりだけでいいとも思うから。結論がまだ出ない。
    「ねえ。龍水ちゃんなら、もしも自分がもうひとりいたらどうする? 本物は自分だけでいいって考える?」
    「俺がふたりいたとしたら、やりたいことが二倍できるようになるな。あらゆる手を使って社会的に存在を認めさせるし、もうひとりの俺もそうするだろう」
    「どっちが七海龍水なのかで悩んだりしない?」
    「どちらもそうだ。おそらく気にしない」
    「そっか。あーあ、俺もそんくらい迷わずにいきたいなー。別にあさぎりゲンがふたり居たっていいじゃん! ってさ」
    「本当にそれでいいなら協力は惜しまんぞ」
    「龍水ちゃんなら本当に何かやってくれそうね……。向こうがそれでいいっていうならお願いしちゃうかも」
     玄関まできて、そんなふうに話を広げているときだった。
    「よくない!」
     俺たちが今まで歩いてきた、庭のほうに続く道のほうから声がした。大きな声だった。俺は思わず息をのんだし、龍水ちゃんも目を丸くしていた。背後からの声で、その姿は見ていない。だけど俺はその声を知っている。ふだん自分の声だと自覚をしているものとは少し違う、録音データの音声を聞いているような違和感。自分じゃないような気がするのに、確かに自分らしさのある話し方。
     龍水ちゃんが振り返って、俺もあとから、同じように振り返った。
     昼間の日差しで、足元にある影がくっきりと黒い。見覚えのある服、その背丈。撫で肩のかんじや、他にない髪型。こっちを見ている視線。
     ああ、すごい。
     どういう技術なんだろ。
     最初に思ったのはそれだった。俺もやっぱり科学に染まってる。似ているなんて次元じゃなくて、鏡のようでもない。本当に俺がそこにいて、だけど俺とは違う意思や感情をもった誰かが、そこにいる。
    「よくないでしょ」
     泣きそうな顔をしている、俺の顔が。よくない、という言葉は確かに聞こえた。その姿を認めて、その言葉の意味を理解した途端に、俺は分かってしまった。

    「部屋から出ないと言ってなかったか?」
     龍水ちゃんは最初こそ驚いていたけど、そのあとは至って冷静だった。怒ってもいないし焦ってもいない。普段と変わらない調子で、もうひとりのあさぎりゲンに話しかけている。
    「お客さんが来るって龍水ちゃんからきいて、なんとなくこうなる気がしたから出てきた」
    「なるほどな。今からクロムのところへ行くそうだ」
    「それも聞こえてた。俺もいくから」
    「えっ」
     びっくりして、それしか言えなかった。龍水ちゃんの顔をみて、それから対峙しているあさぎりゲンも見た。俺の顔している人間が、けっこうな形相でこっちを見ている。龍水ちゃんは腕を組んでしばらく考えたあと、頷いた。
    「車を出す。俺がクロムのところまで送っていこう。人に見られるわけにいかないだろう」
    「ええっ」
    「ありがと、おねがい」
    「ちょっとちょっと、俺は良いって言ってないんだけど!」
     抗議したら、あさぎりゲンが大股で歩いてきて、俺の目の前で立ち止まった。ずいと顔を近づけて睨みつけてくるから、俺は思わず顔を引いてしまう。
    「あのねえ俺」
    「ななななに?」
    「なんでこうなってんのかジーマーで分かってないけど、俺ものすごい大変だったのよ、今日まで。知らなかったでしょ」
    「まあ、そりゃ」
    「俺、溺れて死んだとおもったの。あの海で」
     息をのんだ。俺のほうだ。
    「でも死んでなかった。少しも騒ぎになってなかった。そんで、SNSでもテレビつけても俺じゃない俺がいて、普通に仕事なんかしてて……しばらく待ってたら実はこいつ偽物でしたってニュースが出ると思ってたのに、いつまで経ってもそうならない。意味分かんなかった。最初は混乱して、でもだんだん怖くなったよ。自分の頭がおかしくなっちゃったかもって考えると、外にも出られないし誰に相談したらいいか分かんないし。身分証いらない脳外科さがして診てもらおうって本気で考えてたからね?」
    「あ、そーなの……お気の毒に」
     ぺち、と音がして、俺の顔を、あさぎりゲンの手がはさみこんで捕まえた。まじまじと顔を観察される。そのうちに、怖かった顔が、ちょっと泣きそうに歪んだ。
    「……偽物だったら良かったのにさあ……なんなの……? めちゃくちゃ俺じゃん……」
    「うん……」
    「……なんでなの……」
     俺の顔から手がはなれた。だらん、と下におちて、そのまま項垂れていく。難しいことは考えてなかった。その項垂れた頭をぽんぽん、と叩いて肩のところに引き寄せた。
     気持ちが痛いくらいわかる。自分じゃない自分を見ていることしかできない、その時間が続くことが凄く怖かったんだろう。まずは目に見えるものを疑って、次に人を疑って、最後に自分を疑うところまできてしまった、そういう人の顔をしていた。
     龍水ちゃんのほうを見上げたが、なにも言ってこない。多分、昨日からこういう感じだったのだろう。





     クロムちゃんのところに向かう車を、龍水ちゃんが本当に出してくれた。運転席に龍水ちゃんがいて、俺たちふたりは後部座席だ。
     すっかり舗装されている広い道を車がすいすいと走っていく。このあたりは人口の建物が多いけど、少し遠くを見れば未開拓地の緑にあふれている。自動車の生産台数は年々増えているが、この時代ではまだ渋滞を経験していない。いつかはそういう時代も来ちゃうのかなあ、と今あまり関係ないことを考えている。
     しばらく沈黙していたけど、このままも良くないし、と思って俺から口をひらいた。
    「あのさ、俺、自分のことはあさぎりゲンだと思ってるのよ」
    「俺もそうだけど」
    「けどなんて言うのかな、ちょっと性格? 雰囲気? 違ってる気がする」
     じ、とあさぎりゲンが横目でこっちを見る。
    「経験値が違うからでしょ」
    「経験値?」
    「言ったじゃん。俺、あの海でいっかい死んだと思ったって。それが何故か助かってて、二週間だれにも会わずにじっとしてたわけだし」
    「ああ……そっか。俺は海に落ちたけど、無事だったんだよね。実際そうだし、そこから生活も普通に送ったから。そりゃ少しは変わるね」
    「貴様が海に落ちたとき。あの場には俺もいたが」
     運転席にいる龍水ちゃんが会話に入ってきてくれた。
    「ゲンは確かに海に落ちた。クロムが飛び込んで助けようとしたが、それほど時間を空けずに、先にゲンが自力で桟橋のほうに戻ってきた。引きあげたときに手伝ったから覚えている。落ちたときに多少打ち身をしていたが、それも大したことはなかった」
    「なんか不自然に思うことはなかった?」
    「すぐに気付くような違和感はなかったな」
     ミラー越しに一瞬だけ視線があった気がした。それから次に俺はとなりにいるあさぎりゲンを見て、自分の左肘を指さした。
    「ここに痣できてた?」
    「あったよ。もうほとんど消えてるけど」
     俺も同じく。
     聞いた話と自分の記憶をもとに考えていけば、あさぎりゲンがふたりになったタイミングは分かる。あの時に落ちてしまった海のなかだ。海に落ちたもののすぐに浮上して無事だった俺と、溺れて一回死んでしまったと思ったあさぎりゲン。海はあらゆる生命の源だっけ? だからこういうことも数千年に一度くらいは起こるんだろうか。
    「スワンプマンだね。ジーマーで」
     隣から声がした。
    「そーね」
    「あっちは沼で、こっちは海だけど」
    「……あのさ、これからどうしたいと思ってる?」
     気になっていたことを、恐る恐る尋ねてみる。あさぎりゲンは目を丸くしてこっちを見て、すぐに視線を逸らしてしまった。
    「訊かなくたって分かるでしょ。俺なんだから」
    「答え合わせじゃん。答えてよ」
     あさぎりゲンは、人前では絶対に吐かないような溜息を吐いた。
    「俺ね、もうひとりの自分をSNSやテレビで見てて、思ったのよ。すっごいキラキラしてるなーって。かげでコソコソしてるのも性には合ってるし、本職じゃないいろーんな仕事させられて、うんざりしたこともちょっとはあるけど、やっぱり俺は、俺が好きなのよ」
    「うん」
    「俺はこれからも俺として生きたい。めんどくさいことも多いだろうけどさ」
     ふふ、と俺は笑った。
    「ちょー分かる」
     隣からも声が聞こえた。笑っている。
    「困ったね」
    「そーね」
     運転している龍水ちゃんにも聞こえているだろうけど、なにも言われなかった。車は広い道路を右折して抜けると、今度は大きな河川沿いの道に入った。この道をずっとまっすぐ行けば、クロムちゃんがいる研究所に辿り着く。
     ナイスなひらめきがあると良いんだけど。



     クロムちゃんは研究所のロビーで待っている。龍水ちゃんのほうにそういう連絡が入っていた。車が研究所に到着すると、龍水ちゃんは電話をかけて、クロムちゃんに駐車場まで来てくれるように頼んだ。こっちが行くわけではないらしい。それもそうか。
    「ゲンは車から降りられない。貴様がこちらに来てほしい。理由は来たら分かる」
     電話を終えると、龍水ちゃんは後部座席のほうへ顔を向けた。
    「すぐに来るそうだ。事情の説明は?」
    「まあ、クロムちゃんなら見れば分かるっしょ」
     分かった、というと龍水ちゃんは車をおりた。足音が離れていって、残されたのは俺たちふたりだけになる。車内は急にしんとした。
    「……ねえ」
    「んー」
    「ちょっと前に羽京ちゃんに会ったんでしょ。偶然」
    「それがどうかした?」
    「なに見たの、そんとき」
    「なんで?」
    「おとつい羽京ちゃんに会った時に、見たものについて口外しないでって頼まれた。なにがあったか知りたいんだけど、全く教えてくんなかった」
     あさぎりゲンからの返事はかえってこなかった。なんで? と思って隣を見たら、考え事をしている顔になっていた。
    「なに考えてんの?」
    「別に大したことじゃないよ。そっか、羽京ちゃんはそう言ってたんだ。ふーん。へーえ。そう」
    「ちょっとさあ、そのわざとらしい反応ジーマーで嫌なんだけど? 俺には教えたっていいじゃん、俺なんだから」
    「ええー? けど羽京ちゃんは口外するなって言ってたんでしょ。だったら内緒だよ。気になるなら本人から聞きださなきゃねえ」
     その顔。その反応。楽しんでる。いつもは俺がそうする側だっていうのに、今はされてる側だ。すっごい嫌な感じ。
     ていうか羽京ちゃんが簡単に教えてくれるわけないじゃん。もともと口は堅いし、職務の立場上、守秘義務に対する意識の高さは半端じゃない。持ってる端末みたく情報が同期されたら楽なのに。
     なんて思っていたらコンコンと窓をたたく音がした。視線を向けたら、龍水ちゃんが戻ってきていた。その後ろには白衣がサマになっているクロムちゃんが立っている。クロムちゃんのいる場所からも車のなかの様子は分かるようで、その表情から、感情が手に取るように分かった。隣にいるあさぎりゲンを視線を合わせて小さく頷き、ロックを外した。車のドアを開ける。
    「お疲れ様クロムちゃん。ゴメンね、急に来ちゃって」
    「おう」
    「しかも車から出らんないの。知らない人に見られちゃマズいから」
    「……おう」
     ひょい、とクロムちゃんが車内をのぞき込んだ。クロムちゃんの目がまずは俺を見て、次にその奥を見た。あさぎりゲンは「おつかれー」と言いながらクロムちゃんに向かってひらひらと手を振っている。
     クロムちゃんは物凄く驚いた、という表情で、目を丸くしている。だけど大きな声は出さなかった。今のところ周りに人はいないけど、この状況が普通でない以上、騒ぐわけにはいかないことが分かったようだった。そのあと龍水ちゃんに促されてクロムちゃんは助手席に乗った。龍水ちゃんは運転席だ。
     乗ってすぐさまクロムちゃんは身体を乗り出すようにしてこっちを見た。右と左、交互に見て、顎に手を置いてまじまじ観察している。どうやら俺たちふたりを比べて、間違い探しをしているらしい。ふざける場面でもないけど、なんとなくニコニコしながら手を振ってしまう。となりのあさぎりゲンも同じだ。
    「クロムちゃーん、だいじょぶ?」
    「俺は問題ねえよ。どうなってんだ、これ。ゲンがふたりいるけど、変装とか手品って感じじゃねえし。もしかして両方ホンモノか?」
    「「ピンポーン」」
     クロムちゃんが見たのは龍水ちゃんのほうだった。説明を求める表情をしているけど、龍水ちゃんも肩をすくめることしかできない。
    「クロム。貴様がしばらくここを離れて良いなら、場所を変えたい。人目につかないところはあるか?」
    「おう、そうだな。……んじゃ、そこの坂道ずーっと上がって山のてっぺんいこうぜ。車でいける道もあっから。つーかすげえな、最初みたときは片方ニセモノかと思った」
    「それが違うのよー。クロムちゃんにもちゃんと説明するね」
    「クロム。シートベルトをつけろ。カーブで酔う」
     おう、と頷いてクロムちゃんが助手席のシートに落ち着いた。走り出すと、またチラチラとこっちを見てくる。同じ人間が二人いることに対して、恐怖よりも好奇心のほうがはるかにまさっているみたいだった。驚きつつもその目がキラキラしている。むしろ好意的ですらあって、今までは俺は俺のことで不安ばかりだったというのに、ちょっと笑ってしまった。

     カーブの道で山を登ってしばらくすると、舗装された道が終わった。木も茂っていなくて、星を眺めるのによさそうな広い草地が広がっているてっぺんに着いて、俺たちはみんな車を降りた。改めてクロムちゃんが俺たちふたりを上から下まで比べている。服装が違うだけで、どちらもあさぎりゲンに間違いないことをクロムちゃんは理解したようだった。
    「意識はどうなってんだ? 別々なのかよ?」
    「そーね。ベースの性格とか思考回路はどっちも同じって感じだけど、意識の共有はされてないね。されてたらもーちょっと楽だったかもしんない」
    「そういうもんか。とりあえずあっちの座れるところ行こうぜ。龍水はどうすんだ?」
    「俺は待っておく。聞かないほうがいいこともあるだろう」
    「えっヤダ。ぜったい龍水ちゃんもいたほうがいい」
     そう言ったのは、俺じゃないほうのあさぎりゲンだ。俺も龍水ちゃんを見た。
     今からどういう話になるのか分からないけど、龍水ちゃんが同席していたほうがいいというのは俺も同じ考えだ。たぶん話のなかで状況を整理する必要が出てくるだろうし、なにか決断しなきゃいけない場面もあるかもだし、そうなったら龍水ちゃんがいるだけで助かる瞬間があるかもしれない。
     龍水ちゃんはしばらく腕を組んで俺たちを見比べ「わかった」と頷いてくれた。

    「そんで、俺んとこ来たのはなんか相談あるんだよな」
     ここに過去訪れた人が作って置いていったらしいテーブルと椅子があって、俺たち四人はそこに座った。俺の向かいにはクロムちゃんがいて、持参したノートとペンとがそこに広げられている。
     クロムちゃんの問いかけに答えてくれたのは龍水ちゃんだった。
    「貴様に相談することを提案したのは俺だ。以前に話していた研究内容のことを思い出して、貴様なら何かヒントを持っている可能性があると考えた。ヒントがあれば、今後の参考になる」
    「俺がやってんのはタイムマシンだけど、そういう話にしていいのかよ、これ」
    「同一で複数の人間が、同じ時間に同時に存在できるかどうかという研究をしているのだろう。物理定数の話だったと思うが、違ったか」
    「違わねえよ。毎日まいにち仮想空間でシミュレーションしまくってる。肩凝りがやべー。けど今のこれとは状況が違うかもしれねえし、それに」
     そこでクロムちゃんは一回、言葉を止めた。いったん龍水ちゃんを見たあと、俺たちのほうを見て、最後になにもない空のほうをみた。
    「どうかした、クロムちゃん」
    「なんでもねえ。とりあえず話きくぜ。仮説立てんのもそっからだ」
     クロムちゃんは持ってきたペンを手にとると、話を聞く姿勢になった。
     それに、というさっきの言葉。なんとなく、分からなくはない。



     俺たちはひとまず、切欠となった二週間前の出来事を説明した。その場にはクロムちゃんも居たから話は早かった。
     海に落ちた時のこと。俺はすぐに浮上して、みんなのところに戻ったこと。もうひとりのあさぎりゲンは一日経ってから砂浜に戻ったこと。街に戻ったら、テレビに映る俺がいたこと。
     クロムちゃんは首を傾げた。
    「一日経って砂浜に戻ったんだよな? それまでの記憶はどうなってんだ」
    「海に落っこちるまでに記憶はハッキリしてるよ。怪しいのは海に落ちてからで、ちゃんと泳げなかったんだよね。酔ってたせいもあるかもしれないけど、俺はどんどん沈んでいって、これ死んだかも、て思ったのを最後に意識がなくなった気がする。で、気付いたらずぶ濡れの格好で砂浜」
    「こっちのゲンとは記憶が違うんだな」
    「そーね。俺は海に落ちたは落ちたけど、死にそうになるほど溺れた記憶はないのよ。……正直、溺れてから海に上がるまでのことはちゃんと覚えてないけど、とにかく必死で」
     書ける字が増えたクロムちゃんが、広げたノートに話をどんどん纏めていく。
     白い紙のうえに、長い横棒の線が引かれて、途中で二又に別れた。その別れる点のところにクロムちゃんが黒いマルをぐりぐり描いて、矢印でクエスチョンマークをつけた。
    「このハテナのところは、どっちも記憶がねえんだ」
    「そっか。そーだね」
    「この瞬間でふたりになった可能性がありそうだな。そこからは完全に別行動してるってことだろ。記憶の共有みてーなのも無し、と」
    「ぜんぜん無いね。俺なんて自分がもうひとりいることにも気付いてなかったし」
    「体調わりーとか、記憶が途切れるみたいなことは? へんな夢見るとかよ」
    「特になかったなあ」
    「つか、服とか持ち物もぜんぶ同じだったのかよ」
    「そーね。端末も複製されてたみたいだし」
     端末、とクロムちゃんが呟く。俺は自分が持ってきていた端末を取り出した。あ、と隣にいるあさぎりゲンも声をあげる。
    「この端末ね、まったく同じものが二台あるのよ今。どういう仕組みか分からないけど、ひとりが使っているときは、もうひとりは使えない状態になっちゃって、通信も混線してるみたい」
    「やっぱそうだったんだ。それ最初に気付いたとき、ホラー過ぎて部屋で叫んだもん。ひとりだったのに」
    「なるべく使わないようにしてたでしょ?」
    「うん。最初は騒ぎにならないようにしようと思ってたし」
    「羽京ちゃんとの予定にキャンセル入れたときは?」
    「あれはワザと。もう待ち合わせ時間直前だったでしょ? 羽京ちゃんがメッセージに気付いて会わなかったら、俺から羽京ちゃんに会いにいって事情を説明するつもりだった。予定通り会ったとしても、ちょっと前に偶然会ってた羽京ちゃんは話が食い違うことに気付いてくれる。どっちに転んでも良かったってわけ」
    「策士だねー、俺」
    「おう、ちょっと待て」
     話を聞いていたクロムちゃんが、眉間に皺を寄せている。
    「端末がふたつあって、混線してるって話だよな? 今の話的に、使った履歴は端末上に残って共有されんだろ。それって妙じゃねえか」
    「それ千空ちゃんも言ってた気がする。仕組みが知りたいって」
     クロムちゃんがペンをとって、横棒の線を増やしていく。文字も増える。あさぎりゲンAと、あさぎりゲンB。端末Aと、端末B。そしてデータについてはA+Bと書かれている。
    「今の端末のシステムだと、データってのは全部この本体のなかに残るんだよ。ICチップまで複製されてるからって、メッセージも電話の履歴も、データだけ共有されるなんて意味わかんねえ」
    「クロムちゃん、システムのこと知ってるの?」
    「SAIみてえに詳しいわけじゃねえけど、だいたい分かんぜ。とにかく妙なことになってる」
     妙なことになってるのは俺にも分かる。クロムちゃんはペンを片手に持ったまま、しばらく考えていた。龍水ちゃんも口を出さず、クロムちゃんの考えがまとまるのを待っている。
     やがてクロムちゃんの手からペンが離れた。
    「ゲン」
    「うん」
    「仮説だけどな。この端末は、複製に失敗したせいで、中途半端な存在になってんだと思う」
    「中途半端な存在」
    「おう。まず前提条件として説明しとく。同一の人間が複数いたとき、同じ時間・同じ時空に重なって存在することができるかどうか? これは今んとこ、存在できるって考えだ」
    「……タイムマシン研究の話してる?」
     クロムちゃんは頷いてから、小さく首を振った。そうだけど、そうじゃないってことだろう。
    「物理定数について調べてるって話しただろ。まだまだ研究途中だけど分かってることもある。すげーわかりやすく言うと、物質ってのは、あらかじめ自然界で設定されている定数のうえでだけ安定して存在できんだ。俺も、ゲンも、龍水も、この端末もな。んでこの定数が何かの理由で狂うと、物質は安定を失って、発生ができなくなる。存在している物質もしばらくは保てるけど、ほっとくと消滅しちまう」
    「千空ちゃんみたいに難しいこという……」
    「もっと分かりやすくしてえけど、そうとしか言えねえ。んで俺が毎日やってんのは、この定数ってのをとにかく発見しまくることと、最終的には存在が安定できる仮想空間を四次元以上の空間に作ることな」
    「フゥン。その仮想空間ができると、物質が時間を行き来するためのゲートの実現に近付くというわけだ」
    「おうよ。ただ、これはもうちょい続きがあんだよ。さっき話した“設定されている定数”ってのは、複数パターン存在してんじゃねえかって説がある。あるっつうか、今はけっこう有力だな。ホワイマンについて色々調べてるけど、あの技術がどうなってんのか未だにサッパリ分かってねえ。今まで信じられてた物理法則に当てはまらないって千空が言ってたことがある。けど全く当てはまらないっつうより、部分的に違ってんだ。んで可能性として浮上してるのが、ホワイマンは俺らが存在してる定数とは違うパターン上にいるんじゃねえかって可能性。けど大幅に違ってるんじゃなくて、俺らの世界にもギリギリ存在できる程度の違いだから物質的に安定もしてる」
    「はー。クロムちゃん、すっかり現代の科学者だねえ……」
    「そんで俺の考えだけどよ。ゲンはこの、“定数の違うパターン上”にいる状態なんじゃねえか?」
    「……はい?」
    「海に落ちる前までは、ゲンは俺とか龍水とか他のやつらと同じ定数のうえにいた。けど落ちたときに起こった何かのせいで、俺らの物理法則にあてはまらない状態になってんだ。んで端末は、まだその違う定数上にいるわけでもねえし、今までの定数上にもいねえ。中途半端だから、ふたつあるとも無いとも言えねえのかも、っつう考えだ」
     俺は返事ができない。
     となりのあさぎりゲンも同様だ。
     ひらめき。奇抜。俺の頭のなかには少しも無かった発想。そんなわけある? って言い返したいけど、クロムちゃんの説明に対して根拠を持って反論できるほどの知識が俺にはない。龍水ちゃんが身を乗り出した。
    「つまり、ゲンの端末だけはこの世界の定数上にギリギリ踏みとどまっている可能性がある、ということか?」
    「おう。なんつうか今のゲンの状態って、ホワイマンにちょっと近いんだよな。どうやって発生してどこから来たか分かんねえところとか、存在としちゃ同一だけど意思はバラけてるところとか」
    「怖い怖いこわい」
    「わりい。けどマジで考えがあってたら、あんま心配いらねーと思う。そのうち直るだろうしな」
    「直る?」
    「ホワイマンは完全に違う定数上のやつだから、もうずっとあのままだけど、ゲンはもともとの定数から事故でズレてる」
    「けど、ズレちゃってるんだよね?」
    「元々のパターンからズレてる、ってのが大事でよ。物質ってのは修復能力を持ってて、自分が存在し続けられるように自分自身を修正するようにできてんだ。人間の身体だって、大けがだったら死んじまうけど、ちょっとの傷ならほっときゃ治る。ゲンって存在も、自分がもといた定数上に戻ってくる。怪我が治るみたいなもんだ」
    「確証はあるのか?」
    「これでも色々調べてっからな。定数が違う二つの空間を設定してそこに物質を置くと、発生している物質は自分がより安定できるほうの空間を目指す動きになるんだよ。基本的には自分がもともと存在してたほうの空間な」
    「戻ったらどうなるのかな?」
    「そりゃ、」
     クロムちゃんはすぐに答えようとして、一瞬、言い淀んだ。
     その一瞬の表情だけで俺はクロムちゃんが言おうとしていることが分かった。それは隣にいるあさぎりゲンも同様で、クロムちゃんの隣で話を聞いていた龍水ちゃんも同じだった。
    「……ゲンのオリジナル? が残って、複製されたほうは消えんじゃねえか。どっちが複製か俺には分かんねえけど、とにかく両方が消えるってことはないだろ」



     風が気持ちいい、と久しぶりに思った気がする。
     俺ともうひとりのあさぎりゲンは、ふたりで地面に座り込んで、うすい水色の空を眺めていた。下のほうには街が広がっている。夜景になればきっと綺麗な街だ。むこうのほうには海がある。
    「どう思ってる?」
     あさぎりゲンが訊いてくる。何のことか、教えてもらうまでもない。
    「なんとも」
    「ぶっちゃけ俺、クロムちゃんの言うこと当たっててもおかしくないと思う」
    「そう?」
     俺は首を傾げた。隣のあさぎりゲンは、髪を耳までかきあげながら話していく。
    「俺さ、溺れたときに死んだかもって言ったじゃん」
    「ああ、そうね」
    「死にたくなくて、こういうふうになっちゃったのかなって考えた。だから自分が死んでないって分かった以上、あとは元に戻るだけだよ」
    「そう言われると、納得しちゃうねー」
    「でしょ」
    「じゃあ、消えるのはどっちだと思ってる?」
     俺のほうから訊いた。
     あさぎりゲンは、俺をみて、ほんのちょっとだけ笑って、前を見た。
     回答はない。
    「分かってんじゃない?」
     代わりに返された言葉はそれだ。
     本当に嫌なやつだな、って心から思った。あさぎりゲンは、性格が曲がってる。少なくともそうやって自分を見せている。
    「まさかと思うけどさ。そうだとしたら、俺のこと殺しちゃう?」
     真面目に問いかけられた。一度は自分が死んだと思った人間からの、抑揚のない言葉だった。
    「……しないよ」
    「そう?」
    「自分を殺すのって趣味悪すぎない?」
    「これは俺の勘だけど。今のうちにどっちかひとりが死んだら、残ったひとりは消えないまま、ずっとあさぎりゲンとして生きていくんだと思う」
     だろうね、と頷いた。これがスワンプマンだとしたら、本当にそうなるに違いない。残ったひとりが、オリジナルとして社会のなかで生きていく。自分が死んだことも知らないで、自分に対して疑問を持たずに過ごすのだろう。自分の死体が世界のどこかに残っていることを知らないまま、明るい世界を歩いていく。
     けど俺は事実を知っちゃったし、そもそも誰も死んでないし、自分の役割がいらなくなったことも分かってしまった。
     俺はあさぎりゲンが死んだときのために、どこからともなくやってきた何かなのだ。

    「べつにさ、世の中的には、残るのは俺たちどっちでもいいんだよね」
     なんとなく投げ出したような気持ちになって、そう言ってしまった。だけど隣にいるあさぎりゲンは首を傾げる。
    「少なくとも羽京ちゃん的には、何も知らないあさぎりゲンが残ってくれた方が都合がいい」
    「あー、そうかも」
     ふふふと肩を揺らして笑った。
    「やっぱ教えてくんない? 羽京ちゃんの秘密」
    「秘密っていうか、秘密になってないと思うけどね。そもそも本当に何も聞いてない?」
    「羽京ちゃんからは聞いてないけど」
    「あさぎりゲンなら、ちょっと考えたら分かるよ」
     視線をまわりに巡らせた。俺たちの周りには誰もいない。龍水ちゃんとクロムちゃんは、先に車のなかに戻っている。クロムちゃんの話が終わったあと、しばらくふたりで話したいからって言うと、ふたりとも気遣って先に戻ってくれたのだ。
     だからここまでの会話を聞いている人はいなかった。
    「俺さ、今まで自分のことが好きとか嫌いとか、あんま考えたこと無かった。けど俺もやっぱり、俺のことが好きだよ。消えるのはやだなーって思うくらいには」
    「うん。わかる」
    「もうドジしないでね。ちゃんと長生きして、おいしい思いもいっぱいして、勝ち馬にも乗りまくってね」
    「もちろん」
    「これはあげる」
     俺は自分がずっと持っていた端末を、あさぎりゲンに差し出した。相手はしばらくそれを見て、考えている様子になったあと、端末を受け取った。
    「もしも俺が消えたあとも残ってたら、千空ちゃんとこに持って行って。調べたいって話してた」
    「残る気はしないけど、まあいいか。けど二台持ってると、どっちがどっちか分かんなくなっちゃうね」
    「俺のはバッテリーカバーのとこに千空ちゃんのサイン入ってるから」
     カパ、とプラスチックの軽い音がした。俺もまだ見てないのに、あさぎりゲンはあっさりと内容を確認する。そこに書かれているものをしばらく眺めたあとで、カバーは元に戻された。
    「なにこれ」
    「なんて書いてるの?」
    「見てないんだ」
     視界の端に、さっき渡したはずの端末がうつる。横目で見ると、こちらに向かってあさぎりゲンが差し出していた。説明はない。俺はその端末と、あさぎりゲンとを何回か見比べて、そのあと黙って受け取った。
     必要になったわけじゃない。だけど俺は、多分そのうち消えるそれを眺めているうちになんとなく惜しい気持ちになって、バッテリーカバーを指でずらして外した。外れた軽いそれを裏返すと、そこには確かに千空ちゃんの字があった。
    「俺は、それの意味が分かんないからさ」
     隣から声。嘘だとは思わなかった。
    「そうね。意味わかんないだろうね」
    「なんなの?」
    「教えない」
    「ヤなやつ」
     ふふっと笑って、それには返事をしなかった。

     俺の隣で、あさぎりゲンがむすっとした顔のまま景色を眺めている。

     自分をここまで客観的に見れる機会なんて、人生でそう無いに違いない。良かった、って思った。
     もしも俺が俺のことをそこまで好きじゃなかったとしたら、今ここで凄く嫌な気持ちになってたはずだ。けど実際には、そういう気持ちが少しもない。俺は、俺が持っている性格も、言動も、矜持すらもけっこう好きみたいだ。
    「ねえねえ俺」
    「なに」
    「テレビに出てる俺みて、どう思った?」
     視線があう。あさぎりゲンは、ちょっと嫌そうな顔でこっちを見ていたけど、溜息を吐いてからは口を開いた。
    「噓くさくて、ペラッペラで、変なやつだったよ」
    「ええー? 辛辣じゃん、自分のことなのに」
    「けどそういうのを楽しんでるから、まあいいやって感じ。仕事をしてる姿を見てさ、なんであそこに立ってるのが俺じゃないんだろうって思った」
    「ふーん。大好きじゃん? 毎日こんなに忙しくてうんざりしてんのに」
    「そうだよ。俺は俺が好きなの」
    「わかる」
     声を出さずに、ふたりで笑う。
     そろそろ行こうか、と言われて、俺は立ち上がった。
     明日から俺は、あさぎりゲンであることを止めなきゃいけないんだろうか。やだなあ。ちょっと泣きそうになっちゃう。
     だけど手のなかにある端末が、もうしばらくだけは俺のことを引き留めてくれる。



    ===

     人からはたびたび心配されるが、千空は基本的には規則正しい生活を心掛けている。毎日七時間の睡眠は心掛けているし、食事を抜くこともない。自炊をすることは滅多にないが、栄養バランスも考えているほうだと思う。自分の体力のなさはよく分かっているからこそ、管理はしっかりしなければという考えだ。
     朝の七時に目を覚まして、外の様子から天気をたしかめて、次に端末を手に取る。新着はない。それを元の場所に戻して、近くにあったもう一台の端末へと手を伸ばした。
     横の電源ボタンを押すと液晶画面が光って、そこには着信履歴が残っていた。時間はほんの数分前。
    「……」
     履歴画面を出した。電話番号が残っているが、登録されている番号ではない。というよりもこの端末には誰の連絡先も登録していない。普段使いをしていない予備の端末で、何か理由があってメイン端末が使えなくなった時のために置いてあるだけのものだ。ずっと前に興味本位でICチップを複製したときに使ってみたのだが、システム側の問題なのか、電話もメッセージも送受信が上手くいかず、実用はできなかった。だから今は別のチップを入れてある。
     寝転がったままで、一件だけ残っている履歴を選んで、発信した。
     よくあるコール音だった。何回か鳴って、それは途切れた。
    『おはよう。千空ちゃん』
    「早えよ」
    『メンゴ。やることなくって、暇しちゃっててさー』
    「今どこだ」
    『海。朝の海ってさ、ゴイスーにキレイね。今更だけど』
     上体を起こした。窓から外を見る。それなりに栄えている街だが、車をしばらく走らせれば緑が広がり、海もある。朝の薄靄でそこまでは見えないが、この電話の主がいるとしたらそこだろうか。
    「テメー今ひとりか」
    『うん。人に会う心配のない場所って、意外と少ないのね。しばらくはここにいるつもり。このまえはありがとね、千空ちゃん。お礼ちゃんと言っとこうと思って、電話したの』
    「会ったのか」
    『おかげさまで。あれから龍水ちゃんとクロムちゃんにも助けてもらってね。俺はあさぎりゲンに会って、話すことも話して……まあ別に、話さなきゃいけないことなんて大してなかったんだけど。そんで今は、残された時間を自由にのんびり過ごそうとしてるってわけ』
     やっぱりそうか、と千空はひとりで納得した。
    「時間、どんくらい残ってんだ」
    『分かんない。あと五分かもしれないし、一日かもしれないし、一週間かもしれない。……。まあ、クロムちゃんの仮説が正しければの話だけどね。千空ちゃんも分かってたんでしょ?』
     返事はしなかった。電話口のむこうの話は続いていく。
    『この番号は俺の端末に登録されてなかったし、ほかの誰も知らなかった。繋がる可能性があるとしたら千空ちゃんが言ってたあれしかないじゃん、って思ってね。そんでわざわざその番号を俺にだけ教えてくれたってのはさ、こういう存在になってる俺の、貴重な話し相手になってあげてもいいよっていうメッセージでしょ』
    「なに勝手に想像してんたメンタリスト。この番号を教えた理由なんざ識別用以外にあるわけねえだろ」
    『そーお? じゃ、そういうことにしといたげる』
     電話口からは明るい笑い声が聞こえた。よくよく聞いていれば、ゆったり打ち寄せる波の音も入っている。海にいるというのは本当らしい。返事をしないでいると、笑い声が収まって、波の音だけが残った。
    『俺ね、最後の話し相手が千空ちゃんで良かったよ』
    「なに気色悪ィこと言ってんだ」
    『ぜーったいそう言うと思った。ずっと前に言ったでしょ、俺は千空ちゃんのことがわりと好きなのよ』
     そういえばかなり昔にそういうことを言われた気がする。懐かしい話を引っ張り出してきたことに対してなにか言ってやりたい気持ちもあったが、好きに言わせても良い気がした。
     もしも電話の向こうにいる男が本当にスワンプマンだとしたら、そのうち消える。どう消えるのかは想像もつかないし、この目で見てみたいとも思うが、見られることは望まないだろう。
    『ねえ千空ちゃん。もしもクロムちゃんの仮説が違ってて、俺がこのままだとしたら、俺またこの番号に電話するね』
    「好きにしろ」
    『そんで龍水ちゃんにお願いして、新しい名前とか住む場所とか用意してもらうね』
    「龍水が良いって言えばな」
    『言ってくれるよ。でもって羽京ちゃんには聞きたいことがあるから色々おしえてもらう。千空ちゃんとクロムちゃんには、俺が何者なのかってのを解明してもらおっかな』
    「メンタリストにはどう説明すんだ」
    『説明しない。脅す。ヘマしたら俺が代わっちゃうからせいぜい頑張れ、って』
     千空は声をあげて笑った。それはなかなかに楽しそうで良い。
     これが二十一世紀の旧時代なら大問題に発展したかもしれないが、今の時代はまだ色んなところが復興途中のストーンワールドだ。想定外のことなど幾らでも起こりえる。
     そのとき、置いてあって普段使いの端末からアラームが鳴った。起床時間を知らせる音だ。そろそろ顔を洗いにいかないといけない。
    『じゃあね千空ちゃん』
     音が聞こえたらしい向こうの相手が、電話を切り上げようとした。
    「またな」
     返事は聞こえなかった。ふふ、と苦笑いみたいな声が聞こえて、それを最後に通話が切れた。
     液晶の画面をしばらく眺めていた。そのままにしていると画面が薄暗くなり、さらにそのまま置いておくと画面は真っ暗になった。

     顔を洗った。パンを焼いて朝食を済ませた。
     今日はこれから、研究所の予定だ。やることがある。千空は着替えて、パソコンと端末を鞄にいれた。部屋をでて歩きながら、端末を操作してメッセージを送る。
     宛先にはクロムがいた。そして龍水がいて、羽京がいて、最後にゲンもいた。メッセージの受け取り手は五人。運が良ければ全員が来るだろう。
     それは無事を喜ぶためでもあり、科学者にとっては検証のためでもあり、そして送るべき人間を送るための場でもある。

    『集まれるやつは午前十時に集合。例の桟橋』

     もうちょい待ってやがれ。呟いて千空は端末を仕舞い、歩幅をひろげた。





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    SuzukichiQ

    DONE龍羽ワンライです
    『聞こえた!』 実際のところ、普通の人はどのくらい聴こえるものなんだろうと考えたことがある。
     羽京にとっては生まれたときから自分の聴こえ方が自分にとって普通だったから、感覚的な意味で聴力の良さに気付くのは遅かった。
     両親はたぶん早く気付いていた。幼少期の自分はどうやら言葉の発達が人一倍早かったらしい。歌を覚えるのも物心がつくより前のことだった。それでも普通に育てられたから、まわりと自分の差異が分かってきたのは小学校に上がってからだったと思う。地獄耳と初めて言われたのもそのくらいの時期だった。
     気にしていた時期もあったが、専門機関で検査を受けてからは納得が出来るようになった。どんな小さな音でも聴こえる――ということではなくて、どうやらこの聴力の良さというのは、周囲をよく観察し、洞察する性分と掛け合わさった結果なのだという。その説明は自分のなかにストンと落ちて、以降は地獄耳だと言われても実際そうなんだと思うようになった。疲れていたり周りが見えていないときには他よりちょっと耳がいいくらいの人間だし、高い集中力が必要な環境になれば、拾った音の情報をより多く早く処理できる。それで周りに頼られることも増えた。
    2320

    SuzukichiQ

    DONE1回書きたかったあさぎりゲンの話。五知将揃い踏み。
    カップリング要素はないけどゲンは千空が好き、千ゲンでもゲン千でもない。龍羽生産ラインの気配があるかもしれない。
    空想科学的要素を含みます。
    スワンプマン(仮)【あさぎりゲン+五知将】

     どうやら俺には偽物がいる。

     そのことを知ったのは、仕事が終わって日本に帰国して、数日の貴重なオフを過ごしている最中だった。本職はマジシャンだっていうのに、本格的な復興プロジェクトが動き出してからというものの、相変わらず技術者や政府要人がいる場所に引っ張り出されては交渉役や調整役になっている。重要で責任の重い仕事が終わったあとの休息。開放感が最高だった。遅めの時間に起きて、外に好きなものを食べに行って買い物をして、最近充実しつつある本屋で新しい心理学の本を手に取ってみたりして、夕方になったら仲のいい人と待ち合わせ。
     羽京ちゃんも以前と変わらず俺に負けないくらい忙しい。そんで今もやっぱり美味しいものが大好きなので、仕事終わりに美味しいものを食べに行こうって誘うと大体乗ってきてくれる。今日もそんな感じで、前々から決めていた約束の時間に羽京ちゃんはやってきた。
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