あの人 大学の先輩から「コンビニでバイトするなら高級住宅街あたりが治安がいいし夜中楽だぞ」と勧められるがまま、都内有数のタワーマンション、その一階にあるコンビニでバイトを始め半年。先輩の言うように自分が大学終わりに勤務する時間は殆ど人気もなく、それでいて給料もいいこのバイトが気に入っていた。
夜中二時、やる事もなくぼんやりと突っ立っていると来客を知らせる音楽が鳴る。いらっしゃいませ、と小さく声を出して入り口に目を向けるとその姿に自分の心臓がどくりと跳ねた。
すらりとした細い体にスーツを纏い、アンダーリムの眼鏡を指で直して歩く。月に一、二度深夜に現れるその人に目を奪われた。この眼鏡の人がどのコーナーに行くかも分かっているのに、目で追ってしまう。眼鏡の人は冷蔵品のコーナーへ迷う事なく歩き、新商品のカップケーキを何個か手に取りレジへ来た。
「お願いします」
自分が声を聞く事ができるのは、この瞬間だけ。優しく言われているはずなのに、どこか冷たく、それでいて心地よい声色。商品を置かれた時にかすかに香る清涼感のある香水。同性のはずなのに、何故か色気を感じて胸が高鳴る。きっと仕事で遅くなったお詫びに、彼女か奥さんにお詫びとして買っているのだろう。そう決めつけながらも、そんな相手を浅ましい目で見てしまう自分に嫌気がさした。
普段なら何も言わず商品を渡す所だが、少しでも声を聞きたくて「スプーンはいくつお付けしましょうか」と声をかければ少し考えた後に微笑んで「一つで充分ですよ」と言われた。一人で全て平らげるとは、相当甘いものが好きな人なんだな……と思いながら、はい、と返事をして言われるがままに手渡した。
その日以来、仕事中になんとなくあの眼鏡の人のことを考える日が増えた。他にも同じ時間、同じ曜日に来る客、買うものが同じ客はたくさんいるはずなのにあの人のどこか現実味のない空気に、魅了されてしまっていた。
初めてあの人を自分が意識したのはバイトを始めたての頃、高級そうなスーツ、アイロンがしっかりかけてある白いワイシャツの手元が、かすかに血で汚れているのに気づいた時だった。思わず凝視していたらしい自分の視線に気づき、やはりあの人はにこりと微笑んで手を引っ込めた。
──きっと、住む世界の違う人なのだろうな。
あの人のこと、何も知らない今が一番、楽しいのかもしれない。そう自分に言い聞かせながらも、今日も深夜のバイトに明け暮れた。
二二時。一度休憩を取るように言われマンションの玄関横へ煙草を吸いに出る。今日は新商品が出る曜日だったのでそれなりに忙しかった。新商品には季節をモチーフにしたケーキも複数あり、もしかしたら今夜あたりあの眼鏡の人も買いに来るかな、とぼんやり想う。
バタン、と正面玄関側で大きくドアを閉める音がしてふいに視線を向けるとタクシーからスーツ姿の男二人が身を寄せ合って降りてきたところだった。
「宇佐美、鍵を出せ。ここから先は一人で帰れるだろう」
「ん……、冷たいですね……。ここまで来たんだから、そのまま支えになってくださいよ」
その姿を見て、あの眼鏡の人だと気がついて一気に心臓がバクバクと速まる。おぼつかない足、少し甘えた上擦った声、同僚のような人。おそらく、職場の飲み会か何かで酔って送ってもらったのだろう。自分の知っている『普段』のあの人とのギャップに何故か見ては行けないものを見たような気分になった。
結局、代わりに鍵を受け取った同僚の人に支えられエントランスへ入っていく。その一連の流れを目で追ってしまっていた自分と、同僚の人の機械質な目が薄暗闇の中一瞬合った気がした。
今日は珍しいものを見た。普段クールな印象の眼鏡の人の乱れた姿。同僚……即ち交友関係。あの後からあの人のことばかり考えてしまって仕事どころではない。やはり、憧れだけで気になる相手の他の部分は知らない方が良いのだろう、と結論付けたところに来客を告げる音楽が鳴り響く。時刻は二三時を過ぎていた。
いらっしゃいませ、と声を出した後反射的に息を飲む。カツ、カツ、と靴を鳴らして店内を歩き回るその人は先ほどの『同僚さん』だった。あの人と同じように上質なスーツを着てスラリとした身体は明るい場所で見ると威圧感がすごく、義眼なのだろうか、白い眼も鋭さがあって恐怖心を煽られる。
眉間に皺を寄せたまま『同僚さん』は何度か店内を歩くと新商品のケーキを数個手に取りカゴへ入れ、その後は迷うことなくドリンクコーナーへ行きペットボトルを数本さらにカゴへ入れた。先ほどまで速かった心臓が、熱を持っていた脳みそが急激に冷えるのを感じる。ああ、きっとこの人はもう一度あのエントランスを通るのだ、と嫌でも理解できた。
何も言わずにカゴを置かれ、震える手で商品をスキャンしていく。その度電子音だけが店内に響く。水、水、スポーツドリンク、スポーツドリンク、カップケーキ、ショートケーキ、プリン、生クリーム大福……。
最後に、小さな箱を手に取りスキャンを終え、紙袋へ入れる。毎日のようにやっている仕事の筈なのに、うまく封が出来ずに時間がかかった。
「スプーンはいくつ付けますか」と震える声で話しかけると、殆ど即答で「一つでいい」と言われ決済を終えた。商品を渡す際にあの眼鏡の人の香水がふわりと漂った。
ありがとうございました、と背中を見送りどっと疲れが来てしゃがみ込む。他に誰も客がいなくて良かった。なんてことはない、ただ、少し知り過ぎてしまっただけの話で、今日見聞きしたものは自分には所詮関係のない世界の話だった。
レジの下でうずくまり「あの人、新商品のプリンより普段の生クリームプリンのが好きだと思いますけどね」と、情けない悪態を呟くが、拾うものは誰もいなかった。