この子の七ツのお呪いに その日悠仁はいつもより周りが輝いて見えた。なぜなら今日が彼の7歳の誕生日だったからだ。
朝起きて大好きな両親と祖父に頭を撫でられ誕生日おめでとうと言われ、学校でもクラスのみんなからおめでとうと言葉を貰った。
誕生日順から言えば悠仁は遅い方だ。もしかしたら春休みに入っているかもしれず、友達に祝って貰えないかな…と考えていたが、本日3月20日、運よく終業式だったのである。
昼前に式を終えて早足で帰ってきた悠仁は祖父と共に昼食を取り、友達と遊んでくる!と言って出かけて行った。
祖父はその時何処に行くのかを聞けばよかった、と死の間際まで後悔することになる。
七ツまでは神のうち。そこを過ぎれば人の子よ。
──では七ツ、当日は?
***
悠仁は大人の言うことをしっかりと聞けるいい子であったが、好奇心旺盛な子どもでもあった。
であるからして、親からも祖父からとくと言い聞かせられていた「七つまでは御山に入ってはいけない」ということを破ることはなかった。しかし、今日それを破る事になる。
本人は約束を破った、言いつけを守らなかったという思いはない。何故ならば既に自分は七歳であるという考えとともに、学校の友達らと山へと探検に行くことを楽しみにしていたからだ。
鼻歌交じりに恐るべき身体能力を発揮し駆けてゆく悠仁には、なぜその山に七つまでの子どもが入ってはいけないのかの理由も聞かせられていたこともすっぽりと抜け落ちていた。
──その御山に入ってはいけない。七つまでの子が入ってしまうと社に祀られた神に捧げられたと看做され、還ってくることは無い。
捧げられた、とどうしてわかるのかと言うと、その直後に山から湧き出る水が赫く染まる、地盤が崩れる、見るも無惨なおぞましき姿の異形が降りてくる等もあれば畑の豊穣や気候の安定、流行病にかからない、元は子どもと分かる原材料で造られた神器の下賜等もあり、その神は非常に気まぐれで、残酷なのだということを思い知らされる御業の数々を見せつけられるのだ。
それら全てが捧げられたものの対価として神が人に贈ったものである、と大人たちは理解せざるを得なかった。
だからこそ七つまでの子が入らぬよう、街の人々は目を光らせていたのだ。
それでも子どもと言うのは難儀なもので、人に強く言われたことはやりたがる性質を持ち、とにかく好奇心旺盛。
悠仁たちが御山を探検する、という行為を選択したのも仕方の無いことと言えるのだった。
ところ変わって御山の麓、山道前。そこには何人かの子どもが集まっており、その中に悠仁も居た。
「今日からゆうじもオレらの秘密基地に招待できるな!」
そう言ったのは悠仁のクラスの友人だった。それを皮切りに移動しつつ話していく。
「ゆうじくんも絶対気に入るよ」
「そうそう、おれたちが頑張って作ったんだぜ! あっと驚くかんな」
「へへっ、それは楽しみだな!」
と、友人たちの言葉を受けてワクワクを高まらせていく悠仁は彼らを追いかけて足早に山道へと近づいていった。
そうして注連縄が括り付けられている木がある境界線を越えた時、ケヒ、という声が聞こえたような気がし──世界が一瞬、暗転した。
「…あれ? みんな?」
***
悠仁は何が起こっているのか分からなかった。ついさっきまで目の前を歩いていた友人らの影も既に無く、見回しても誰もいない。
幸い、場所自体は聞いていたのでそのまま山道を歩いてゆくことにした。帰る、という選択肢が無いのは子ども故か、それとも境界線を超えてしまったからなのかは分からなかった。
歩いているとふわ、ふわ、と先程から嗅いだことの無いいい香りが漂ってきており、それは山道の先、秘密基地とは別の方向から香ってきていた。
友人らは自分を置いていったことだし、ならば少しぐらい自分の思うままに動いてもいいだろうと考え、香りの元に引き寄せられるように山道を辿ってゆく。
そうしてたどり着いた場所には立派な社が建っていた。
「おぉ、すげぇ〜! でかい! かっこいい! …あ! こっからいい匂いがする!」
見たことも無い立派な社に目を輝かせゆっくりと近づいてゆく悠仁の頭の中には、不用心な行動とは逆に警告音が鳴り響いていた。
だめだ。これに近づいてはいけない。早く帰ろう。家にかえろう。触ってはだめだ。まだ帰れる。まだ、戻れるのだ、と。
しかし悠仁の体は止まらない。
固く閉まった社の扉に触れると、それまでの拒絶感が無くなったかのように開いてゆく。
そこからはもう、悠仁の動きは早かった。
開いた扉の中にするりと体を躍らせて入り込むと、そこに立っていた巨躯の男の脚に嬉しそうに抱きついた。
「ケヒッ、久方ぶりの子供か」
「おれいたどりゆうじ、きょうで七さい! ね、ね、うで四本あるね、すごいね! かっこいいね!」
悠仁が見上げた先には四つの目、四つの腕、そして腹にはそこにあると知らねば分からぬようにぴっちりと閉じた大きな口を湛えたおよそ人とは言えない様相をしている神がいた。
この男こそが御山に住む、「両面宿儺」と言われている恐るべき神だった。
「小僧、俺のことはそうさな……宿儺様、と呼べ」
「……すくなさま?」
「そうだ」
いい子だ、と優しげに頭を撫でられて悠仁は嬉しくなり、目を細め掌に頭を擦り付ける。その様子を見て宿儺はおぞましい笑みを浮かべていた。
ひょい、と片腕に悠仁を抱えると踵を返し奥へと進んでゆく。
「小僧。今日で七つと言ったな」
「ん、そうだよ! おれ、きょうが誕生日なんだ」
「そうかそうか、ならば美味い飯を食わせてやろう」
「え、ほんと!? ……でも」
「でも、何だ? 何か問題でもあるのか」
言い淀んだ悠仁に宿儺は問いかけるが、でも、の言葉の続きが出てこない。
「あれ? どうして」
「ほら、問題など無いだろう? 小僧」
「……うん!」
境界線を越え、扉を開けてしまった悠仁に変化が起きていた。 両面宿儺の贄に、捧げ物になる為の忘却と認識の書き換えが始まったのだ。
両面宿儺が坐す領域を常世と言うならば人間が暮らす領域を現世と言う。 二つの界は常に重なってはいるが通常行き来は出来ない。しかし、条件付けや本人の資質如何によっては行うことが出来るのが今回の悲劇の元である。
悠仁は条件付けの方に引っ張られたと言っていい。
また常世はひとつに繋がっているのではなく、領域の主が一人一人居る言わば縄張り方式である。
領域の主にとっての世界であるため、主の意向を受けて変化するのだ。 悠仁の認識の変化のように。
この領域の主である両面宿儺は、虎杖悠仁という子供を逃がさぬように、じわりじわりと侵食していった。
誕生日当日という七つの狭間に居る悠仁は神の子と人の子、両方の性質を内包しており、そのため境界線を越えても、条件付けの穴を突いて来た道を戻れば帰れたはずだった。
しかし、そうはならなかった。
ならなかったのだ。
運命とは非情なのである。
***
彼の友人らは悠仁がついてきていないことに秘密基地としている場所に着いて始めて認識した。
「あれ? ゆうじは?」
「迷ってんのかな」
そう口々に疑問を言う子どもらは段々と気にしなくなってゆく。
「……まあいっか」
「遊ぼうぜ!」
「よーし!」
その中で数人、社のある方向を見て首を傾げた子らも居たが──引っ掛かりを覚えつつ次第に気にしなくなっていった。
とっぷりと日が暮れ、解散する頃には悠仁と一緒に来たことさえ忘れている子も居るくらいには。
そうして子どもらが家に帰って少し経ったあと、電話が鳴り響いた。
「もしもし。お宅にうちの……悠仁は、お邪魔していますでしょうか」
「悠仁くん? いいえ、うちの子が帰ってきた時には見ませんでしたけど……どうしたんですか?」
そういう電話が虎杖家からかけられてくる。焦るような悠仁の母親の声と内容に首を傾げ、今日は何をしたのかと自分の子どもに声をかけてゆく親たち。
「今日はね、ゆうじくんとおやまにいったんだ」
「ゆうじ……? 今日遊んだっけ?」
「うーん、あ、そうだ! 縄がある所までは一緒だったよ」
情報を聞いていくうち、この街に長く住んでいる人間ほど震えが止まらなくなっていった。
つまりはそういう事なのだ。
虎杖悠仁は両面宿儺の贄に選ばれ、帰ってきていないのだと。
その日虎杖家には慟哭が響き渡った。
***
社の奥、見たことも無い荘厳な建物の中を進んだ先のとある扉を超えた先には、大きな机と椅子が置いてある広間があった。
その上にはいつの間に作られたのであろう、湯気が立ちのぼる色とりどりの料理たちが広がっており、それに迎え入れられて悠仁は目を輝かせた。
「すげぇ! すくなさま! すごい! めちゃくちゃおいしそう!」
「そうだろう、そうだろう。お前の好物がわからない故、沢山用意させたが……気に入ったようで何よりだ」
宿儺のその言葉に子供はえもいわれぬほんの少しの空虚さを感じたが、それもすぐに湧き上がる悦びに塗りつぶされていった。
「え、すくなさまがおれのために?」
「誕生日と言うのでな。 嫌だったか?」
「ううん、ちがうの。すごく嬉しくて! だって、すくなさまが、おれに……! おれ、に……!」
感極まった様子で紡がれる声と言葉だったが、おれに、という後の言葉が出てこない様子を見て宿儺は、なるほど概念としてとはいえ人と神の間の子というのは強情だ、という感想を抱いた。そして面白い、とも。
神に関心を抱かれる事が決して幸運ではないということを理解し得なかったことは、悠仁にとっては幸せなことだったろう。
「さあ、たんと食え。全てお前のものだ。好きなだけ食らうがいい」
「……うん!」
指し示された席に座り、お手拭きで手を拭いてしっかりと手を合わせていただきます、と言って食べ始める悠仁の行動の端々から躾をしっかりとされているということが伺えた。
箸を取り目の前にあった美味しそうな食べ物を口の中に入れて噛み締める。するとどうだろう、幸福感と共に今まで食べたあらゆるものを忘れ去るような天国の味が広がった。
「どうだ、小僧。美味いだろう」
「めちゃくちゃおいしい……! すくなさま、ありがとう。ね、一緒にたべよ!」
隣に座って様子を見ていた宿儺に問いかけられて悠仁はしっかりと飲み込んでから弾けるような笑顔で答えた。
ケヒ、という声とともに笑う宿儺を見て悠仁も嬉しく思った。そして自分が美味しいと思ったものを箸で摘み、あーんと差し出した。
宿儺は嫌がることなくそれを食らう。
さながら人でいう夫婦の営みのようだと思ったためか、宿儺はとある思いつきをした。
「殊勝なことだ。なるほど、お前を俺の嫁にするのも悪くない」
「お嫁さん? おれ男だからお嫁さんになれないよ?」
「心配するな。神の嫁は男でも女でも関係ない。お前でも成れる」
「そうなの? うーん、うーん、よし。いいぜ、すくなさまがそんなに言うならなってあげる!」
神に仕えている者がここに居れば無礼千万とザワついただろうが、この食卓には悠仁と宿儺の二人のみ。
──この俺に向かって「なってやる」とは、まっこと面白きことよ。
人の子であればここには居ることはできず、神の子であればより上位の神である宿儺に怯え、固まり、話にならずすぐにすり減ってしまう。二つの狭間にいる悠仁だからこそできた子ども本来の無邪気さと愚かしさの兼ね備えた傲慢とも言うべき応答に、贄たちの人形のような応え(いらえ)に飽きていた宿儺は心の底から愉快と笑っていた。
「ほう、言ったな小僧。ならば『お前は俺の嫁になり、俺を支えよ。その命尽きるまで』な」
縛りと言われる契約の文言を紡ぎ出した後、その一つ目はまずは飯の奉仕だと言わんばかりに腹の口をぐぱりとあけて指で指し示した。
「『うん、いいよ』! おれすくなさまのお嫁さんねっ。うわっ、すくなさまもう一つお口隠してたのか〜。こっちのお口にはこれ! これも美味しかったから」
無知故にあっけらかんと応えてしまった悠仁は女の子がやるごっこ遊びの延長線上だと考えて、いそいそと「旦那様」へと奉仕を開始した。
2人が食事を取り始めたのは現世でいう午後2時過ぎ。それなのにどうして悠仁も疑問なく食べ始めたのかといえば、常世に来てから時間の感覚を狂わせる効果のある山道を登ってきた事で覚えた空腹感のせいだった。
常世と現世では時の流れは一定ではない。ゆっくりと流れる場所もあれば早く過ぎる場所もある。領域の主の気分によって変わるのだ。
しかし異分子である悠仁を取り込んだ領域は、今のところ常世と現世、どちらも同じ時を刻んでいた。
午前0時を廻ればまた領域を弄ることが出来るだろう、と宿儺は子供との食事を楽しみながら予想していた。
ある程度自分の腹が満たされたのだろう。悠仁は宿儺を見上げてまだ食べるか、と聞いてくる。宿儺はもういいだろう、と答えて席を立った。
「小僧、ついてこい。お前の部屋に案内する」
「おれの部屋?」
「そうだ。お前は俺の嫁となった。ならば部屋は必要だろう?」
「なるほど! ありがとう、すくなさま!」
箸を置き、ごちそうさまでした、と丁寧に手を合わせてから大股で歩く宿儺にたたた、と慌てて駆け寄って悠仁はついてゆく。
広い廊下の先には宿儺の部屋とわかる戸の隣に、真新しい部屋があった。
引き戸をあけ、中を見せると悠仁は興味津々で入っていく。そこは最低限の布団や机、箪笥などはあるものの、その他はまっさらな状態だった。
「ある程度整えはしたが、これからお前の好きなようにしていくといい。あぁ、そうだ。そこの扉で俺の部屋と繋がっている。行き来は自由だ」
そう示された先には同じような引き戸が壁にあり、それを見ても悠仁は便利だなと思うだけで疑問を浮かべることは無かった。
「わあ! じゃあすくなさまの部屋も…見ていい?」
「そこの扉を開けてみろ」
「うん!」
許可を得たので扉を開け、わくわくと部屋に入っていくとそこには生活感もしっかりとある、和式の趣のある空間が拡がっていた。
わあ、すごい。ここがすくなさまの部屋なんだ!と駆け回り、それにいい匂い、と胸いっぱいに空気を吸い込む悠仁の様子を宿儺は笑みを浮かべて見ていた。
時刻は現実で日が暮れた頃──悠仁の母親が皆に電話をかけていた時間になる頃だった。
**********
町内会や警察での「一応」の山の捜索はされたが、やはり悠仁は見つかることは無かった。むしろ、何故御山にやったんだと悠仁の家族を責め立てる者も居たぐらいにはこの街は神を恐れていた。
祖父は悔やんでも悔やみきれない思いを抱えて麓から夜闇に浮かぶ御山を見上げ、半狂乱の悠仁の母親を父親と共に家へと連れ帰った。
玄関の扉が見えるくらいの距離になった時、その前に立っている人影が家々の光に照らし出されていた。
それは真っ白なおかっぱ頭で中性的な顔立ちをした人間だった。その人は家に帰ってきた祖父たちを認めると「荒神神社の神主の裏梅と申します」そう言って軽く会釈をした。
玄関の前では、ということで居間に案内してお茶を出しつつ腰を下ろし神主である裏梅から話を伺う三人。
母親のほうは部屋に戻して休ませた方がいいというのは解っていたが、どうしてか全員で話を聞かねばならぬと思い裏梅の言葉を待っていた。
「此の度はあなた方がしかと育てられた悠仁様が、両面宿儺様の贄であり嫁…ひいては妻となられたこと、誠におめでとうございます」
ひゅ、という息を漏らしたのは誰だったか。
裏梅という神主からもたらされた言葉に思考が、理解が追いついてゆかずに沈黙が落ちる。
「そのため、両面宿儺様は今回の褒美をあなた方有象無象が結婚式に参列する権利と、五穀豊穣としました。その実りをある程度、式で献上せよとのお達しもありますが。感謝をなさい。二つも褒美を賜ること、これは今まで無かったことですから」
にこりと笑みを浮かべているがその声はどこか冷徹さが感じとれるほど鋭利で、かつ有象無象と言い放ったことで裏梅自身もまた一般人とは違う場所に立っていることが三人には本能的にわかった。
だが母は強し、と言ったところか。言の葉を発したのは悠仁の母親だった。
「嫁、妻、なんのことですか……!? それに贄と! あの子はまだ七つになったばかりで、いいえ、七つになっていたはずなのに!」
「黙りなさい」
「──ッ! いいえ、黙らないわ! あの子は私たちの子よ!」
「……はぁ。もはや儀式は成ったのです。諦めなさい、見苦しい」
怒気を強める母親と徹頭徹尾冷静な裏梅のやりとりを父親と祖父は見ているしかなかった。
「お方様は既に縛りを受け入れております。あなた方が騒いだところで揺るぎません。粛々と受け入れることだけが、あなた方に許された行為なのです」
裏梅の口から出てくる言葉にどんどんと顔を青ざめさせてゆく三人を尻目に、もう告げる言葉はないとばかりに彼はさっと立ち上がった。
「ま、待っ…」
「以上です。これ以上もこれ以下もありません。あなた方はお方様を産み落とした人間の親族となります故、式までに死ぬことはありませんが……両面宿儺様の機嫌を損ねればどうなるか、お考えになることです」
金縛りにあったように母親達が動けぬのを尻目に、裏梅はさっと立ち上がり去ってゆく。
手をつけられずに温くなったお茶がそこには残るのみだった。
混乱を落ち着かせるため、体を休ませるために横になった母親だったが、どうしても寝付けずに居た。布団からのそりと起き出して、つい十数時間前には誕生日のケーキや食べ物を楽しみにしていた存在が居たはずの場所をなぞってゆく。
この街で生まれ育った母親も、あの御山の神の理不尽さをよく知っているつもりだった。しかし、それが我が身に降りかかることになって初めてそれが理解に程遠いものだと思い知らされた。
もう戻ってこない、と頭の片隅で現実を受け止めながらも母親の嘆きは終わらない。
そんなことをしているうちにぼん、ぼん、と居間の時計から時間を知らせる音が鳴る。いつの間にか日付が変わる時刻──午前0時を回っていたようだった。
息子のことを諦めきれない思いを抱いて窓のカーテンを開けて御山の方向を見ようとしたとき、夜なのに光っていることに気がついた。
御山から紅い光が波のように広がり、夜空を照らしていたのだ。
とても幻想的だが、恐ろしい現象でもあった。
光は次第に収束していき、また夜空には暗闇が落ちてゆく。
「あ……ゆう……じ……」
自分の息子の名前は辛うじて紡ぎ出せるが顔がわからなくなっていることに動揺し、居間に立てかけてあった写真立てを見やるとそこには子供の顔にだけ光が入っているかのように見えなかった。
「いやっ! いやよ! 忘れたくない、わたしの、わたしたちの…ッ!」
悲しいかな、たかがヒトに出来ることなどなく。記憶から、記録から、「虎杖悠仁」を表す顔の記号が消えてゆく。
「あぁ──!!」
声と物音に起きてきた父親と祖父が見たのは、顔も分からない自分の子供と共に写っている写真を胸に抱きながら、嗚咽を漏らして床に崩れ落ちている母親の姿だった。
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「ここが閨…俗に言う寝室というものだ」
ひとしきり走り回った後に宿儺の部屋から奥へと続く戸を開けて見せられた先にはしっかりと誂えた帳台があり、几帳が上がっていて中には寝心地の良さそうな布団があるのが見えた。
畳の上で直に寝るよりもこちらの方がより快適な睡眠をもたらします、と随分前に神主が外から持ってきたものだった。
「お前の寝床でもある。眠い時にはここで寝ろ」
「うん。でも、お布団ひとつしかないよ?」
「夫婦はひとつの布団で寝るものだ」
「そっかー! じゃあこれから毎日すくなさまといっしょに…寝るんだね……毎日?」
「そうだ。お前は俺の嫁だからな」
子供の精神の抵抗を言葉でいなしつつ、無知を染め上げるために刷り込んでゆく。
カタン、と物が届いたことを知らせる音が鳴る。少し待っていろ、と言って宿儺が持ってきたのは桐の箱だった。それをおもむろに開けて中から服を取り出すと、立っていた悠仁にあてて大きさを確かめた後に一旦片手で持ち、元々着ていた服を剥ぎ取り始めた。
「えっ、ちょ、すくなさま」
「動くな。今からお前の服を俺が着せてやる」
「あ……や、やだ…」
脱がされた現実の残滓たる服に手を伸ばして取り戻そうとする子供に神は鬱蒼と笑った。
「やめて、すくなさま、やめて、取らないで、おれから、とらないで」
「違うなァ。仕舞うのだ。お前のコレを、この箱にな」
宿儺はケヒケヒと笑いながら子供が発した「とらないで」を端的に状況を示したいい言葉だと咀嚼し、味わう。子供が伸ばした手を掴み剥ぎ取った服を器用に折りたたんで仕舞ってゆくのも忘れない。
「……それ、『ちゃんとかえしてくれる?』」
「ああ、そうだな。『お前が忘れず、返して欲しいと願えば』」
「……ぐす、じゃあ…うん、『いい、よ』…ひゃあっ!」
そうして服を全て剥ぎ取り箱に入れ、蓋を閉めた後に子供がぽろぽろと流す飴玉のような涙をペロリと舐め上げると、宿儺は掴んでいた腕を離して用意したものを着せ始めた。
肌触りなどはよくても仕立て品でしかないこれらを着せるのは少々腹立たしいが、仕方がないと割り切る。ものの僅かで文字通り一から飾ってゆくと、ぐずっていた子供も着せられた着物や装飾品に興味が移っていったようだった。
「きれいなふく…」
「着物だ。着たことぐらいはあるだろう」
「きもの…あ、しちごさんで着たことある!」
悠仁はヒラヒラと裾をなびかせてくるりとその場で回る。どんどんと服に着られている、から服を着ているという状態になっていくのが外からでもわかる。ぎこちなく動いていた四肢が滑らかになってゆくのだ。
現実の残滓はもう、そこにはひとかけらも残されてはいなかった。
****
しゃりん、しゃらん、と鈴の音が響き渡る。天気は晴天。絶好の結婚式日和だった。
この日この街は異界に包まれた。
「夫、両面宿儺様、妻、悠仁様、両名の御成です」
豪奢な輿の上には異形の神と白無垢で着飾った男。道行く路には供物として街で採れたものが並ぶ。
街の人々はこの二人の婚姻を見なければならなかった。それが神に捧げた贄の褒美だったからだ。人々はその褒美を粛々と受け取らねばならない。
式が粛々と執り行われている傍で、神主の後ろ手に控えていた老夫婦が瞳に涙をうかべて妻と呼ばれた男の方を見ている。
それは悠仁の両親であった。
かろうじて悠仁という名前と息子であった記憶は残っている二人は、死なずの呪いを受けたに等しくこの時が来るのを何年も、何十年も待った。歳は百をとうに過ぎ、街には住めないので神主の持っている離れにて暮らしていたのだ。
「悠仁」
「なに、宿儺」
不遜にも神を呼び捨てにした後に視線で示されたのかこちらを見て近づいてきた男を見て、老夫婦は浮き足立った。
「ん、どったのあんたら? 呪い…かな…? ってコレお前のじゃん」
あーあー可哀想に、と呟くと彼は宿儺に振り向いて「呪いといてやっても?」と聞いていた。
「お前が解かんでもすぐに解ける。婚礼が終わった後にでも、な」
「ふーん? じゃあいっか」
そうして振り向いて行こうとする男を…悠仁を…いや、自分の息子を引き留めようと老婆は声をかけた。
「待って、悠仁、お願い、待って、顔をよく見せて……」
老婆はそう言ってよろよろと近づいてゆく。優しい子のままだった、この子は記憶にある人を思いやれる子だった、という思いを胸に抱いて。
「図々しく俺の名前を呼ぶなよ」
しかし、その思いは粉々に砕け散ってゆく。
「その名を呼び捨てにしていいのも呼んでいいのも俺の旦那様の宿儺だけなの。わかる?」
純粋無垢な年齢から幾年過ぎたか分からないわけでもなかろうに、老夫婦はその言葉に目を見開き涙がこぼれ落ちてゆく。この世では百余年。では常世ではいくつ過ぎ去ったのだろうか。
両面宿儺の薫陶と寵愛あつき半神、それが今の悠仁である。であれば人間への博愛はあれど、個人に対する情などない。
そんなものはありえないのだ。
「まって、私は、あなたの母親──」
その言葉をかけたのが間違いだったのだろうか。
「俺に母親なんて居ないよ。父親もいない。両親なんて居ない。居るなら梅ちゃんが俺の母親か兄ちゃんみたいなもんだけど。
だって俺、宿儺に拾われたんだもん」
老婆の言葉に不思議そうに首を傾げながら答える悠仁に、老夫婦は目の前が真っ暗になる感覚を覚えた。
「これ以上は時間の無駄みたいだね」
じゃあね、と踵を返して宿儺の方へと歩んでゆく悠仁の背中を二人は呆然と見るしかなかった。
そのあとに「ちゃんと死ぬんだよ」と零していたのは聴き逃してよかったのかもしれない。
「どうだった」
「どうだったもなにも、いきなり私は母親ですなんて言われても…って感じ。仮にそうだとしても関係なくない?
俺を捨てたんだから」
むくれる妻の頬を撫で、ケヒケヒと特有の笑い声が響く。
「要らんだろ? 現世の縁など」
「うん、要らない。俺には宿儺が居ればいい。ね、旦那様」
蕩けた顔をして旦那たる宿儺に寄りかかり存分に甘えると、悠仁は繰り返すように呟いた。
「要らない」
神と人の子、七ツの子。今は半神、神の妻。
****
とある街に、御山と呼ばれて畏れ敬われている山がある。
その御山に入ってはいけない。
七つまでの子が入ってしまうと、社に祀られた神に捧げられたと看做され、還ってくることは無い。そう言われ続けている山が今も、なお。
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あとがき、設定。
無垢な子供のまま教えられることは全て叩き込み、ゆっくりと成長させて宿儺好みに仕立てあげたのが今回の荒神です。
やることはやってるのでそういう事です。
悠仁も半神は半神だけど毎日神とくっついてるので寿命なんて無いものだしいずれ同じ存在になります。書き換えです。
両面宿儺の良心面という名目で祀られていることでしょう。
なお生贄の子供はまだ時折迷い込んできます。悠仁はそういう子を見つけたらそっと記憶を消して返してあげるけどそれを宿儺に見つかってお仕置をされる、という一種のプレイ感覚です。神視点の博愛になっているので冷酷と見られる時もあります。
宿儺に見つかると最近はおやつです。時折粘土です。そして気まぐれで天災や豊穣を起こします。
裏梅は先祖代々神社を継ぐと名前が引き継がれます。気に入ったものは小間使いとして宿儺が引っ張ってきて同じく領域の別の場所に住まわせている最初の裏梅であるおかっぱくんに渡してこき使います。
なお、この婚礼の後両親は砂となり崩れ去りました。
ちゃんと死ねてよかったね。
未練があったら異形になってた。