夏の幻 それは夏の夜の出来事だった。
その日も一週間の仕事を終え、二人で暮らす部屋に戻る。帰路から二階の灯りがついているのが見えてナンバは足を速めた。今日は向こうの方が早かったようだ。家に帰ると一番が待っている。もうすっかり慣れた生活だったが、それはいつまでもくすぐったいことに感じられた。
高めに設定したクーラーをつけ、ゴミ捨て場で拾った扇風機でぬるい空気をかき混ぜながら、二人で夕飯を食べる。一週間分の労働をねぎらいながら酒も空ける。ささやかだけど幸せな時間だ。いつもと同じ夏の夜の光景だった。
「あれ、冷やしてなかったっけか」
一階で冷蔵庫を開けた一番の声が聞こえてきた。ここのところの忙しさのせいで、酒の買い置きをうっかり切らしていた。どうする、今日はもうお開きにするか?と訊ねると、一番は少し考えるそぶりを見せたあと首を振った。
「なんとなく良い気分だし、散歩がてらコンビニでも行ってくるよ」
「そっか。大丈夫か、俺も付いてくか?」
「や、平気だ。荷物も多くねえし、すぐ戻るから待っててくれ」
そう言って玄関を出ていく一番をナンバは見送った。最寄りの店に向かうだろうから、十五分くらいで帰ってくるだろう。その間に簡単なつまみでも作っておくかと思い立ち、ガスコンロの前に立った。冷蔵庫で干からびかけていたキノコと、ちょっとだけ賞味期限の怪しいちくわを適当に炒める。名前もない料理だけど、前に一番が好きだと言っていた味付けにした。いつもフライパンから直接食べてしまうから皿には盛らない。冷めきる前に一番も帰ってくるだろうと思い、ナンバは火を止めて部屋に戻った。
それから、三十分待っても一時間待っても一番は戻ってこなかった。初めはどこかで寄り道をしているか、タバコでも吸っているのだろうと考えたが、一向に返ってこない返信に胸騒ぎがした。迎えに行こうと決心する。一時期よりだいぶ街の治安はよくなったとはいえ心配だった。一番の強さを疑ったことは一度もないけれど、どこかで動けなくなっているかもしれない。頭にその映像が浮かんだ途端に嫌な汗が伝う。急いで階段を降りた。念のためにビニール傘も手に掴む。出かけようと扉に手をかけたとき、それは外から勢いよく開けられた。ナンバは大きくよろめいて、そのまま地面に転び出た。
転んだ視界に見慣れた靴が映る。一番のものだ。遅かったなと声をかけようと顔を上げたとき、ナンバは固まった。そこにいたのは見知らぬ少年だった。背が高く大人びていて、どこかで見たようなぶかぶかの服を着ている。歳は十代半ばに見えた。少年は眉を寄せ、困り果てたような顔をしていたが、ナンバが転んだのを見るとすぐに手を差し出してきた。伸ばされた手を反射的に取る。握った手の感触で確信を持った。おそるおそる彼に声をかける。
「一番……?」
玄関先で声をかけた後、急いで二階に彼を押し込んだ。なんとなく誰かに見られてはいけない気がしたせいだ。それから怪我をしてないか確認し、ひとまず事情を聞こうとした。
まじまじと目の前の姿を見る。丸みを帯びた頬は少年特有のものだったが、くっきりした目元や鼻筋にはたしかに一番の面影があった。しかしさらさらの短髪も、目に少しかかった前髪も見慣れない。困惑していると、意志の強そうな眼差しがこちらを見つめ返してくる。それがどう見ても一番のものなので余計に混乱する。
大丈夫だからな。落ち着いて話せ、そう何度も口にすると目の前の少年は困ったような笑顔を見せた。そして頭を掻いたあと、ポケットから財布とスマホを取り出して見せてきた。
「本当に俺なんだ、確認してくれ、信じちゃもらえねえかもしれないけど」
両手を広げ、おどけてみせるように彼は言った。その姿にナンバははっとした。自分こそ不安なはずなのにこちらを気遣う姿は、まぎれもなく一番だった。正気を欠いている場合ではないと気合を入れ、深呼吸をする。改めて姿の変わった恋人に向き直り、一体何が起きたのか訪ねた。
一番の話はこうだった。買い物を済ませた帰り道、妙な連中に足止めされた。無視して帰ろうにもしつこく絡まれ、仕方なく相手をしてやっているときにそれは起きた。突然、敵の一人が何かを噴射してきたらしい。それを浴びると強い眠気のようなものに襲われてその場に立っていられなくなった。目が覚めて周りを見ると連中は消え去っており、気づけばこの姿になっていた——そう語る一番の声を、ナンバは信じられない気持ちで聞いた。
「——顔見知りのホームレスが通りがかってよ。挨拶したら妙な顔して、『こんな場所、ガキが夜うろついちゃ危ない』って言われたんだ」
「なるほどな……要は、知らないやつに襲われて気がついたら若返ってました、ってか」
「冗談みたいな話だけどな。相手の顔はよく見えなかった、ただ近江の残党って感じはしなかったな。もっと変な奴らだった。スジモンみたいな」
まだあどけなさの残る顔で目の前の少年が言う。口調も聞こえてくる声も、いつもよりほんの少し高いけれど紛れもなく一番のものだった。
狭い部屋にため息が二つ響く。ひょっとすると夢かもしれないと思い、ナンバは目を瞑って自分の頬を思いきり叩いた。何回か繰り返したあと願いをこめてそっと目を開く。そこには少年の姿の一番がいた。一連の行動を眺めていた一番はうんうんと頷く。
「俺もさっきおんなじ事やったよ。夢じゃねえみたいだ。残念だけどな」
「本当にな。もっと優しく叩いときゃよかった」
ひりつく頬を撫でながら答える。一番が軽く笑う音が聞こえた。部屋に張り詰めていた空気がようやく少しほぐれた気がした。
「よかった。俺が帰ってきたとき、ナンバ、すげえ顔色してたからよ」
「悪かったよ、ほんとに何事かと思ったんだ……」
気遣われてばつが悪くなる。照れ隠しに小さく呻いてから聞いた。
「もう一回聞くけどよ、本当にどこも痛くねえか? 殴られた跡とかは?」
「いや、大丈夫だ。地面にぶつけた感じもねえ」
「……病院、行くか?」
「変な奴に襲われて急に若返りました、って?」
今度は二人とも呻いた。これまで敵のせいでおかしな事——急に誰かにメロメロになったり、麻痺したように動きを封じられたり、我を忘れていきなり仲間に殴りかかりたい衝動に襲われたり——になることは何度もあったが、どれも時間が経つうちに収まった。今回もおかしな敵の攻撃が原因なら、時間が解決する可能性はある。どこかに診せに行っても悪ふざけだと追い返されるのが関の山だろうから、しばらく様子を見るのはどうか……一番の言い分はこうだった。心配ではあったが、ナンバもしぶしぶ受け入れることにした。
「でも本当に心配だから、一応見せてくれ」
「いいぜ、優しく頼むな」
一番は冗談めかしながら上着を脱いだ。小生意気な言い方に、叱るように早くしろと言って笑う。傷でもないか確かめようとしたとき、ナンバは違和感に手を止めた。
「どうした? なんもなってねえだろ?」
不思議そうに訊ねてくる声には答えないまま、一番の左胸のあたりをつつく。滑らかな肌が指先に触れた。そこに傷跡はなかった。
「あ……」
一番も気がついたようで、怪訝な面持ちで目線を下に向けた。もしかして、と思い至りナンバは慌てて言う。
「一番、ちょっと、あっち向いてくれ」
ああ、と言って一番が背を向ける。見えた背中はまっさらで、どこにも龍魚の姿はない。彫り物どころか傷ひとつない、白い背中だった。ナンバは驚きで口をつぐんだ。その沈黙でどうなっているか一番も察したらしく、驚いた声を漏らした。
「どうなってんだ?」
「縮んだだけじゃなくて、ガキの頃に戻ってんのか……?」
「だめだ、もう何もわからねえ」
お手上げだった。事態を深く考えると頭から煙が出てきそうで、二人して床の上に寝ころぶ。
「もう、寝逃げしちまうか……ひょっとしたら、起きたら戻ってるかもしれないしよ。いつもみたいに」
当事者の一番が気楽な調子で言う。こちらを気遣って言ったのだとすぐに分かった。だからその通りにすることにした。
「おやすみ、何かあったらすぐ起こして言えよ」
そう告げ、いつも通り二つ並べた布団に横になる。いつもより少しだけ部屋が広く感じるのは、隣にいる体積が減ったせいに違いなかった。
一番の言う通り、明日起きたら元に戻っているかもしれない。そうなることを願いながらナンバは目を瞑った。瞼の裏に、さっき見た白い背中と傷のない左胸が浮かぶ。自分の背にはじわりと冷たい汗が滲む気がした。それらを頭から振り払うように、ナンバは大げさに寝返りを打った。
翌朝、アラームの音で目が覚めた。慌てて枕元の眼鏡をかける。期待を込めて隣を向くと、少年のままの一番がすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。思わずため息が漏れる。が、穏やかな寝顔を見るうちに気持ちは晴れてきた。もう少しだけ寝かせてやることにして、ナンバは朝食を温めに下に降りた。
「よく食うなあ」
「なんか、むちゃくちゃ腹が減っててさ。これ、美味いな!」
「そりゃ良かった。ま、朝からよく食うのはいつも通りか」
昨日食べ損ねた炒め物をかき込む一番を眺める。若返った影響なのか、いつにも増して朝から腹を空かせているようだった。ちょうど食べ盛りの頃なのかもしれない。作った方も気分の良くなる食べっぷりに、ナンバは何の気なしに訊ねてみた。
「お前の今のそれって、何歳くらいだ? 大体でいいけどよ」
「うーん……。たぶん十四、五くらいか? あんま分かんねえんだよな。写真もないし、あんまり鏡も見なかったからよ。……ん、どうした?」
コップの牛乳を飲み干してから一番は言った。事も無げに告げられた言葉はナンバをひどく動揺させた。胸の奥底が締め付けられる感じがする。迂闊だった。
一番の生まれてきてからこれまでの境遇はよく知っていた。一番はけっして自己憐憫をしないし、ナンバも相棒の歩んできた道を誇りに思っている。それでも時々、部屋で一人でゲームで遊ぶ子供や、荒れた日々を過ごす少年や、その先の一番の身に起きたことを想像して、どうしようもなく胸が痛むことがあった。過酷な半生を憐れんでいるのではない。ただ、居ても立っても居られない気分になってしまう。
その想像でしか会えないと思っていた少年が、いま目の前にいる。一番は困ったような顔でこちらを見つめていた。昨日適当に作った炒め物はきれいに平らげられている。美味しいと言ってくれてよかった。味の好みは今も昔も変わらないようだ。そう考えてナンバは湧きかけていた感傷をむりやり抑えた。
「ご馳走さまでした。んー……元に戻るまで、何すっかな」
一番が伸びをしながら言う。ちょうど話題を変えたいと思っていたナンバは話に乗ることにした。そうだなあ、と言いながら目の前の顔を眺める。昨晩は動揺してよく分からなかったが、幼くなった一番はかなり可愛らしい顔立ちをしていた。顔が整っていて、愛嬌もあって良く好かれそうだ。恋人の欲目かもしれないなんてつゆほども疑わないまま、ナンバは言った。
「別に寝て待ってもいいけどよ。せっかくなら、今しかできないことでもやったらどうだ? あ、女の子に会ってちやほやされるとか! どうよ、名案だろ?」
思い付きをわくわくと告げると、一番はふふんと笑った。
「そりゃ悪くねえな。で、一緒にどこ行く?」
「……だめだ。俺は女の子をキャバでしか知らねえ」
「だよな。ったく、悲しいおっさん同士だよ」
そう言って一番は肩をすくめる。それから、あ、と今の自分の姿を思い出したような声を出した。二人で顔を見合わせる。ひとしきり笑い合ったあと、今度は一番が思いついたように言った。
「そうだ。今しかできねえことだよな? 一個思いついた。付き合ってくれるか?」
顔を輝かせて提案する一番を見ると、視界が眩しくなる気がした。断る選択肢なんてない。もともと尽くすことは好きな性分だが、今の姿の一番の言うことは特に何でも叶えてやりたくなってしまう。二つ返事で頷き、どこに行くのか聞いてみた。そうしたら内緒だ、と生意気そうに答えられた。こいつ、とナンバは心の中でだけ叱った。
簡単な身支度を整え二人で出掛けられるように準備をする。もう出発できそうになったあたりで、一番が忘れ物だと呟いた。
向かった先は部屋に飾ってある遺影だった。線香を上げ、写真の二人に挨拶をする。一番の日課だった。いつもの朝の光景だ。それなのに、普段よりちいさい背中が手を合わせる後ろ姿はナンバの心をかき乱した。考えるな、と自分に言い聞かす。深く考えてしまうとよくない。いつものことだ。手を合わせ終えた一番がこちらを振り返った。待たせて悪かったな、と屈託のない笑顔で言う。部屋にただよう線香の香りが鼻から伝って、肺の奥にじわじわと広がっていった。
◇
「——もう無理だ、休ませて……」
「もう一回! そしたら一緒に休憩するから」
「無理だ、死んじゃうっての……」
「大丈夫、いけるって」
「俺の体力を考えてくれ……」
「なあ、あと一回……」
「ここで見てるから、頼む、ちょっとだけ一人で泳いできてくれ……!」
プールサイドに情けない叫びが響く。ナンバはパラソルの下に引きこもり、ベンチを死守しながら懇願した。影の一歩向こう側では真夏の日差しが地面を焼いている。
一番に連れてこられた先は市民プールだった。先に量販店で水着やら浮き輪やらを買い込んだからなんとなく察しはついた。からかうつもりで、行き先は内緒じゃなかったのかと声をかけたら、海とプールどっちだと思う?と笑って返された。
夏休みの時期だというのに、到着したプールは思っていたよりも空いていた。あまりの暑さに屋外での遊びは避けられたのかもしれない。人目も気にならないことだし今日は存分に一番に付き合おう。そう決意したはずが、スライダーと流れるプールを十往復させられたあたりでナンバの体力は尽き果てた。交渉の末、なんとか先に一休みする権利をもぎ取った。
「い、生き返った……」
日陰でペットボトルの冷たい水を飲んだとき、思わず独り言が声に出た。その声が聞こえてしまったのか、少し離れた席にいた中年の男がくすくすと笑った。こちらを向いて会釈をしてくる。お互い大変ですね、とでも言いたげな顔だった。あ、今、保護者だと思われてるのか……。ナンバは合点がいき、男に曖昧に会釈を返した。
保護者か、まあ親子でもおかしくはない年なのか、早婚だとしたら、自分にはまったく縁がなかったけれど。そんなことをぐるぐると考えながら流れるプールの方に目をやった。ちょうど一番が一周泳ぎ終わったころだった。こちらに手を振っている。軽く手を振り返すと一番はまた水の流れに乗って泳いで行った。あと何周かするつもりなのだろう。底なしの体力に心の中で舌を巻く。
息を吸い込むと塩素の匂いと、日に焼かれたプラスチックの独特の香りがした。夏の匂いだ。胸に広がるそれは、遠い昔、弟と一緒にプールで遊んだ記憶を呼び覚ました。遊び疲れてしまった弟の手を引き、なんとか帰り道を歩いたあの日が胸によみがえる。思い出に浸りながら、水流に押され遠ざかっていく一番の背中を眺めた。照り付ける日差しの下で見るその背中は、昨日部屋で見たときより一層まっさらに見えた。出会ったときからずっとそこには龍魚がいたから、ナンバは奇妙な気分になった。それでも水の中ではしゃぐ一番の姿は年相応に見えた。彼には太陽の下と笑顔が良く似合うと思う。そう思ってからやっぱり、あんな子供が部屋の中で一人で過ごしていたかもしれないことは、とても悲しくて嫌だと思った。
プールには閉館時間ぎりぎりまでいた。一人一つずつ、片手にアイスを持ちながら夕陽が照らす道を歩く。さきほど帰る前に更衣室の脇の自販機で買ったものだ。一番は大きなモナカを頬張りながら嬉しそうにしている。歩きながらものを食べる行儀の悪さは今だけ忘れてしまうことにして、ナンバも自分の選んだものを口に運ぶ。カップにたくさん入った甘酸っぱい氷の味が、泳ぎつかれた体を癒していく。少しチープな味が懐かしくてナンバは思い出すように言った。
「まだあの自販機置いてんだな。昔、ガキのころ見たのと同じまんまだよ」
「なんだ、思い出の味ってやつか?」
「ま、そうだな。安っぽい思い出の味だけどよ」
カップを差し出しながら答える。一番は受け取ると一口食べ、目を輝かせた。またすぐに口いっぱいに氷を放り込む姿を見ながら、ナンバは一緒に歩くこの時間を愛おしんだ。心地のよい疲労感と呼ぶにはだいぶ体力を使い切っていたが、悪くない気持ちで一歩一歩進んでいく。
「残り、よかったらやるよ」
「いいのか?」
自分の分のモナカをとっくに食べきっていた一番に、自分のアイスの残りを譲った。
「それ、中に酒入れてもうまいから、今度——」
次の言葉を紡ごうとして一瞬ためらった。元に戻ったら、と口に出せずにいたら一番が嬉しそうに言った。
「じゃ、戻ったら一緒にやるか」
言葉を引き取ってくれてナンバはほっとした。取り繕うように言う。
「——そうだな。あとは、普通にジュース入れても美味かったりするしな」
「おっ、いいこと聞いた!」
そう言うと一番は駆け出していった。ちょうどすぐ向こうに自販機が見える。すぐに試そうとしてるのだろう。弾むように走る後ろ姿を見る。さっきプールで見たまっさらな背中が重なった。そのとき急に浮かんだ考えに自分で驚いて、ナンバは足を止めた。もしこのまま、一番を連れてどこかに逃げてしまったら。そうしたらこの背中は、何かを背負わずに済むんじゃないか。
熱に浮かされたようにそこまで考えたとき、今度は今朝みた光景が頭をよぎった。はっとして部屋の二つの遺影の顔を思い出す。何、ばかげたことを考えてるんだ。どこかに連れて逃げたって、何かが元に戻るわけがない。ナンバは頭を振って雑念を散らした。もう一度一番の後ろ姿を見る。もう日暮れも近いはずなのに、視界が陽炎のように揺れた気がした。
家につく前にファミレスで簡単な夕食を済ませた。朝と同じように、今の一番は本当によく食べるので見ていて飽きなかった。普段は相手の食べるものに口出しなんかしやないのに、無性に気になってしまい野菜も食えとサラダを押し付ける。一番は最初だけ不服そうにしたが、結局きれいに平らげた。
その様子を頬杖をつきながら見てナンバは微笑む。生命力に溢れていて、見ているだけで嬉しくなる。同時に、この少年がこの先もずっと健やかでいてほしいと思わずにはいられなかった。じわじわと、ある考えが心の隅に浮かんでいく。それ以上考えてしまわないようにコップの水を飲み干した。
「どうする? この機会だし、プールのついでに銭湯でも行っとくか?」
「うーん……。疲れたし、今日はもういい。眠くなっちまった」
夕食からの帰り道、歩きながら訊ねてみる。かなり悩んでから一番は答えた。そのまま二人並んで歩く。いつもより少し低い位置の頭を見ながらナンバは呟いた。
「お前、十代の後半から結構伸びたタイプなんだな」
改めて今の一番を見る。ティーンエイジャーにしては背も高くしっかりした体格だが、いつも見慣れた姿と比べると小柄に思えた。
「まあな。たしか、二十歳すぎてからもちょっと伸びたかな」
「マジかよ、羨ましい話だな」
「へへ。……背、今だと、あんまり変わんねえんだな」
一番が立ち止まって言った。同じくらいの高さにある目が、まっすぐにこちらを向いている。その目の奥の気持ちはすぐに伝わった。たぶん、今、キスがしたいと思っている。ナンバは一瞬考えてから辺りを見た。だめだ、振り払わないと。ひと呼吸置き、言葉の含みには気がつかなかったふりをすることに決めた。
「ほら、早く帰るぞ。夜でもまだ暑いだろ」
そのまま顔を見ずに歩いていく。さっきぶつかった視線の熱さと切実さがまだ焼き付いている。その視線が背中にへばりついている気がしたけれど、それにも気がつかないふりをして歩みを進めた。
◇
暗い天井を見上げる。おやすみを言い交わして少し経ったころだった。
あのあと夕食から家に帰って、順番に汗を流した。この家には浴槽がないからいつも風呂の時間は短い。やっぱり銭湯に寄ればよかったんじゃないかと思いながら、ナンバは日に焼けた肌をぬるま湯で流した。
部屋に戻ると、先に風呂を済ませた一番が扇風機の前に陣取っていた。おい、独り占めすんな、そう言っていつものように小突くと一番は大げさに転がった。けたけた笑っている。ナンバもごろりと床の上に倒れる。扇風機の送るやわらかい風が、撫でるように二人の上を通っていった。風呂上がりのいつもの光景だった。
平和な雰囲気に笑い合ったあと、なんとなくお互い言葉が続かなくなる。ここから先、いつもどうしていたっけ。思い至るけど今は言い出せなかった。一度横になると体の疲れがのしかかって、瞼が重くなってくる。二人顔を見合わせて、まだ早いけどこのまま寝てしまうかと言い合った。それからのそのそと寝支度をして布団を敷き、横になった。
ナンバは今日一日を思い出しながらまばたきをした。裸眼のぼやけた視界に天井の電球が映る。暗闇に目が慣れてきたけれど、もうじき眠くなるだろう。今日は一日遊び疲れた。水に浸かるのは体力を使うし、それに散々陽の光を浴びた。メラトニンがたくさん出るから、きっとすぐに眠たく……。そう自分に言い聞かせている途中で、小さな物音が耳に飛び込んだ。布団の衣擦れだ。きっと一番がタオルケットを蹴とばしたんだろう。少し気になって横を見ると、彼は布団から這いだすところだった。そのまますぐ隣の布団まで来て、ちょこんと座る。こちらをじっと見下ろす顔は切なげだった。
「どうした? 暑いか? 喉でも乾いたか」
ナンバはできるだけ何気なく話そうとした。それでもどうしても困ったように笑ってしまうのが分かる。こうして一番に声をかけるとき、優しい顔つきになってしまう癖がついていた。
一番はしばらく答えないでいたあと、小さな声で言い出した。
「触ってもいいか……?」
切羽詰まった眼差しで、こちらを見下ろしながら呟いてくる。その目は普段の一番と同じだった。自分しか知らない大好きな目だ。胸の奥がぎゅっと痛くなった。だめだ、ちゃんと言わないと。
ナンバは意を決して起き上がった。話さなきゃいけないことがある。電気を付けると夜闇に慣れた目に光が染みた。白い灯りに照らされて、風呂上がりから部屋に漂っていた甘い空気はぱっと消えてなくなった。
「一番、話があるんだ」
布団の上で座って向き合う。不安そうにこちらを伺う一番を見ると胸の中に愛しさが溢れた。それは今の姿でも、普段のときでも変わらない。大好きだと思うと心が決まって、ナンバは深呼吸をしてから話し出した。今日ずっと、心のどこかで考えていたことだった。
「一番。もし、お前がこのまま戻らなかったら、……いや戻っても、俺のことは忘れてくれ」
こちらを見る瞳が揺れた。何か言い返されてしまわないうちに急いで続ける。
「俺と一緒にいる場合じゃないだろ。考えてもみろ、何だってできるじゃねえか。やってみたいこと、一つや二つじゃきかないだろ? ムショに入ってた十八年どころじゃない。人生丸ごと取り返せるかもしれないだろ」
一番は黙って聞いている。てっきりすぐに反論してくるかと思っていたから意外だった。好都合だと思いまた話す。
「あー……心配すんな、元に戻んなくても当面の面倒は俺が全部見る。とにかくもっと別のやつとたくさん会って……。やりたいこと、全部やれよ」
なんとか言いきった。まだ一番は何も言わない。瞬きをするたびに瞳が揺れている。何を言うか迷っているのかもしれない。だから後押しするように付け足した。
「元に戻っても、戻んなくても同じだ。俺はお前に……人生を取り戻してほしい。自分のために時間を使ってほしいんだよ。俺のためなんかじゃなくてよ」
「わかった!」
そう言うと一番は勢いよく立ち上がり、何か言葉を掛けるより前に早く、駆け足で部屋を出て行った。階段を駆け下り、階下のドアが勢いよく開けられる音が耳に届く。一瞬、今の姿のまま一人で出歩かせることを危ぶんだが、きっと今は一人になりたいのだろうと追うのを堪える。これで良かったんだ。布団の上に座ったまま、ナンバは自分に言い聞かせるように胸の中で呟いた。
◇
暗い部屋で壁にもたれて座る。手に持ったカップ酒には結露がつき始めていた。昨日の夜、一番が買って帰ってきたものだ。一人きりになった部屋はやけに広くて、とても寝付ける気がしなかった。部屋の灯りは消してしまった。自分が起きて待っているとわかったら、もしも一番が帰ってきたときに戻りづらいかもしれないからだ。暗がりをぼんやりと見つめながらナンバは自分の言葉を思い返した。
さっき一番に告げた言葉には、嘘はない。ナンバは正当化するように頭の中で繰り返した。今日一日、あの姿を見るたびに頭の隅でちらついていた言葉だ。
もしもあいつが人生を取り戻せたら。皆を守る大きな背中が背負うものは、一人で担うにはあまりに重いんじゃないか。一緒に過ごすようになってからずっと、胸の片隅にあった思いは、少年の日の一番を見たことでゆらゆらとふくれ上がっていった。だから一つも嘘なんかついていない。
ひとしきり自らに言い聞かせ終わり、手の中のカップ酒を眺める。昨日の夜コンビニに行ってくると言った一番を見送ったのがずっと遠くのことに思えた。ずいぶん長い一日だったな、そう口に出そうとして思い留まる。返事をしてくれる相手はもう横にいない。それで今さら、自分は失恋したんだとナンバは気がついた。握りしめたカップを口元に当て、一息に煽る。ぬるくなった酒は少ししょっぱくて、いつもと味が違って不味かった。
酒を煽ってもうまく酔いは回ってくれず、うつむいて膝を抱える。一人になった部屋で浮かんでくるのは一番のことばかりだった。鼻をすすり床を眺める。もう飲む気がしない、半端に中身が残った酒が置かれている。すっかり結露も落ちきったそのカップを眺めると、初めてこの部屋に来た夜のことが思い出された。屋根のある部屋を喜んだこと、子供の頃の夢を打ち明けてもらえたこと。杯の代わりに二人で安酒を交わしたこと。思惑は確かにあったけれど、それでも、その時の気持ちに本当に一つも嘘はなかったこと。片時も忘れたことがない、大切な思い出だった。
未来の勇者に乾杯、か。心の中でふたたび呟く。酔ったついでに言ったつもりのことが、ついさっきの出来事のように鮮やかに思い出せるのがおかしかった。小さく笑うとほんの少しだけ気持ちがほぐれて、それから、未来という言葉を噛みしめた。この部屋で一番と交わしてきた会話がよみがえってくる。
今度、ずっと続きが楽しみだった漫画を読みに行こう。一番の知らない変な寿司があるから、皆で回転寿司に行ってみよう。道端のミニトマトの実がちゃんと付いたか確かめに行ったり、秋になったら滝のあるところに旅行にでも行こう。
そういう風に、小さな約束をたくさん重ねてきたことを思い出す。全部が日々の会話のついでのささやかな約束だ。それらが一つ一つ叶っていくたびに嬉しくなった。そしてその時にいつも聞こえてきたのは、隣で一緒に笑う一番の声だった。
あ、と気がついてナンバは声を漏らした。なんだ、こんなに単純なことだったじゃねえか。胸の内で呟きながら長く息を吐く。自身への呆れでついたため息だったけれど、それでやっと頭がすっきりした。本当に単純なことだった。人生を取り戻してほしいなんて、そんなこと、一番は毎日やっているんだ。向かう先には未来しかないんだから。それで、一番が未来へ歩んでいるとき、俺は——。
そこまで思い至ったとき、ぽつぽつと窓ガラスを叩く音が聞こえてきた。外を見ると雨が降り出している。見ている間にも雨足はどんどん強まっていった。心配になって連絡を取ろうと思ったが、床を見ると一番のスマホも財布も置きっぱなしになっている。忘れて出掛けてしまったようだ。
遠くの雷鳴を聞いたとき、ナンバの決意は固まった。さっき一番は傘を持たずに出たはずだ。傘を持つのはいつだって、自分の役目だからだ。居ても立っても居られずに部屋を飛び出す。
降りしきる雨の中をナンバは足早に歩いた。大きな雨粒が傘に当たって音を立てている。連絡は取れないから、一番の行きそうなところをしらみつぶしに探すことにした。今の姿ではサバイバーや馴染みの店には行かないはずだ。人通りの多い場所で時間を潰しているか、公園で雨宿りでもしているかもしれない。ほとんど小走りの速度で夜の街を行く。一番の姿はなかなか見つからなかった。代わりに、街のどこを見てもそこで交わした何気ない会話が胸をかすめていく。それがますます足を急がせた。
駅前に差しかかったとき、遠く、雨の向こうに一番の背中が見えた気がした。考えるよりも先に足が動いて、ナンバは本心を自覚した。もう心配だとか、傘を届ける名目は必要なくなっていた。一番が未来へ歩んでいくとき、そのときには、いつもと同じように隣にいさせてほしい。気付いたときには駆け出していた。一番に会って伝えなきゃいけない。走るうち、差すのが煩わしくなって傘は畳んで手に持った。夏のぬるい雨が顔を濡らしていく。
一瞬だけ見えた気がした背中はそれきり見つからず、ナンバは痛んできた脇腹を抑えながら考えた。きっと、自分の足では今の距離を追いつけない。なら先回りをしよう。家だ。一番はきっと帰ってくる。そう願って濡れた地面を踏みしめて走る。眼鏡のレンズに当たる雨粒は少しずつ小さくなっていって、もうじき通り雨は過ぎようとしていた。
家の前の朝焼け橋に着いたころ、息はすっかり切れていた。雨はもう止んでいて、橋の上のあちこちにごみや吸殻がふやけた水たまりができていた。破れそうな心臓が落ちつくのも待たず、顔を上げて家の窓を確認する。二階の窓は暗いままだった。
そうか、まだ帰ってきていないか。項垂れて目を瞑る。もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない。暗い視界のなかでそう考えた時、駆け寄ってくる足音が聞こえた。伏せた目を開ける。視界の先には見慣れた靴が見えた。
「ナンバ! どうした」
ずぶ濡れの、息を切らせた一番がこちらに向かって駆けてくる。腕には何かを抱えていた。濡れた新聞のかたまりのようだった。側まで来るとそれを大事そうに抱え直してから、心配げにこちらの顔を覗き込んでくる。その顔立ちは少しだけ幼かったけれど、気遣いに満ちた眼差しは間違えようがなく一番のものだった。じわじわと視界が滲んでいく。なんとか堪えながら、ナンバは言葉を紡いだ。
「……傘。持ってきた。さっき、出るとき、持ってかなかっただろ」
まだ整いきってない呼吸で言葉をはき出す。手や頭の雫を払ってから傘を見せると、一番は目を丸くした。一瞬間が開いたあと、笑い出す。
「なんで、なんでお前までびしょ濡れなんだよ。傘差さなかったのか? つうか、一本だけじゃねえか。相合傘で帰ってくれるつもりだったのかよ、ああ、もう、嬉しいな」
「うるせえ、からかうな……」
傘の本数を指摘され、たしかにと思う。ナンバが歯切れ悪く答えると、へへ、と笑ってから一番は真面目な顔をした。
「それで、本当は?」
真剣な、でも優しい目がまっすぐにこちらを向いてくる。人に嘘をつかせないときの一番の目だった。やっぱり見透かされている。ナンバは改まって言った。
「一番、言いたいことがあるんだ」
つい先刻、同じような言葉を口にしたと思いながら言う。でも今度は違う。本当のことを告げる。
「さっき部屋で言ったこと、覚えてるだろ。あれな、本音ではあるんだ」
言葉を選びながら話す。一番は黙ってうなずいてくれた。息を吸い込んで続ける。
「でも言ったそばから、部屋も、街も、お前との思い出だらけだって気付いたら、俺はもう、だめになっちまって……」
この先をどう切り出したものか、迷ってしまってナンバは地面を向いた。
「……俺も、言いたいことがあってさ」
途切れた言葉を拾い上げるように一番の声が聞こえた。顔を上げると、一番が改まったような表情をしていた。ずっと手に持っている何かをぎゅっと持ち直すのが見える。それから包みを少し開き、中身が見えるようにしてこちらへ向けてきた。それは新聞に包まれたバラの花だった。何本あるのか、包みはかなり大きかった。
「忘れろって切り出されたとき、お前が嘘ついてるってすぐわかった。だから喋るより何か見せて、それで納得させようと思ったんだけどよ。ほら、ナンバは言い出したら聞かないだろ」
言い出したら聞かないのは一番の方だ、と思いながら、何も言えずに言葉を待つ。
「何見せたらいいかって思ったら、これしか浮かばなくってよ。一個のプランターだけじゃ足りなくて、街中回ってるうちに遅くなっちまった。悪かったな」
照れくさそうに鼻の頭を掻きながら、手作りのバラの花束を揺らして一番が言う。さっき部屋を出た後、育てた花を回収しに行っていたらしい。
「さっき、やりたいことを考えろって言ってくれたろ。それでちゃんと考えてみたんだ」
こくりと頷いて、続きを促す。
「やってみたいことなんて、なんだって思い付くんだ。でも、その……。思い付く景色全部に、お前も一緒にいるんだよ。当たり前みたいにな」
まっすぐに目を見て言って、一番は花束を差し出してきた。
「だから一緒にいてくれ。——ほらあれだ。花束片手にビシッと告白、なんてのも、一回やってみたかったんだ。急ごしらえで悪いんだけどよ」
照れ隠しのように付け足す姿を見て、ぎゅっと目を閉じる。そうでもしないと涙が溢れてしまいそうだった。
「それで、ナンバの言いたいことってのは?」
渡された包みを抱える腕にそっと力を込めて答える。
「——俺も、お前とおんなじこと考えてたんだよ」
傘と花束を手に二人で家へ戻る。橋の下を流れるどぶ川の湿気に混ざって、バラの花の香りと、刈りたての草の青くさい匂いが雨上がりの夜の空気に漂っていた。歩きながら、きっと、今嗅いだ香りを忘れることは一生ないだろうと思った。
家に着き、雨に濡れた服をひっぺがして急いでシャワーだけ浴び直した。もう夜も遅い。二人同じタイミングであくびが出たので顔を見合わせて笑い合う。もう寝てしまうことにして、棘がついたままのバラを一旦そこらへんの容器に生ける。気を付けろよ、そいつ結構手ごわいぞ、そう伝えてくる一番の指にも小さな傷があった。収穫するときに付いたのだろう。その傷を消毒してばんそうこうを貼ってやってから、油断している一番に触れるだけのキスをした。
「……えっ?」
「ほら、とっとと寝るぞ」
驚いた声を無視して布団を並べる。電気を消しておやすみを交わすと、一番はもぞもぞと同じ布団に乗ってきた。一瞬だけ迷ったが、添い寝くらいはいいかと思いタオルケットを掛けてやる。そっと寄り添ってくる体温が熱い。雨で冷えた肌にその感触が心地よくて、ナンバはいつの間にか眠りに落ちた。
◇
瞼の向こうが明るい。意識が少しずつ浮上していくのが分かる。何か心地のいい声が遠くに聞こえて、誰かが自分を呼ぶ気がする。声は少しずつ大きくなって、体を揺すられる感覚がした。
「——ナンバ、ナンバ! 起きてくれ!」
一番の声でナンバは目を覚ました。まだ重いまぶたを開けると、部屋には夏の朝日が差し込んですっかり明るくなっていた。もう遅い朝のようだ。
「んう……」
寝ぼけた声を出しながら寝ころんだまま手探りで枕元の眼鏡を探す。開いた目には光が眩しすぎて、ただでさえぼやけた視界はおぼろげだった。結局うまく眼鏡は探せないまま、とりあえず声の主におはようを言おうと顔を向ける。
飛び込んできた光景にナンバは言葉が出なかった。それは裸眼でもはっきりとわかった。そこにいたのは、眩しい笑顔をこちらに向ける元の姿の一番だった。
「戻ったんだよ! さっき起きたらこうなってて、起こしちまった。寝てたとこ悪いな、でもどうしてもすぐ言いたくてよ」
弾むように告げる一番の声に、ナンバの視界はますますぼやけていった。慌ててシャツをまくり上げて左胸を確認する。そこには銃創と、よく見覚えのある縫い跡があった。鼻の奥を涙が辿り、喉のほうにしょっぱい味が広がっていく。
「おう、全部元に戻ってるぜ。なんで戻ったんだろうな? お前にキスされたからだったりして。昔のおとぎ話みたいな……あれ、ナンバ?」
涙ごしに見る向こうに、心から嬉しそうに笑う一番がいる。くしゃくしゃに笑うその目尻に皺を見つけたとき、ナンバは堪えられなくなった。どんなに重たいものを背負ったって、こいつの重ねてきた人生は、たくさん笑うことのある人生なんだ。そう思うともう我慢できなくて、戸惑う一番の胸に顔をうずめた。
なるべく声が聞こえないようにしたかったけれど、シャツの胸元に広がる涙と鼻水でバレているだろうと思った。それでも一番は何も言わず、寝ぐせで酷いことになっているだろう髪に手を添えていつまでも待ってくれた。
泣きじゃくるのが落ちついたころ、酸欠になりかけてシャツから顔を上げた。部屋の隅が目に入る。そこには昨日の花束のバラが置かれていた。ヤカンやバケツ、寝過ごしてゴミの日を逃した牛乳パックや、空いたカップ酒にたくさん生けてある。あまりの風情のなさに笑いがこみ上げた。
「どうする? 今日、花瓶でも買いに行くか」
「……うん。でも、もうしばらくあのままが良い」
笑い声に安心したのか一番が訊ねてきたので、正直に答える。二人分の小さな笑い声が部屋に響く。夏の朝のぬるい風が窓から吹き込んで、生けられた花を揺らしていった。