きみの話「ほら、あったけえだろ」
ナンバが振り返り言う。得意げな顔をしていた。言葉通りの暖かな陽の光の下、春風が吹き抜ける。それはいっぱいに生えている草花たちを躍らせ、彼のふわふわとした髪を揺らしていった。
街の狭い路地をいくつも通り抜け、歩いた先にある小さな空き地。周りの建物が取り壊されたのか、その場所にはさんさんと陽ざしが降りそそいでいた。ごく小さな範囲の更地には、春を迎えようとしている雑草が所狭しと生い茂っている。寂しい空き地というよりは原っぱといった印象だ。ここが、ナンバのとっておきの場所らしい。
季節は三月の中旬、ここ数日のニュースでは異人町の桜の開花予想が流れ出している。時期外れの暑いほどの陽気が続いていたが、その日の日陰はやけに肌寒かった。ぶるりと体を震わせたとき、ナンバから思い立ったような声で「いい場所がある」と告げられた。ポケットに突っ込んだ手を見かねて言ったのかもしれない。背中で案内をするように、ナンバはすいすいと路地を通り抜けていった。その後を一番は追って行く。
このようなことは出会った頃からたびたびあって、一番は慣れっこだった。まだ新米のホームレスだった一番に、この街のいろはを教えていた頃と変わらない。ナンバは都会のサバイバル生活を続けるうち、よく日の当たる穴場も安全な道も、食べ物にありつける場所も熟知しているらしかった。少し背を丸めどんどん先を行く後ろ姿を、懐かない野良猫のようだと感じたあの日々が懐かしい。そうこうするうちに路地裏の冒険は終わり、目的地の暖かい原っぱに到着したのがつい先ほどのことだった。
「……お、あった」
草むらを見つめてナンバが言う。そして空き地の中ほどまで歩いて行くと、しゃがんで辺りを物色し始めた。一番も後に続く。
目を凝らすと、草の緑に混じり、何か白っぽい小さなものが生えているのが見えた。つくしだ。にょきにょきと生え、小さな筆先と軸を空に向かって一生懸命に伸ばしている。気がついてから辺りを見ると、草のすき間のあちこちに同じようにして群生していた。健気なその姿は春の訪れを告げているようだった。
「かわいいもんだな」
「な、ラッキーだったな。今日はごちそうだ」
「……ん?」
不思議に思っている間に、ナンバは地面のつくしをぽいぽいと摘み始めていった。その様子を見て一番は考える。そういえばこいつ、こういうの、好きだったな。その辺の野草も不思議なきのこも、それに綺麗な花だって、ナンバにかかればなんだって食材になってしまう。ちょうどひと月ほど前、勇気を出して渡したパンジーの花束は、その日の夕食のお浸しとなったことを一番は思い出す。あの夜のあれは、やたらとほろ苦くて美味かった。おかしくなり小さく笑いが漏れる。懸命に地面をいじっているナンバのほうに目を向ける。春の陽ざしのせいなのか、やけに視界は眩しく感じた。
「ほら、一番も早くしろ。全部取っちまうぞ!」
「はいはい」
急かすナンバに軽く手を振り、一番もつくし摘みに取り掛かった。一人占めしてしまうと言ったって、帰る家は一緒なのにとおかしくなる。笑うと心がくすぐられるようだった。ちょうど近くにある背丈の高い草が揺れたせいだろう。一番は気合を入れ直す。それから二人は、競うように食材集めに勤しんだ。
◇
家に戻るとナンバは張り切って支度をし始めた。上着を脱ぎ、腕まくりをして狭い台所——と呼ぶには少し簡素な、カセットコンロとシンクのある場所に立っている。これから下処理をするらしい。二人で集めたつくしはちょうど、家の鍋を満たすほどの量だった。根こそぎ採ってしまっては後から来る人に悪いからと、ナンバが手心を加えた結果である。
「あく抜きとかするのか?」
「それは茹でりゃいいから、あんまり心配いらねえな。とりあえず洗って、硬いとこがあるから取っちまうんだ」
戦果を水の中でざぶざぶと洗いながらナンバが答える。物知りだと感心しながら、一番はその様子を観察した。狭い台所だから隣にぴったり立つことになる。赤の他人ならぎょっとしそうな距離だって、ここで暮らすうちに二人の間では当たり前になっていた。ナンバの方もきっとすっかり慣れていて、ほのかに体温を感じる近さでも、全く文句は出てこなかった。暖を取るのにちょうどいいと思われている気さえする。
眺めていると、つくし達を洗っていた手がそのうちの一つを摘まみ上げた。試しに一つ、下処理をやって見せてくれるのだろう。中ほどの小さな葉を指が摘まみ、ぷちりと取る。器用なものだと思う。この要領でやるのかと納得し、手伝いを申し出ようと声をかけた。
「なるほどな。貸してくれ」
腕を伸ばす。水を張った鍋の上で、手と手が触れる。ナンバが弾かれたように手を引っ込めた。一番はと言うと、一瞬触った手が冷たかったことにびくりとした。誰に問われたわけでもないのに、水が存外冷たかったことに驚いたのだと胸中で言い訳をする。ほんのひととき、台所に静けさが訪れた。
「——や、俺がやるよ。量もそんなねえし、狭いし。上で座っててくれ」
何事もなかったかのように言われてしまう。でも、と言い返すと、いいから行けと手をひらひら振られた。慣れてるから一人でやった方が早い、との自論のようだった。経験者にそう言われると弱くて、一番はおとなしく上の階で待つことにした。
床に座りながらそっと耳を傾ける。階下からは、低い音の鼻歌がかすかに聞こえてきた。
◇
ほどなく、食欲をそそる香りを携えたナンバが上がって来た。じゃーん、という口での効果音とともに手に持った皿を披露される。
「ナンバさん特製、春の卵とじだ」
皿の上では、卵でふわりととじられたつくしが湯気を立てている。肘の辺りで器用にコップを挟んで運び、もう片方の手には、缶ビールが握られいる。普段は買うことのない少し高級なラインのそれは、ここ一カ月ほど、冷蔵庫の奥にずっと鎮座していたものだ。「とっておきの日に飲むんだ」と、持ち主のナンバは言っていた。そのとっておきがなんでもない今日の昼間になったことを、一番は心の隅で噛みしめた。
コップにビールを注ぐ。注ぐのが上手くいかず、半分ほどが泡になっているそれで日が高いうちから乾杯をする。そして、今日のごちそうを口に運んだ。柔らかな卵と、野草特有の瑞々しい歯触りが心地よい。
「うめえな」
「だろ? 野草んなかでもこいつは初心者向きだ。癖もないし、実際広く食われてるからな」
ナンバは滑らかな口調で言う。どことなく得意そうだ。彼が何かこういった知識を口にするとき、少し誇らしげになるのを見るのが一番は好きだった。嬉しくなり、またつくしを箸でつまむ。
しゃきしゃきとして癖のない、ほのかに草のほろ苦さが広がるそれは、一番に先月のことを思い出させた。バレンタインに気付いた数日後のことだ。あの日、遅れて手渡した手作りの花束も、こうして食卓にあがり共に食した。あれは街のプランターで一番が育てた花だった。陳腐な言い方をしてしまえば、いわば愛の結晶というやつだろう。それをふたり等しく胃袋に収めてしまったということに、一番は言いようのない幸せを感じていた。勇気を出して渡した花束を調理されたというのに、随分のんきな考えだとは思う。それだけ、このナンバという男との生活が当たり前になっているのだ。そう思うと悪い気はしない。彼独特のペースや価値観が、ともすればがらんどうになりかねなかった自分の中に、ゆっくりと確実に浸みこんできている。毎日ともに食卓を囲むというのはこんな効果があるのかと、とても長い間、冷たい食事を取っていた一番は日々ひそかに驚いていた。
目の前のナンバを見る。美味そうにつくしと卵を頬張り、高級なビールを惜しむように飲んでいた。平和な日々の象徴そのものに思えた。その姿を見ると、わけもなく礼が言いたくなった。急に芽生えたその感情は、食事をともにしてくれていることへの感謝だったのかもしれない。軽く息を吸いこみ、言葉を吐き出す。
「ありがとな。……っていうか、下ごしらえ、全部やらせて面目ねえ」
「ん? いや、いいんだよ。これがこっちの礼っつうか、そういうもんだから」
こないだの、パンジーの。そう言って、ナンバはもぐもぐと食事を続けた。ふと目をやると、箸を持つその指の腹が、黒く汚れていることに気がついた。何事かと思ってから、きっとつくしの下処理で染まったに違いないと思い至る。
じんわりと芽生えてくる感情に、一番は手を止めた。少しずつ減ってきた卵とじに目を移す。野原に生えていた、つくしの白が脳裏に浮かぶ。ふたたび、今は優しい黄色で包まれたそれに目をやる。まるでそれがぴかぴかとした、特別ななにかに見えて一番は目を擦った。きっとこのごろ収まってきた幻覚がぶり返したのだろう。そう自分に言い聞かせる。
けれど、手ずから育て上げた花が愛の結晶だというなら、これは、一緒に採ってふるまわれたこの皿は、何に例えたらいいのだろう。もう一度、ナンバの黒くなった指先に視線をやる。言葉になりきれない思いがこみ上げ、胸に詰まって苦しくなった。
「……おーい、一番? ぼけっとすんなよ、全部食っちまうぞ」
声をかけられてはっとする。こちらを見るナンバの顔は、怪訝そうな、複雑そうな、なんともいえない表情だった。一緒に過ごすうち、それが照れ隠しに近いということを一番は見分けられるようになっていた。
物思いから覚めるよう、一番は大きく息を吸った。柔らかな香りが鼻をくすぐっていく。それから皿の中のつくしを大きく箸で取り口に運ぶ。ほろ苦い春の味がするはずのそれは、奥歯の間で甘く柔らかくほどけていった。