意訳「急げ、一番!」
夜道を先導するナンバが振り向いて言う。今日の夜、遅れて帰宅した一番を見るなり「用事がある」と言い出し、最寄りのコンビニへと連れ出されたのが先ほどのことだ。駆けていくナンバを大股で追いかけながら、朝焼け橋を渡りきる。
早々とばててしまったのか、ナンバは橋のたもとで少し止まった。息を整えているあいまに追いつき隣に並ぶ。すると川の上を通った夜風が強く吹きつけてきた。二月になっても寒さは厳しい。一番はポケットに手を入れながら聞いた。
「なんなんだよ、用事って」
「……終わっちまうんだ」
「終わるって何が」
「肉まんの季節がだよ」
一番が疑問符を浮かべる前にナンバはまた進みだす。今度はダッシュではなく早歩きだった。二人揃ってコンビニまでの道筋をいそいそと歩く。
「……いや、普通に春先ぐらいまで売ってねえか?」
道の向こうにコンビニが見え始めたころ、よくよく考えてから浮かんだ突っ込みを入れる。するとナンバはこちらを向いて不敵に笑った。
「わかってねえなあ。寒さも込みで、肉まんの季節なんだよ。旬ってやつだな」
ふふん、と語る姿がやけに可愛らしく見えて、一番は少しからかってやりたくなった。信号を待つ間に訊ねてみる。
「中華まんなら中華街でも、趙の店でも美味いのがあるよな」
「俺はグルメなんだよ。コンビニの蒸し器のがいいんだ」
「それはグルメって言うのか……?」
抱いた疑問を口にするが、ナンバはなぜか得意げにしていた。信号が青になり、回復したらしいナンバがまた小走りで進む。すぐに一番も続く。
「つうか、走って行っても、変わんねえだろ」
「……うーん。それはそう……あっ、走って腹空かせた方が美味いだろ!」
これでどうだ、とばかりにナンバが顔を輝かせてこちらを見た。一度折れかけてから活路を見出す様子がおかしくて、一番は大きく笑った。徒競走のように二人で横断歩道を渡りきる。コンビニから漏れる白い明るい光が眩しかった。
◇
店に入るなりナンバは真っ先にスチーマーの方へ向かって行った。それを微笑ましく見送る一番の目に、入り口近くの棚が飛び込んだ。何やら色彩がいつもと違う。
そこは赤とピンクで飾られ、ハートのポップがいくつも飾られていた。書かれた文字を読んで一番は気が付いた。そういえば今日は、バレンタインだ。
職場ではなんでも数年前に廃止されたとかで、チョコは配らないのだと今月の初めに説明をされた。だからすっかり忘れていた。
棚に目を戻す。すかすかのそこには、売れ残りであろう紙袋が数個だけおさまっていた。買ってしまおうか、と一番の心は揺れた。大昔に付き添ったキャバクラぐらいでしか縁がなくとも今日がどんな日かは知っている。義理でないのなら、大切な人にチョコを贈る日のはずだ。そして偶然にも一番は今日、その大切な人と一緒にコンビニに来ている。恐る恐る、ゆっくりと戸棚に手を伸ばしたその時だった。
「なんだよ、欲しいのか?」
突然かけられた声に一番は飛び上がった。声の方向に振り返る。レジ前を見ていたはずのナンバがいつのまにか、後ろに来ていた。
「あ、いや、別に……」
「ああ、バレンタインか!」
一番の動揺など気がついていない様子でナンバはポップを読み上げた。そして少し考えるそぶりを見せたあと、一番にとびきり優しい顔を向けてきた。
「よーくわかる。お前も、今年はあんまり縁がなかったんだよな。でも来年があるからよ」
一緒に食おうぜ、と何やら頷きながら肩を叩かれた。それからナンバは一番の手の先にある、ピンク色の紙袋を手に取った。そのままレジへと歩いていく。売り場に取り残された一番は立ち尽くした。何か大きな誤解をされているらしい。チョコを買うタイミングを失った一番は、慌てて酒売り場へ向かった。
◇
「寒いなあ、これでこそ肉まん日和だ」
コンビニを出た後、ナンバは満足そうに言った。肘からは例のピンクの小袋を提げ、両手には包み紙にくるまれた中華まんを持っている。レジで「大丈夫です、すぐ食べます」と申告していた姿を思い出し、一番は頬を緩めた。夜風が強く吹き、一番の手に提げたビニール袋がはためいた。
二人並び、来た道をゆっくりと戻っていく。先ほどよりいっそう冷えが強まっている気がした。一番はナンバの言葉を思い出して言った。
「よかったな、旬に間に合って」
「本当だよ、春に食べるのと全然違うんだからよ、今度一緒に試すぞ」
そう言いながら、ナンバは肉まんを一つ手渡してきた。結局春先になっても買うんじゃないか、と思いつつ、一番は頷いて受け取る。その拍子に一番の手の袋がかさりと鳴った。そこにはさっき引っ掴んだ、いつもより少しだけ高級な缶ビールが入っている。チョコの代わりになるかは分からないが、今日のところはこれを贈ろうと決めたのだった。
「……これ、もらってくれよ」
「え?」
立ち止まりビニール袋ごと差し出すと、ナンバは一瞬きょとんとした。何を買ったかは先ほど見ているはずだ。ナンバは自分の肘に下げているファンシーな紙袋に目をやった。それから、あー……と小さく呟くと、ナンバは自分の手の肉まんを半分に割り始めた。
「じゃ、俺からはこれで」
「や、俺の分はもうあるしよ……」
そう言って断ろうとした。しかしナンバは片割れを一番に押しつけ、まっすぐこちらを見てきた。目が合う。少しの間、二人は無言になった。両手に乗せられた中華まんがいやに熱くて、視界の端でほかほかと湯気を立てている。
「いいから。……もらってくれ」
そう言うなりナンバは早足になり、一番の前を歩き出してしまった。一番は慌てて後を追う。すたすた歩いていってしまうから、ナンバの表情は伺えなかった。冷たい夜風がまた吹いて、その耳の先をますます赤くさせるのだけが見えた。