七月八日 七夕から一日過ぎた蒸し暑い夜のことだった。一番は部屋でひとり、洗濯物を畳んでいる。一足早く家に着いた一番のスマホには、同居人から「帰りに夕飯を買ってくる」と連絡が届いていた。彼の帰りを待つ間、二人分の衣類を仕分けて畳む。どぶ川沿いの窓辺でも洗濯物はからからに乾いていた。繕い跡のある、熱くなっている彼の靴下を丸めてやりながら、一番はそっと笑った。ここでの暮らしにもすっかり慣れてきている。
そうするうち、ただいま、と声がした。ナンバの声だ。一番は少し声を張り、おかえり、と階下に向け返事をする。耳を澄ませてみる。荷物を置く音と水道の音が聞こえてくる。そして待ちわびていた、階段を上がってくる足音が続いた。
二階に現われたナンバが、部屋の入口から顔をのぞかせる。朗らかな、少し得意そうな表情だ。きっと何か、安売りで良いものが買えたのだろうと一番は予想する。同時に、かさかさと乾いた音がすることに気がついた。部屋へ踏み入れたナンバの手には、弁当の入ったビニール袋と、緑の葉っぱの束が抱えられている。笹の葉だ。
「……どうした?」
事情を聞いてほしそうな、わくわくとした顔をしているので、一番は訊ねてみる。
「あそこの八百屋で売ってたんだ。昨日の売れ残りだろうな」
戦利品を自慢するような口ぶりでナンバは言った。その言葉に、たしかに昨日は七夕だったと一番は思い出した。売れ残りの笹の葉を売るなど一体どういう八百屋なのだ、と心の中でだけ突っ込む。ナンバのほくほくした顔を見ると、言葉にするのは野暮な気がしたのだ。
「安かったんだよ。いいだろ」
手に提げた弁当の袋を揺らしながら言葉が続く。売れ残りの葉も一緒に揺れる。一体どちらに対する自慢なのか、それとも両方だろうか。どちらにせよ、嬉しそうなので頷いておくことにした。ナンバは買い物上手である。こうしてお値打ち品を見つけて買ってくることも、じっと値引きを待つことも、一緒に生活するなかで当たり前の光景になっていた。けれど食料でも日用品でもなく、季節の物を買ってくるのは珍しい。そしてそのことが無性に一番を嬉しくさせた。家で、他ならぬ二人で、笹を見たいと思ってくれたのだろう。感謝を込めちらりと笹に目をやる。エアコンの風に揺られ、一日遅れの乾いた葉が、頷くようにそよいでいた。
ひとまず夕食を済ませてしまってから、一番は、願いごとを書かないかと提案してみた。せっかくナンバが見つけてきた笹の葉を堪能したいと思ってのことだった。
「願いごとぉ? いいけど、短冊はねえぞ」
少しだけ食べ終わるのが遅れたナンバが、最後のご飯をもぐもぐと飲みこんでから言った。なんでも、八百屋は短冊までは付けてこなかったのだという。何か適当な紙はないか探したとき、弁当の割り箸の袋が目に入った。
「これに書いて、枝に結んでみたらいいんじゃねえか?」
ふ、とナンバがおかしそうな声を出す。
「短冊っつうより、神社のおみくじだな……」
眉を下げて笑っている。彼のその顔は、お気に入りの映画であったり、何か面白いものを見た時にする表情だということを一番は知っていた。二人で小さく笑い合いながら、箸の袋に向かい合う。
自分から提案したことなのに、すぐには願いごとが思いつかず一番は頭を掻いた。手に持ったボールペンを回してみる。ふと、ナンバはもう決まったのだろうかと気になり、隣を見る。彼は真剣な顔つきをしており、同じく悩んでいるようだった。箸袋をじっと睨んでいる。その寄せた眉根をかわいいと思う。困った、と一番は思い、頭を振った。今度は頭にたくさん願いごとが浮かんできてしまう。
すると、よし!という声が聞こえてきた。再び目を向けると、彼はボールペンを走らせているところだった。うきうきとした様子だ。そっと手元を覗いてみる。袋の狭いスペースいっぱいに、「いつか4LDKの家に住めますように」と書かれていた。書き終えたナンバは満足そうに頷いている。
一番はいつだったか、出会ったばかりのころに二人でした会話を思い返した。不動産屋の前を通ったときの出来事だったはずだ。この部屋に移る前だっただろうか、庭付きの一戸建てに住んでみたい、とナンバが溢したのを覚えている。まだあの願いと交わした話を忘れていなかったのかと思うと、胸のなかに嬉しさが広がっていく。
「良い夢だよなあ」
心からそう思い、声をかける。
「だろ? 何も、ここの次にすぐ越さなくてもよ、いずれってことだ」
そう少し得意げに返してから、ナンバははっと気がついたような顔をした。
「……あ、でも、せっかくならもうちょっと欲張って、豪邸でも願っとくか……? 寝室だろ、書斎とか趣味部屋も作るとして、予備の部屋もほしいだろ……」
指を折りながら言う。その様子がおかしくて、一番は笑い交じりに言った。
「いや、それでも、4LDKもありゃ十分だろ」
「そうか? お前も来るんだから、ちょっと手狭になるだろ」
ごく自然な声色だった。まるで、当たり前のことを言ったような。一番は一瞬、言葉も忘れてナンバをまじまじと見た。念のため、聞き直してみる。
「……俺も来るから?」
「そりゃそうだろ。……8LDKくらいお願いしとくか。でも庭もほしいしな……くそっ、もう書くスペースがねえ」
今度は両手まで使って部屋を数えながら、箸袋とにらめっこをしている。随分な豪邸を夢見ているようだ。そして今もさっきも放った言葉には、少しも疑問を持っていないようだった。
一番は瞬きをした。ここよりうんと大きくなった理想の家のなかに、どうやら当たり前のように、自分も一緒にいるらしい。何度か瞬きをくり返す。動揺と嬉しさがいっぺんに押しよせ、視線が彷徨ってしまう。ナンバはまだのんびりと悩んでいるようだ。自分だけがひどく照れて混乱している状況に、少し背中がもぞもぞとする。いっそ、冗談交じりに指摘してしまおうかとも思った。そうしたらきっと、彼は自分が何を言ったのか気がついて、そしてぶっきらぼうな声色で誤魔化そうとしてくるだろう。たやすく想像がついた。それはきっと可愛い姿だ。見てみたい。しかし、やめておくことにした。自然に出た言葉とあの声色を、ずっと自分だけが覚えておきたいと一番は願った。
動揺から少し立ち直り、一番は箸袋に視線を戻した。早く書かないとナンバに訝しまれてしまうだろう。迷った末、これしかないという内容を思いつく。急いでボールペンを走らせる。
「……俺も書けた」
「お! どんなのだよ、見せてみろ」
まだ部屋数を決めかねているらしいナンバが顔を向けてくる。一番は内心の照れがばれてしまわないことを祈りながら、願いごとを見せた。
『この家に立派な庭がつきますように』
大きな矢印の横に、そう書き添えている。二つ並べるつもりで書いた願いごとだった。結んでしまうから意味がないかと思ったが、細かいことはいいだろう。そもそもが一日遅れの七夕なのだ。
急ごしらえの短冊を読んだナンバは、しばらく目を瞬かせた。それから顔を輝かせて言う。
「……一番! お前、本当にお人好しだな……」
そう言い、肩を軽く小突いてくる。声色から嬉しがっていることが伝わって、声なのに眩しいと一番は思った。ナンバは無邪気に、じゃあ庭には何を植えようかと、新たに浮かんできた悩みを楽しそうに話している。願うまでもなく一緒に暮らす約束をしていることには、まだ気がついていないようだ。ぬるいエアコンの風に当てられ、乾いた笹がまた揺れる。さらさらとした音が心をくすぐる心地を覚えながら、トマトでもどうだろう、と一番は提案した。