絶望パスタ 料理が作られていく音を聞きながら、一番は自宅のソファで項垂れていた。はあ、ともう何度目になるか分からないため息が部屋に響く。
「元気出せよ、もう聞き飽きたろうけど……」
台所にいるナンバが振り返り声を掛けてくる。
「だってよ、既読すらつかねえ……」
「ああもう、ため息やめろ、幸せが逃げるって」
同じくもう何度目になるか分からないやり取りを繰り返してから一番はソファに深く座り直す。そんな様子を見届けると、ナンバは肩をすくめてまた料理に取り掛かった。彼の立つ台所からは何やらおいしそうな香りが漂いだしていて、一番は久しぶりに腹が減るのを感じた。
一世一代の大告白でヘマをやってから、一番はもう何週間も落ち込んでいた。食事が喉を通らなくなったことなんか滅多にないのに、この頃は食欲も落ちている。そんな姿を見かねたのか、ナンバが飯でもどうだと誘ってきたのが昨日の夜のことだった。親友相手に見栄を張ることもないので、正直にあまり外に出かける気にならないと打ち明けると、それなら家まで作りに行くと返事が返ってきた。持つべきものは世話好きの親友だと感謝しながら、一番は素直に甘えることにした。
「ほら、できたぞ~」
甘酸っぱいケチャップの香りを漂わせながら、ナンバが出来立ての皿を運んでくる。今日は珍しく、台所を使わせてくれと頼まれた。てっきりいつものようにカレーを作って持ってくるのだと思っていたが、元気がないときは出来立てがいいという理論らしい。ちなみにカレーはタッパーいっぱいに詰めたものをお土産だと言って持ってきていた。しっかり食えよという念押しとともに手渡されて、今は冷蔵庫に大事にしまってある。
「あったかいうちに食えよ。いただきます」
「……いただきます」
二人で手を合わせて湯気の立つスパゲティを食べる。こうしていると一緒に暮らしていたときが思い出されて、一番は懐かしい気持ちでいっぱいになった。一口分フォークに巻きつけて口に入れると、ケチャップの優しい甘みが広がって無性にほっとする。この味もどこか懐かしく感じられた。胃に温かみを感じると途端に腹が減ってきた気がして、二口めからはがつがつと頬張った。温かさとおいしさと、甘酸っぱい湯気が目に染みて、少しだけ涙目になっていくのがわかった。
「たんと食えよ。ナンバさんお手製、絶望パスタだ」
次第にしっかりと食べていく様子を見てほっとしたのか、ナンバが安心したような表情を浮かべて言った。耳慣れない料理名を不思議に思い一番は聞き返す。
「へつほうはすた?」
「飲み込んでから喋れって。絶望パスタな。元気がないときにはこれに限るんだよ……ってああもう、よく噛めよ」
ナンバに窘められ一番は口いっぱいに頬張った分を慌てて飲み込んだ。一口を欲張りすぎたからか、ぐっと飲み込んだ後に胸の辺りが痛くなった。胸元をとんとんと叩きながらもう一度訊ねてみる。
「なんだよその、絶望パスタって。このスパゲティ、そんな物騒な名前なのか」
「パスタな。まあスパゲティでもいいけどよ。とっておきの逸話があるんだ」
そう言うとナンバはこほんと咳ばらいをして語り始めた。
「大昔の戦いで——クリミア戦争だったっけか、ナイチンゲールが助けにいったやつ。そこで戦況が悪くて皆もうだめだーって落ち込んでたんだ。もうおしまいだってな」
「ふうん」
大仰に話し始めた割には妙にふわりとした語り口がおかしくて、一番は心の中でひそかに笑った。案外うろ覚えで話しているのかもしれない。あまり本人に伝えたことはないけれど、ナンバのこういう愛嬌とでもいうべきところは、いつだって一番に元気を取り戻させてくれる。
ふわふわした話をお供に一番は次の一口に取り掛かった。今度は叱られないよう、少なめにフォークに巻きつける。噛むとピーマンと魚肉ソーセージの歯ざわりがして、具が多めの大当たりの一口だったなと嬉しくなる。
「そんなとき、ナイチンゲールが大鍋をひっさげてこのパスタを振る舞ったんだってよ。あまりの美味さに絶望なんか吹き飛んで、皆士気を取り戻した——そういう話だったな。たしか」
「へえ、大層な話じゃねえか」
残り少なくなってきた皿の上を丁寧にフォークでさらいながら、一番は返事をした。歴史の話はちっともわからなかったが、確かにこのスパゲティは美味い。それこそ、絶望から立ち直れそうと思えるほどに。大昔の人たちもきっとこの優しい味と温かさに励まされたんだろう、そう思うとやたらと嬉しくなって、それからわざわざこれを作って食わせてきたナンバの優しさが染みた。
「どうよ、一番、お前もまだやれるか?」
恋路の話だとすぐわかり、鼓舞された分しっかり返そうと一番は明るく振る舞った。
「おう! いけるぜ、ここで折れちゃいけねえよな」
「そっか。よかったよ」
そう答えるナンバの表情は優しくて、少しだけ泣きそうに見えた。その理由が分からなくて心の内側がざわついた。ざわつきを自分でも不思議に思い、理由が知りたくて言葉を紡ぐ。
「あのよ、本当に……。本当にありがとうな。もう大丈夫だ。ナンバにも、ナイチンゲールにも感謝しなくちゃな。こんな美味いもん食わせてくれて」
口が空回りしたように言葉が出てくる。勝手にナイチンゲールに感謝し始めたあたりでナンバは目を丸くし、それから、我慢できないといった風に笑い出した。
「な、なんだよ……」
「……悪い、すまねえ、っぷ……ふふ、ごめんな、さっきの話、全部嘘なんだ」
「……は?」
「だから全部でたらめなんだ。さっき考えた。別にナイチンゲールは絶望パスタを作ってねえ」
「え?」
「絶望のパスタって料理を出す店があるらしいけど、俺は食ったこともねえ。適当に名前だけ借りた。お前が食ってるのは、具が多めの貧乏ナポリタンだよ」
「……いや、薄々そうじゃねえかと思ってたよ!」
道理で懐かしい味がしたはずだ。これは小料理屋の二階で暮らしていたころ、ナンバがたまに作ってくれたケチャップスパゲティだ。懐具合のいい日には魚肉ソーセージや適当な野菜が入るのだ。その再現までばっちりだった。
「なんなんだよ、信じちゃったじゃねえか……」
「悪かったって。でも味は良かっただろ?」
「まあ、それはな。前作ってもらったときからお気に入りだったし」
「だよな。お前には戦意を取り戻してもらって、射止めてもらわないと困るからよ」
「ああそうだ、既読もつかねえんだった……」
「おい、落ち込むならせめて食い終わってからにしろ、つうかため息やめろって」
調理中もした、もう何度目かわからないやり取りを繰り返す。一番はすっかり心が軽くなっていることに気がついて感謝した。やっぱり持つべきものは世話好きの優しい親友だ。そう心の中で言いながら、さっき一瞬だけ見えた気がした、泣きそうなナンバの顔が頭の奥に焼きついていた。